『指』

 ばた、ばた、と音がする。

 それは、アングリマーラの首飾りの音だ。

 生きた人間の指を切り、それを九十八集めて作った首飾り。

 そうしてそれは今、九十九個目を迎えた。

 アングリマーラは首飾りを外し、赤茶けた紐を解いた。そうして、たった今殺した男の、まだ温かい指をそこに通した。実に手慣れたものだった。


「のこりひとつ」


 アングリマーラは低い声で呟くと、剣の血を振るい落とした。

 月だけが、全てを見ていた。



 アングリマーラは、本当の名をアヒンサーと言った。

 アヒンサーと呼ばれていた頃の彼は容姿端麗で、頑強な体を持ち、そしてなにより優れた才知で人々に知られた。

 アヒンサーは、あるバラモンの元で聖典を学んでいた。

 このバラモンには五百人の弟子がいた。アヒンサーは、その中で最も優秀な青年だった。

 アヒンサーは苦しみを知らず、そうして穢れも知らなかった。

 ただただ師を尊敬し、たゆまぬ努力を続けていた。

 なにもかもが順調だった。

 順調だったのだ。

 ある日、バラモンの夫人がアヒンサーを誘惑した。

 彼女はずっと前からアヒンサーを好ましく思っていたらしい。

 夫が留守の隙を見計らい、夫人はアヒンサーに甘い言葉をかけた。


「師を裏切ることなどできません」


 アヒンサーは丁重に断わった。

 夫人は怒った。己の矜持を傷つけられたと考えたのだ。

 そして、夫人はアヒンサーを謀った。

 夫人は己の衣服を切り裂き、そうして帰ってきた夫に泣きついた。


「アヒンサーが私を襲ったのです」


 はじめ、バラモンは怒り狂った。

 そうして、衝動的にアヒンサーを殺してやりたいと思った。

 けれども徐々に、バラモンの心には迷いが生じた。

 彼の脳裏には、品行方正なアヒンサーの姿があった。どれだけ怒っていても、生真面目で朴訥とした愛弟子がそんな蛮行に出るとは到底思えなかったのだ。

 ここでバラモンがアヒンサーの話を聞いていれば、なにか違う未来があったかもしれない。

 しかし、そんな幸運はなかった。

 迷うバラモンの元に、夫人の話を聞いた他の弟子達が集まってきたのだ。

 日頃からアヒンサーを妬んでいた弟子達は口々に、彼についてある事ない事をまくしたてた。

 それを聞いて、バラモンは意を決した。


「アヒンサーを殺そう」


 弟子達が去った後、バラモンはそっと呟いた。

 けれども、バラモンが自らの手を汚すわけにはいかない。

 そこでバラモンは考えた。


「お前に、最後の秘術を教えよう」


 バラモンは言った。


「これは修行の最後にふさわしい、特に危険で恐ろしい秘術だ。けれどもこれを行えばお前の修行は成就し、多くの人々を救うことができる。その覚悟はあるかね」

「もちろんです、先生」


 アヒンサーはうなずいた。

 バラモンは、アヒンサーの手に一振りの剣を握らせた。


「この剣で百人の指を切り、首飾りを作る。そうして、それを神に捧げるのだ」

「百人の指を」


 アヒンサーは青ざめた。

 バラモンは厳めしい顔でうなずいた。


「これが最後の秘術だ。できるかね」


 アヒンサーは、握りしめた剣を見下ろした。

 真新しい剣は氷のように冷やかに輝き、アヒンサーの顔を映した。


「できなければ、お前はこのままだ」


 バラモンが畳みかけた。

 アヒンサーは剣を握りなおすと、ぎこちなく、けれども決然とした面持ちでうなずいた。


「やります、先生」


 アヒンサーは答え、踵を翻した。

 残されたバラモンはその背中をじっと見送り、そうして空を見上げた。


「きっと誰かが殺してくれる」バラモンは呟いた。



 一人目を殺した時、嘔吐を繰り返した。

 二人目を殺した時、震えが止まらなくなった。

 けれども三人目を殺した時には、もう何も感じなくなっていた。

 そして十人目を殺した時には、もうアヒンサーという青年はいなくなっていた。

 そこにいたのは、アングリマーラだった。

『指の首飾り』という意味の名を持つ、至上の殺人鬼だけがそこにいた。

 アングリマーラは夜、動く。

 月だけが照らす道、明かりのない寂しい道。そこが彼の居場所だった。

 そうして不用心にもなわばりに入ったものの首を掻き切る。


「すまない、すまない」


 最初の頃は泣きながら指を刈り取ったものだった。


「これも修行を完成させ、人々を救うためなのだ。許してくれ」


 やがて、涙は涸れた。

 代わりにアングリマーラの心に湧き上がったのは怒りと、憎悪だった。

 何に対する怒りなのか、憎しみなのか、わからない。それが赤い血に濡れた己の手と、己の首を縁取る醜い首飾りを見るたびに燃え上がる。

 修行は完成へと近づいているはず。

 なのに、どうしてか、心は焼け焦げていくように思えた。


「畜生! 畜生!」


 酔った男の首を刎ね、アングリマーラは吼えた。


「まだか! まだ終わらないのか! まだ、指はたったの四十一! 百人までは程遠い! 畜生め、おれがなにをした! おれはこんなに苦しんでいるのに!」


 剣を振り回し、アングリマーラは絶叫する。

 どす黒い咆哮に獣は怯え、人は魔物の声だと騒いで逃げ出した。

 月だけはその叫びに震えることはなく、無情に殺人鬼を見下ろしていた。



 アングリマーラは、ねぐらで指を数える。

 最初に落とした指から、一つ一つ。眠る前の習慣だった。

 最初のほうの指はほとんど腐っていて、骨の部分を紐に括りつけている。先ほど切り落とした指はまだ真新しく、血を滴らせていた。

 それを律儀に、丁寧に数えていく。


「九十九」


 アングリマーラは呟く。そうしてまた、最初から指を数えていく。

 間違いがあってはいけない。

 だからその夜は何度も何度も繰り返し、アングリマーラは指を数えた。


「九十九」再びアングリマーラは呟く。


「残り一つ。あと一つで、成就するのだ」


 なにが成就するのだろう。

 頭の片隅で、誰かが囁いた気がした。

 それは優しい母か、高潔な師か、遠い日のアヒンサーだったのか。

 あるいは、眠れぬ夜がもたらした幻覚か。


「百人の指を切り落とし、作った首飾り」


 そんなものを、神は本当に求めているのか。

 己の修行は本当に、完成へと近づいているのか。完成へと近づいているのならば、どうしてアングリマーラはこんなにも怒りと憎しみにまみれているのか。

 剣を振るうごとに、遠ざかってはいないか。

 善きもの、高きもの、清らかなもの。

 その全てに、自分は背を向けているのではないか。

 そうだとすれば、どうする。


「そんなはずはない」


 アングリマーラはゆるゆると首を横に振る。


「先生が嘘を吐くはずがない。おれは確かに、秘術を進めている」


 そうしてアングリマーラは聖典の一節をそらんじようとした。

 けれども骨身に染み込んだはずの言葉が、どうしてか口から出てこない。あれだけ繰り返した聖典の内容を思い出そうとするたび、頭にぼんやりとした痛みが走った。


「おれは先生に……」


 そして、アングリマーラは気付く。

 師の顔が思い出せぬ。

 それだけではない。

 母親に父親、親しい友人、故郷の景色。

 なにもかも、霧の向こうにあるようだった。

 アングリマーラは頭を抱えた。

 やがて獣のような唸り声を上げると、彼はゆっくりと体を地面に横たえる。

 眠りは、一向におとずれない。

 思えばずいぶん前から、眠っていないような気がする。

 戯れにもう一度記憶を辿ってみようとしても、脳みそにかかった霧は深いまま。

 ……そのくせ刃の輝きだけは、鮮やかに思い出すことができるのだ。



 気付けばもう一度、夜が来ていた。

 アングリマーラはのそりとねぐらから這い出て、獲物を探す。

 近隣の村や町の人々はアングリマーラを恐れて、近頃まったく夜に出かけなくなっていた。

 聞こえるのは木々のざわめき、遠い獣の声だけ。

 月と星のほかに明かりはない。

 たっぷりと湿気を含んだ空気を吸い、アングリマーラは剣を手に歩く。

 街道に出た。

 そして、見た。

 寂しい街道の向こうから、一人の男が歩いてくる。

 質素な衣から見るに、修行者のように見えた。

 満月を背負うようにして、静かに森の方へと歩いてくる。顔ははっきりと見えなかった。

 緩やかで、それでいて颯爽とした足取りだった。

 武器の類は持っていない。それどころか、ろくに警戒をしている様子もなかった。


「こいつ、さてはおれを知らないな」


 アングリマーラは呟いた。


「最近は皆おれを恐れて、この街道を避けているというのに」


 見ている間にも、男は森へと足を踏み入れようとしていた。

 こんな夜更けに一体、森に何をしに行こうというのだろう。気になりはした。しかし、もはや他人の事情などアングリマーラにとってはどうでもいいことだ。

 アングリマーラは男を百人目に定めた。

 そうして、森へと入る男の背中を追いかけた。

 鬱蒼と生い茂る木々の隙間には、細い道が伸びている。

 男は歩く。

 アングリマーラは走る。

 風はなく、獣の声も聞こえない。青い闇の中には、奇妙な静寂があった。

 男は歩く。

 アングリマーラは走る。

 月は雲に隠され、星はない。なのに、不思議と辺りの景色ははっきりと見えている。

 男は歩く。

 アングリマーラは走る。

 そうして、ようやくアングリマーラは気付いた。

 ただ緩やかに歩いているだけの男と、優れた体力に任せ走っているアングリマーラ。

 二人の距離が、まるで変わっていない。

 それを知った瞬間、アングリマーラはさっと血の気が引くのを感じた。


「おい! おい! そこの男! 止まれ!」


 アングリマーラは思わず怒鳴っていた。


「さては妖術使いか! よくもこのおれを謀ったな! 殺してやるぞ!」


 男は、止まらなかった。

 流れるような足取りで、ただひたすらに森の奥へと向かっている。

 アングリマーラは怒り狂った。

 男の纏う静けさがどうにも気に障った。人を殺すたびに感じていた憤怒と憎悪とが一気に胸から溢れ出し、アングリマーラの魂を焦がした。


「止まれ! 止まれと言っているのが聞こえないのか!」


 阿修羅のような形相でアングリマーラは駆ける。

 剣を振り回し、男に追いすがる様は、さながら牙を剥き出した餓狼の如く。

 しかし、それでも追いつけないのだ。

 どうやっても追いつけないことを悟ったアングリマーラは獣めいた雄叫びを上げた。


「止まれ! 止まれ! 止まれェッ!」


 その時、アングリマーラは囁きを聞いた。


「わたしは止まっている、アングリマーラ。おまえこそ、止まりなさい」


 歩きながら、男は言う。


「止まっているだと! 止まれだと! 貴様は歩いている、おれは止まっている! 一体何を言っているんだ、妖術使いめ!」

「いいや、おまえは動いている」


 男は言う。その姿が、薄闇の向こうに消える。

 アングリマーラは追いかけようとした。けれども、どういうわけか体が動かない。


「わたしの心は、静寂のうちにある。何故なら、わたしは命を奪う行いを断ったからだ」


 男の柔らかな声が、どこからか聞こえた。


「ところがおまえの心は炎のうちにある。命あるものを焼き、己すらも焼く炎のうちに。……おまえは止まっていない、アングリマーラ。だからおまえは苦しいのだ」


 アングリマーラは頭を抱えた。

 太い喉から、獣のような唸り声が響いた。

 男の静かな声が体の内に染みいり、どこか深いところで谺しているような気がした。


「アングリマーラ、もう気が付いているだろう」


 声が聞こえる。

 どっとこめかみから汗が噴き出した。身のうちで、よくわからない感情が暴れている。

 足場がぐらぐらと揺れているような気がした。

 ふらつき、アングリマーラは叫んだ。

 怒り、憎悪、嘆き、苦しみ、痛み、虚しさ。全てがない交ぜになったような咆哮だった。


「止まりなさい、アングリマーラ」


 絶叫の中で、男の囁きが確かに聞こえた。

 アングリマーラは、崩れ落ちた。

 急に、己の体が重たくて仕方がなくなって、地面に膝をつく。

 生まれたての子鹿のように、手足が頼りない。呆然と開いたままの目から、涙が滴り落ちた。


「気付いていた」


 アングリマーラは喘ぐようにいった。

 ざくりと地面を踏んで、男が正面に立った。

 その顔を見上げることもできず、アングリマーラは涙を零した。


「気付いていた。おれは……私は、気が付いていました」


 師と夫人と弟子達とが己を謀ったこと。

 百人の指を捧げたところで、己の修行は成就しないこと。

 己によって誰も救われないこと。

 アングリマーラは聡明だった。だから、なにもかも気付いていた。

 けれども、目を背けていた。

 気がついていて、信じたくなくて、知らないふりをした。


「私は、なんということを……」


 アングリマーラは頭を抱え、髪を掻き毟り、嗚咽を漏らした。

 その肩に、男はそっと手を添えた。


「わたしの元に来なさい、アングリマーラ」


 男は静かな、そして優しい口調でアングリマーラに囁きかけた。

 アングリマーラは動きを止めた。そうして真っ赤な目を見開き、男を見上げた。


「私を、迎えるというのですか」

「迎えるとも」男はうなずいた。

「私は、私は、救いがたい所業を行いました……地獄で何度も焼かれ、何度も切り裂かれるような惨いことを……そんな、そんな私を、あなたは迎えるというのですか」

「わたしの元で、修行を積みなさい」


 アングリマーラの肩に触れたまま、男は言う。


「おまえにも、道は開かれている」


 アングリマーラは呆然と男の顔を見つめた。


「なんと、尊き人よ……」


 アングリマーラの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。震える手でアングリマーラは男の手を取り、泣きながら己の額にこすりつけた。


「あなたの名前は……」

「わたしに名があるとすれば、それは釈迦牟尼しゃかむに


 釈尊は柔らかな口調で答え、アングリマーラの手をそっと引き、立ち上がらせた。


「わたしが、おまえの師となろう」


 ぶつりと紐が切れる音がした。

 それはアングリマーラの首を縁取っていた指の首飾りが、ひとりでに切れた音だった。

 しんしんとした月光が、二人を包み込むように照らしている。

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伏見七尾 @Diana_220

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