第9話 クイズのカリスマ

「問題。箸は左手で使うが筆記は右手で行うなど、用途によって利き手が異な——」

「クロスドミナンス!」

「正解! うおきちさんお疲れさまです、以上で百問終了です」

 九条くじょうさんは小さく拍手をしてくれる。

 俺はじっとりと額に吹き出していた汗を拭って、一つ大きく息を吐いた。そして崩れるようにパイプ椅子に腰を落とす。

 クイズ百本ノック。時間にすると二十分程度だったと思うが、尋常じゃない疲労感が体を支配している。

「41◯35×24スルー。いいですね、よく一ヶ月でここまで上達しました」

「あ、ありがとうございます」

 入部初日に同じことをやらされたときは確か6◯くらいだった。確かに、自分でも信じられないくらいの進歩だ。

 ……あのノートのおかげだろうか。

 九条さんと榊先輩の恩師が残した『高瀬たかせ雫里しずりの脳みそ』。この一ヶ月の間、俺はそこに書いてあることをとにかく読み、覚え、実践してきた。

「ふん、まだまだよ」

 アーロンチェアに腰掛けそっくり返っているのは石動いするぎサンナ。春先より短く切り揃えられたブロンド髪が窓から入る風にそよがれている。

「あんたが来る前に同じ問題でやったけど、あたしは77◯だったわ」

「あーはいはい」

「ナニその態度は。あたしは先輩なんだからね。わかってる?」

「同学年だろうが」

 と突っ込むのも、もはやお約束になってきた。

「でもうおきちさんも、この難易度帯で正解率4割程度で満足されては困りますよ? まずはスルーが多すぎるのでその改善ですね。クイズで『わかりません』が許されるのはバラエティ番組に出ているアイドルくらいのものです。わからなくても何かしら答える、これはクイズに対するマナーと心得てくださいな」

「うっす」

 といっても、わからない問題で何を答えたらいいのか。

「ちなみにこなちゃんは95◯でした。サンナちゃんも精進ですよ?」

「う……は、はい」

 石動はばつが悪そうに椅子に腰掛け直した。

 くだんさかき先輩は今日は生徒会の事務仕事があるらしく、さっきぷりぷり文句を言いながら部室を去って行った。

 よくまぁクイ研の部長と生徒会を両立できるものだ。俺なんて脳みそノートに書かれてあることを実践するだけで毎日ヘトヘトになっているというのに。

「うおきちさんは理数系、中でも工学が得意なようですね。いや、得意ジャンルに選んだと言った方が正確でしょうか?」

「ええ、そうですね」

 九条さんは見透かしたような笑顔を浮かべている。

 まずは得意ジャンルを一つ作り誰よりも詳しくなるべし。それこそが脳みそノートに書いてあった『初心者がすべきこと』のその一だった。

「いい選択だと思いますよ。クイズジャンルとしてはあまり得意な人のいない分野ですから。お貸ししているノートの著者は、その分野の鬼でしたけどね」

 珍しく、九条さんが苦笑いをした。

「高瀬さんですよね。どんな人だったんですか? ここの卒業生ですか?」

「そうですよ、ふふ」

 何か、含みのある表情だった。

「あんた知らないの?」

「え、石動は知ってんのか?」

「そりゃ知ってるわよ。あんた、クイズやるんだったらあの人のことくらい知っておかなきゃダメよ。しず——」

「そうだ!」

 両手をパチンと打って、九条さんは何か閃いた様子だった。カバンからスマホを取り出してぽちぽち操作をし始める。

「よし。二人とも今週末、予定を空けておいてくれる?」

「なんですかまた、突然」

「ちょっとしたクイズのイベントがあるのです。まあ、詳しくは当日に、ね」

 仔細しさいらしく微笑んで、九条さんはスマホを伏せた。

 何かまた、いやーな予感の影がじりじりと俺にいざり寄ってくるのを感じた。


  ****


 そして土曜日。

 燦々と降り注ぐ日差しと前日の雨が残した湿気により、六月の路上は蒸せ返るような暑さになっていた。場所は秋葉原。結局また何も教えてもらえないまま、俺はその暑さの中を指定されたイベント会場に向けてとぼとぼと歩いている。

 メイド。語源は未婚女性を意味するmaiden、対義語はボーイ……無意識にそんなどうでもいい情報が脳裏に浮かんでくる。これも脳みそノートの影響だ。

 ——『初心者がすべきこと』その二。目に映るものすべてに補足・トリビアなど言えるように訓練していく。そうした日々の積み重ねがあってこそ、真のクイズ王はここぞというときに奇跡の一問を引き寄せるのである——

 大げさな話だ。クイズ王が奇跡の一問に頼ってちゃダメなような……。

 えーっと、あれはカレー屋だ。カレー……えー、カレーソースを入れておくあの魔法のランプみたいなやつの名前、なんだっけ。

 なんとかボートだったような……くそ。思い出せない。モヤモヤする。

 そんなこんなで答えの出ないまま歩くこと五分少々——途中、適当なゲーセンで涼みたい衝動を振り切りながら、俺はなんとか目的地に着いた。

 午前十一時。ジャスト集合時間にも関わらず、そこには石動がぽつねんと一人で立っているだけだった。

「おはよう石動」

「おはよう。二十六秒遅刻よ。あんた相変わらず下っ端という自覚が無いみたいね」

「秒くらいいいだろ……」

 辺りを見回す。やはり九条さんと榊先輩はまだみたいだ。

「二人ならもう中に入ってるわよ」

「あ、そうなん?」

「楽屋に挨拶に行ってくるんだと。あたしは顔見知りじゃないし、ここであんた待ってようと思って。ほら、行くわよ」

「楽屋?」

 俺の疑問符を無視して石動はすたすたと建物に入っていく。

 ひっついて中に入る。広々としたエントランスには涼しい空気が吹き込んでいて心地よかった。休日なだけあって色々と催しをやっているようだ。少しばかり混んでいる。

「あのー石動さん? そろそろ俺にも今日の目的ってやつを俺に教えてくれてもいいのでは?」

「うっさいわね。それ見なさい」

 石動の指差す方にはピンク色のポスターが貼ってあった。

 見出しにはでかでかと、


 ——しずりぬファンイベント 脳活女子の集い——


 と書かれてあり、下には薄く笑うスレンダーな女性が映し出されている。そのイタリア彫刻のようなダイナミックなポージングから、一瞬ヨガ教室か何かのポスターかと思った。

「しずりぬ、さん」

「そう。驚いた? あんたが読んでた資料の作成者はあのしずりぬさんなのよ」

 えっへん、と言いたげに胸を張る石動。

「…………誰?」

「…………は?」

 三秒くらい、そのまま見つめ合った。

 そしてもう一度言った。

「しずりぬって、誰?」

「……あんた本気で言ってんの? マジ?」

 それは呆れを通り越して憐れみのような目だった。

「そんな有名な人なの?」

「はぁ……ため息しか出ないわ。しずりぬさんは日本一有名なクイズプレーヤーよ。あんた普段テレビとか見ないの? ゴールデンタイムのクイズ番組に引っ張りだこ、それどころか最近は料理番組とかワイドショーにまで呼ばれてる超人気タレントでもあるの。動画サイトでやってる『現役東大生しずりぬの脳みそチャンネル』は登録者数二百万越え。クイズという世界をメジャーに押し上げた言わばクイズのカリスマね」

「そ、そうなのか」

 全然知らなかった。確かに、最近テレビ全然見ないからな……。

「しかしそんな人が先輩たちの恩師なのか」

「その辺はあたしもよく知らないけど。楽屋に挨拶に行くってことは結構親しいんでしょうね」

 会場入り口まで来たところで榊先輩に遭遇した。

 ジーンズにTシャツというラフな出で立ちで、クイズモードのときとは全く違う気のいいお姉さんのような雰囲気を鎧っている。

「お、きたきた。サンナ、うおきち、こっちだ」

「おはようございます、榊先輩」

「なんかご機嫌ですね、部長」

 九条さんの姿が見当たらない。

「まあな! 久しぶりにしず先輩に会えたのでな! 実はしず先輩にお前達のことを話したら、ぜひ会って話してみたいと言ってるんだが、来るか?」

「え、ぜひぜひ」

 石動が一も二もなく食いついた。

 その超有名人を知らないという後ろめたさもあって俺は正直気乗りがしなかったが、一人で残るのもなんだし、二人の後ろをこそこそついて行くことにした。

「なあ、石動」

「なによ」

「カレーを入れる魔法のランプみたいなやつ、何ていうんだっけ?」

「は? なに急に」

 思い出せないと他のことが頭に入らないくらい気持ちが悪くなる。

 俺がちゃんとクイズをやり始めて、最も強く感じているストレスだった。


「あら、かわいい坊やね」

 東大生クイズプレーヤーしずりぬこと高瀬たかせ雫里しずりが、俺を見て発した第一声がそれだった。

 カーキ色のドレープシャツに細身を包み、すらりと長い足を組んで椅子に腰掛ける姿は、まるで誌面を飾るモデルのようだった。コンディショナーのCMで見るような流れる黒髪も、ポスターに映る姿そのままだ。

 ただ一つ俺のイメージと大きく違ったのは、

「凛々しくて良い顔してるじゃなーい。うふ。ただクイズやるにはちょーっと知的さが感じられないかも。ちゃんと脳みそ鍛えてる?」

 ぐい、と身を乗り出して目と鼻の先まで顔面が寄ってくる。

「いま脳でカロリー消費しなきゃ、カラッカラに乾いてみっともない二十歳迎えちゃうわよー」

「ぐっ……」

 つん、と鼻先を小突かれた瞬間、ふわりと良い香りがした。

 なんだ。なんなんだこの人!

「雫里さん。うちの後輩をからかうのも程々にしてくださいな」

 そう言いながらも、九条さんはくすくすと笑っている。

「だーって、なんかかわいいんだもんこの子ー。あ、ごめんなさいね、無視してるわけじゃないのよサンナちゃん」

「い、いえ! お会いできて光栄です! しずりぬさん。いつも楽しく、ど、動画を拝見させて頂いてます」

 日頃はツンツンしている石動が珍しく緊張しているようだった。

「あららー、ありがと〜。くっだらない動画ばかりでごめんなさいね。うちのマネージャーがハエのクソみたいな企画ばかり持ってくるもんだからこっちも大変なのよ〜。でも応援してくれる君みたいなイケ脳女子がいてくれると、アタシも頑張れるのよありがとね〜」

 まさに立て板に水の勢いで喋り倒す高瀬さんの視野から、俺はこっそりはみ出して、楽屋を出ようとした——

「ちょっと」

 のが、バレた。

「逃げないでよ〜うおきちくん?」

「い、いやぁ別にそんなつもりは。そろそろイベント始まりますし、高瀬さんもそろそろ準備しなくていいんですか?」

「あ?」

 瞬間、背筋が凍った。

 な、なんだ? 思わず目を逸らしたが、高瀬さんのその眼光は榊先輩以上の鋭いエネルギーを放っていた。

「高瀬さんっつったか? 坊や?」

「え? あ、あーいえ聞き間違いかと。しずりぬ、さん」

「うふん、それでいいのよ? このしずりぬ、呼び方には人一倍うるさいことで有名だから気をつけてちょうだい?」

「……はい」

 俺は体中の汗が冷えて風邪をひきそうだった。

「ところでカナメちん。今日のイベントの趣旨をご承知?」

「ええ。脳活女子の集いですよね? 知的女子は美的女子。クイズや謎解きを通して賢く美しい女になろう、っていう」

「うんうんそうね。で、そこに男の子連れてきてどうするつもり?」

「あ」

 九条さんが大口を開けて俺の方を見た。

「うふふん。カナメちんのそういうたまに出る天然なとこ、しずりぬ好きよ〜。そういうことならアタシに任せて!」

 体をくねらせてきゃぴとポーズを取るしずりぬを見て、また嫌な汗が背中を伝った。

「はい坊や、こっちきなさーい」

「え、あ。ちょっと!」

 来なさいと言っておきながらその手は俺の腕を掴んできて、強制的に脇に置いてある箱型のフィッティングルームに押し込まれた。

「はい。これとこれとこれね」

「あのー……冗談ですよね?」

「アタシ冗談は嫌いなのよ。商談は大好きだけど。うふ。あらーアンタ以外とスネ毛濃いのね。さすがにスカートは勘弁してあげるわ」

「……」

 あ。

 だめだ。

 これ、マジで逃げられないやつ。


  ****


「意外とお似合いですよ」

「まあ悪くはないな」

「きもっ」

 三者三様の意見を受け止めて、俺はイベント会場に足を踏み入れた。

 袖がやたら細いボーダーTシャツと丈長のカーディガンを着せられ、下はスキニーパンツに履き替えさせられた。極めつけはストレートロングのフルウイッグだ。胸元にくる毛先が凄まじく鬱陶しい。

「なんでこんなことに……」

「落ち込まないでください。雫里さんにメイクまでしてもらって、私は正直うおきちさんが羨ましいですよ?」

「そっすか」

 九条さんのコメントは何の慰めにもなっていなかった。

 会場は中型の映画館くらいはある広さで、既にほぼ満席状態だった。事前に九条さんが取っておいてくれたチケットの番号を探し、四人並んで座る。

 周りは本当に女子しかいなかった。それも若い、十代二十代ばかりだ。あのオカマ先輩目当てにこれだけ集まるものなのか。しかも脳活女子なんて意味不明な趣旨で。見渡すとしずりぬの顔がプリントされたお手製と思しきうちわを仰いでいる人までいる。この日本は大丈夫なんだろうか。

 しばらくすると、袖からスーツを着た小太りの男が現れた。

「お待たせいたしました。これより、しずりぬファンイベント。脳活女子の集いを開催致します! 本日の司会を努めます、しずりぬマネージャーの川島です!」

 舞台上に照明が灯る。

 司会の言葉にはまだまばらだった客席の拍手が、追って現れた主役の入場によって豪雨のような大歓声に変貌した。

「どもー! しずりぬでーす!」

 キャーとかワーとかその他文字に起こせないような嬌声がそこここで勢いよく噴き出し、うねりのような熱気が会場をめぐっている。頭がぐらぐら揺れる。なんだこれは、野外フェスか何かか。

「今日はしずりぬのイベントに来てくれてみんなありがとね〜。でもみんな、ちょっとはしゃぎすぎよーん。喉痛めないようにね〜」

 ひとしきり舞台上をくねくねと歩き回りながら手を振って、しずりぬは中央のテーブルに置かれた早押しボタンを手に取った。そして、聞き慣れたピコーンという音が広い会場を抜けていって、

「お、おお……」

 思わず感心してしまった。

 会場中の女性がその音に反応して、ピタリと騒ぐのを止めたからだ。

「よく訓練されたファンたちですね」

 石動のその表現はこの現象にぴったりだった。

「さてクイズ脳ガールたち。先週の『大東京クイズリーグ』は見てくれたかしら。最後の勝利者インタビューのときにアタシとーってもとっても大事なことを言ったんだけど、編集でカットになってたからここで言うわね。番組見てるだけじゃダメよ! テレビばっか見てっと脳みそ腐っちゃうんだからね!」

 はい! と悲鳴のような返事が色んなところから聞こえてくる。

「ということで、今日はアタシの日頃の脳活トレーニングを伝授していっちゃうぞー。あと時間余ったら保湿ケアの話もしちゃうぞー」

 ……。

 高瀬さん……しずりぬのキャラはさておき、だ。事前に石動から聞いていた話は嘘ではないようだった。

 世間はいま、この一人のオネエクイズ王の牽引によって空前のクイズブームにあるということ。しかもその主な層は若い女性であるということ。

「凄い人だな。本当に」

 榊先輩の声は心底嬉しそうだった。


  ****


「しずりぬに勝て! 早押しクイズ二十対一!」

 司会の男が声を張り上げる。会場の熱気は再び本日の最高潮を更新しそうなほどだった。

 しずりぬの演説とやたら詳しいクイズ講座が終わり、今日はこの辺で終わりかと思った矢先のこと。この盛り上がりを見るに、どうやらここからがメインのようだった。

「みなさんご静粛に。ルール説明をします。これより、ランダムに選出された二十名のチケット番号を読み上げますので、呼ばれた方は舞台上に上がってください。二十名のお客さん連合でしずりぬにクイズで挑んでもらいます!」

「うふん。手加減はしないからね〜」

 今度はおおーという感嘆のような声が上がった。

「お客さん連合は二十名皆さまに早押しボタンをお渡しします。解答できるのは押した人だけ! 見事しずりぬに勝つことができれば、特製『しずりぬ缶バッチ』を二十名皆さまにプレゼント致します! ただし、誤答をしてしまったお客さんの解答権はなくなりますのでご了承ください!」

 中央スクリーンに艶やかなポーズで微笑むしずりぬの写真入り缶バッジが映し出され、また大きな歓声が上がる。横で小さく「ほ、欲しい」と呟いた石動に、俺は言葉にできない憐れみのような感情を抱いた。

 欲しいか? あれ。

「それでは厳正なる抽選で選ばれた二十名をお呼び致します。Aの11番。Cの15番。Dの2番。Dの15番。Eの7番——」

 呼ばれたのであろう女性があちこちで飛び上がって喜んでいる。

「ねえ魚住」

「ああ、皆まで言うな石動。わかってるさ」

 Eの7番。俺の座っている席にそう書かれていたような気がしなくもないが、きっと気のせいだ。そうに違いない。

 俺は今一度、深く深く椅子に腰掛け直した。

「あんたまさか、前に出ないつもり?」

「んー? 何のことだ?」

「呆れた。しずりぬさんに悪いと思わないの?」

「う、うるせーな! 出られるわけないだろ、この格好だぞ!」

「確かにキモいけど、ここで行かなかったら余計にキモいわよ! 突っ立ってるだけでいいから出ときなさい! で、缶バッチ貰えたらあたしに寄越しなさい!」

「目的それかよ!」

 言い争っていると、横から係員らしき強面の黒スーツがやってきた。ガンを飛ばすように俺をじっと見て、指でくいっとサインを送ってくる。

 早く前に出ろ——と、その目は言っていた。

「……マジで?」


 俺以外の参加者の目は一様に爛々と——いや、ギラギラと輝いていた。

 絶対に取るわよとぶつぶつ呟いている人もいれば、静かに深呼吸をして集中力を高めている人もいる。ここにいる人のほとんどはただのしずりぬファンであって、いわゆるクイズプレイヤーではないだろうが、その意気込んだ表情はクイ研メンバーのガチモードに比肩するレベルだった。……どんだけ欲しいんだ、あの缶バッチが。

 どうもしかし、俺が参加者唯一の男だということは周りにはバレていないようだった。皆これから始まるクイズとその景品にしか興味が無いのだろう。

「それでは早速、早押しクイズ始めていきたいと思います!」

 舞台上に上げられた俺たち二十人は二列に並べられた長机の前に立たせられている。目の前にはお馴染みに早押しボタンだ。

 舞台左側に一人で立つしずりぬの前にも同じボタンがある。ただ、それは俺たちのものとは少し形が違うように見えた。

「ここで追加説明をします! 先ほどは言いませんでしたが、このクイズ、しずりぬにはハンデがあります。しずりぬに渡した早押しボタン、これは押すと青色のランプが点灯し、五秒後にその色が赤に変わる仕組みになっています。しずりぬがボタンを押し、青色が点灯した時点で問読みは止まりますが、赤色が点灯するまでにお客さんの中の誰かが押せば、なんと解答権はお客さんの方に渡ります! 全十問の内、二問取ることができればお客さん連合の勝ちです!」

 なるほど。つまり早押しクイズと言いつつ、俺たちサイドからするとしずりぬより早く押すメリットは無いということだ。

「あらーん。結構重いハンデじゃないの」

 困ったような表情を作っているが、内心余裕そうに笑っているのが何となくわかる。

「それでは早速第一問いきますよ」

 皆が一斉に早押しボタンに指を置く。


「問題。地球の最高峰はエベレスト。では、き——」


 さすがの早押しだった。

 青色ランプが灯ったしずりぬは苦笑いのような表情を浮かべて、何かを恥ずかしがるように頬に手を当てている。

「あらーん。思ったより簡単なのね」

 ピン、ピン、とカウントするような音が毎秒響き、五回目の音でランプが赤色に変わった。

「うふ。答えは金星の最高峰、マクスウェル山ね」

「正解!」

 んー、とか、あーとか、何とも言えない吐息が聞こえてくる。

「川島ぁ! もっと面白い問題出しなさいよ!」

「え、ええっ。もう問題用意してあるんで今更変えられないっすよ!」

 しずりぬは司会の川島さんを後ろから蹴り飛ばした。ファンにとっては見慣れたやり取りなのか知らないが、それだけで会場はどっと笑いで包まれた。


「だ、第二問いきます。日本に生息する二種類のヤマネコ——」


 押したのは、再びしずりぬだった。

 青色のランプが煌々と光る——しかし、

「おーっと、ここでお客さんのランプが光った! 押したのは、Dの2番の方!」

 俺のすぐ横の女性だった。

「イリオモテヤマネコ?」

「残念ですが不正解!」

 またカウントが再開され、しずりぬのランプが赤色に灯る。

「ツシマヤマネコ。一応解説しておくと、この手の知名度に大きく差があるものって、マイナーな方が問われるっての覚えておくといいわよん?」

「は、はい。ありがとうございます」


「第三問。日本昆虫学会のシンボルマークにもなっているトンボで——」


 押したのは三度しずりぬだった。

「ちょーっと、聞きすぎちゃったわね」

 そう自信なげに言った矢先、すぐにボタンを押す人がいた。

「オニヤンマ!」

「ん〜……残念!」

 立て続けにボタンを押す人が現れる。


「赤とんぼ」


「ギンヤンマ?」


「イトトンボ!」


 缶バッチ欲しさに、客連合は自然的にそのような対処に出た。要はみんなで次々とボタンを押し、知ってるトンボをとにかく答えまくるブルートフォース攻撃だ。こちらは数的有利なのだからその作戦自体は間違っちゃいないだろう。だが、

「残念ですが、違います」

 五秒カウントまでに解答できた六名はいずれも不正解だった。


「ムカシトンボよーん」


 そして腹が立つくらい鮮やかに、しずりぬが正解を掻っさらう。

 げに恐ろしき、オカマのクイズショーだ。


  ****


 そして、第七問が終了した。

「えー……ここまででお客さん連合は◯無し、誤答失格者十四名という状態です」

「あららん。悲惨ねぇ」

 しずりぬが他人事のように感想を述べる。なぜこの人がこれほどまでに女子から人気を集めているのか甚だ疑問だ。

「あんまり人数減ってくると、素顔が注目されて困る人もいるみたいだしぃ? うふ」

 嫌な視線を送られた。

 この人は……俺は黙って静かにこの場をやり過ごそうとしているというのに。

「では続いての問題いきます」

 一応、指はボタンに置く。でも答えるわけにはいかない。ここで俺の野太い男声を披露したら、すぐに警備員につまみ出されてしまう可能性が高い。


「問題。化学式C9H16Oで表される、——」


 興に乗ったか、しずりぬは得意のヨガポーズを取りながらボタンを押す。そしてそれの何がいいのかわからないが、また黄色い声が飛び交った。

「おっと?」

 その声をかき消すような音が一つ。

 ピコン、と。

 俺からやや離れたところにいる若い女性だった。羽織った革ジャンから伸びる柳のような細腕が、ボタンにしっかりと伸びている。

「Kの5番さんがボタンを押している! 答えをどうぞ!」

「ノネナール」

 思わず息を飲んだ。

 この人……

「大正解! 化学式C9H16Oで表される、加齢臭の原因物質と考えられているアルデヒドは何か、という問題でした。お客さん連合はこれでついに1◯獲得です!」

 一斉の拍手が滂沱ぼうだとして降り注いだ。

 照れ臭そうに笑うその人の横顔を見て、俺の朧げな気づきは確信に変わった。

「見事正解したお客さん、ぜひお名前を教えて頂けますか?」

「あ、はい。汐路と申します」

 ——汐路雪。

 先日の新人企画に居た、高師台の一年だ。

 なぜ、ここに……。

「うふ、凄いわね汐路さん。化学問題でこの押しについてこられるなんて、しずりぬびっくらこいたわ〜」

「あ、ありがとうございます! 今日はしずりぬの大ファンなので来ました。まさか一問取れると思ってなかったので、すごく嬉しいです!」

 ……なんてこった。

 俺のこと、バレてないよな? ヤンキーみたいな見た目してるが汐路さんも超進学校の子だ。記憶力は良いだろう。もし俺があのとき企画に参加していた森之目高校の魚住だとバレたら……学校を跨いだ笑いものになってもおかしくない。

「それではラスト二問やっていきましょう! あと一問取れば、お客さん連合は賞品獲得です!」

 こめかみから冷たい汗が伝った。


「問題。味覚、聴覚、しか——」


 しずりぬのランプが光る。心なしか、その表情には少し不快そうな色が見えた。

 これは……いくら何でも早すぎる。文章構成的にはこのあと視覚嗅覚触覚まで列挙されて、その内ほにゃららなものはどれ、と問うてくる可能性が高いように思えるが、肝心のほにゃららの部分が何もわからない。これじゃ——

「おっと、ここでFの9番さんがボタンを押した!」


「触覚!」


 不正解のブザーが鳴る。

 いや、待てよ……そうか。残りのメンツは俺含めて六人。つまり……

「続いて押したのはAの11番さん!」


「嗅覚!」


 つまり、選択肢を一つずつ潰していけばいい。動物の五感は当然五つなんだから。しらみ潰しに答えていけばいつかは当たるはず。

「残念不正解! ……っと言った直後にまたもやランプが点った!」

 缶バッチ獲得への執念なのか、不思議と客同士の示し合わせもできている。


「視覚!」


 また不正解のブザーが鳴り、また、ボタンが押される。


「聴覚!」


「んー残念っ!」

 そして、解答権を持つ客は残り二人となった。

 俺と、汐路雪だ。

 汐路が俺の方に目配せをするのがわかった。俺は……男の俺は声を発するわけにはいかないんだ。最後の選択肢はお前が押して答えてくれっ。

 ——願いが通じたのか、ピン、と音を立てて汐路のランプが点った。

「……」

 汐路の戸惑ったような横顔を見たとき、俺の脳に一つの違和感がせり上がってきた。

 残る五感は味覚だけだが……本当にそれが答えでいいのだろうか。

 想定通りなら問題文は——味覚、聴覚、視覚、嗅覚、触覚の内、食する物質に応じて認識される感覚はどれか——のような形になる。だが、それはここまでの問題の難易度に合ってるだろうか? 何か、おかしい。


「第六感」


 汐路が出した答えはそれだった。

 なるほど。つまり彼女は、五感以外の感知能力を総称して俗に何というか、のような問題と睨んだわけだ。どうやら感じていた違和感のベクトルは同じだったようだが、

「……残念!」

 その読みも誤っていたらしい。

 直後にしずりぬのランプが赤色に変わる。

「んー、汐路ちゃんのクイズ脳はとてもすばらしいわ。しずりぬ感激で涙ちょちょ切れそうになったわよー。で〜も」

 気持ちの悪いウインクを飛ばしてきた。

 汐路はそれを真剣な眼差しで受け止めている。

「知識がまだまだよ! 精進なさい!」

 そして、しずりぬはむかつくほど唇を尖らせて解答した。


「貴婦人と一角獣」


 正解のブザーが鳴り響く。

「しずりぬお見事。『味覚』、『聴覚』、『視覚』、『嗅覚』、『触覚』、『我が唯一つの望み』の6枚からなるフランスの連作タペストリーを何という、という問題でした! ちょっと難易度高かったですかね〜、お客さん申し訳ない!」

 豪快に笑ってごまかす司会の川島さんに向けて、客席から小さなブーイングが寄せられた。

 知識。そうだ。俺たちがやっているのはクイズ。大抵の場合、知らないことにどんな推測を当てはめていったって意味はない。

「さあ、気を取り直して最終問題! 誤答失格者大量により挑戦できるのはなんと、Eの7番さんだけだ!」

「……え?」

 あ。

 しまった。

「ふふふ、よろしくね〜。?」

 その魔女のような微笑みを見ると、この人は狙ってこの状況を作り出したのではないだろうかという邪推が生まれてきた。

 周囲からの視線が痛い。

 男だってバレてないよな、大丈夫だよな。

「それでは最終問題に参ります!」

 一応ボタンに指を置く。いや、答えるわけにはいかないんだが。


「問題。カレールーを入れ——」


 ウソだろおい。

「な、なんと先に押したのはEの7番さん! しずりぬに押し勝った!」

「うふ。やるじゃないの坊や」

 ……。

 反射的に、押してしまった。

 日々の積み重ねがあってこそ、真のクイズ王はここぞというときに奇跡の一問を引き寄せるのである——か。

 俺は大げさに一つ咳払いをした。


「グ、グレイビーボート!」


 それは裏声というよりインコの声真似のようだったと、あとで榊先輩が言っていた。


  ****


 缶バッチは石動にやった。

 それは俺が持っていても仕方がないものだし、何よりグレイビーボートを答えられたのは他でもない石動のおかげだったのだから、こうするのは当然のことと言える。

「いやーよくやったうおきち!」

 帰りの道すがら、俺は榊先輩に何度も何度も褒められていた。

 なんだか今日は終始、怖いくらいの上機嫌だ。

「しず先輩に押し勝ってウイニングアンサーを取るなんて、さぞ気持ち良かっただろうなぁ。私の目にはハッキリ見えたぞ、ちょっと悔しそうに顔を歪めるしず先輩が」

「いや、ちょっとじゃなかったですよ」

 正解の瞬間、露骨に俺の方を睨んできていた。あの見る者を射殺すような切れ長の目……榊先輩は間違いなくあの人の系譜を受け継いでいる。

 しかも舞台を降りるとき、去り際に

 ——覚えときなさいよ坊や——

 としっかり言われたのだ。

 あれはもうオネエではなかった。そんなトーンじゃなかった。

 あの人のノートを見る度に今日のそのシーンがフラッシュバックしてきそうで辛い。もう読むのやめようかな。

「今日のお祝い、この店なんてどうでしょう?」

「お。いいな!」

 九条さんと榊先輩がスマホ画面を見てそんな話をし始めた。

「お祝い? 何のですか?」

「決まってるじゃないですか、うおきちさんの初勝利祝勝会です!」

「な……いいですよそんな」

 初勝利。

 言われて初めて気がついた。確かにちゃんとクイズを始めてから、いや、始める前も含めて、クイズで勝つという経験は初めてのことだった。

 今日のあの企画をちゃんとしたクイズ対決と見なしていいのかは疑問だが。

「初勝利の相手が国内最強のクイズ王しずりぬだなんて、最高のデビューですね!」

「物は言いようですね」

「そんなことないですよ。ハンデ付きだろうが、人数差があろうが、ウイニングアンサーが裏声だろうが、勝ちは勝ちです」

「まだ裏声の件、掘り返しますか……」

 思い出したくもない。黒歴史確定だ。

「ということで、祝勝会へレッツラゴーです!」

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早押しの女王は押し負けない 右ひざ @migihiza

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