第3話
見たこともない道をおとうさんは黙って運転し続けた。ぼくは気まずくて、ずっと外の景色を眺めていた。空はもう真っ暗で、道路の電燈がなんだか光る大きなキノコみたいに見える。すっかり空になった金平糖の小瓶をポケットにしまう。口のなかが甘い。
「着いたよ」おとうさんが言って車を止めた。「おかあさんに会いに行こう」
大きな病院が見えた。ぼくはだんだん不安になってきた。
「おかあさん病気なの?」
「ううん、大丈夫だよ」おとうさんがやさしい声でぼくに言った。
「元気ないの?」言ってぼくは自分のミスに気付いた。「金平糖、残してあげてればよかった」そんなぼくをおとうさんは笑った。
「また今度一緒に買いに行こう」
エレベーターに乗って、おとうさんが五階のボタンを押す。三階で一度止まり、女の人と抱っこされた赤ちゃんが入ってきた。
「かわいいね」小声でぼくがそう言うと、おとうさんはぼくのほうを見ないで「そうだな」と言った。
エレベーターを降り、長い廊下のいちばん奥にある部屋の前でおとうさんが止まり、ノックした。なかからはなにも聞こえなかった。
「開けるよ」おとうさんが言って扉を開けた。
「おかあさん!」言ってぼくはおかあさんのほうへ駆けた。おかあさんはベッドの上に座っていて、ぼくを見るなり驚いたような顔をした。眼が真っ赤だった。
「なんでこの子を連れてくるの!」おかあさんが大きな声で言った。「まだ知らなくたっていいことよ!」
「心配してたんだよ、なあ」言って、おとうさんはぼくのあたまに手を置いた。
「おかあさん病気なの?」ただならぬ様子ぐらいわかる。ぼくはもう子どもじゃない。お兄ちゃんになるのだから。我慢しなければ。
「ごめんね。ごめんね」おかあさんは謝り続けた。「そうだよね、もうお兄ちゃんだよね」
「ほら、行ってあげな」おとうさんはぼくの背中を押した。
おかあさんはぼくを抱き締めてたくさん泣いた。おかあさんがなにをかなしんでいるのか。おとうさんがなんで仕事に行ってなかったのか。おかあさんに抱き締められたとき、ぼくにはなんとなくすべてわかった。おかあさんのおなかが元通りぺたんこになっていたから。そこに弟はきっともういなかった。
「あっ」おかあさんに抱き締められながらぼくは言った。「行かなきゃ」
おかあさんの胸のなかを抜け、ぼくは病室を出た。突然のことだったから驚いたかもしれない。おとうさんは廊下へ顔を出してこう言うだけだった。「待ちなさい!」
「すぐ戻るよ!」病院を走っちゃいけないのは知っていたけれど、背に腹は代えられないのだ。廊下を駆けながら上着のポケットのなかを探る。よし、ちゃんとある。
エレベーターは使わず階段を一段飛ばしで駆け降りる。そのまま病院から外へ。
「間に合った」真っ白い雪がしとしと降っている。それがぼくのあたまに触れる度、ぼくの知らない人たちのたのしい記憶がぼくのなかで弾けた。
「きっといるはずだ」すると真っ暗な映像があたまのなかに流れた。
「キミがそうなのかい?」ぼくは空に語りかけた。でも記憶との話し方なんてわからなかったから、ひとりごとみたいになる。「ぼくはたぶんキミのお兄ちゃんだ」
真っ暗な映像はなにも語らず、ずっとぼくのあたまのなかに流れた。それをぼんやり感じていたら、雪にぽつぽつ雨が混じり始めた。
ぼくは慌ててポケットから小瓶を取り出す。それに雪をひとひら入れて、そのまま蓋をする。それからもとのポケットにしまった。
「かなしいけど泣かないよ。ぼくはキミのお兄ちゃんだからね」
そう言ってぼくは大雨に笑った。
降る記憶 久山橙 @yunaji
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