伏見七尾

『覚』

 陽光がかんかんと照る日のことだった。

 男が一人、酒の詰まった瓶子へいしを持ってふらふらと歩いている。絹の衣を着て、金の冠を被り、豪奢な飾りを身に付けた、気品のある男だった。

 男は梵天といった。

 つまりは神だ。

 慈悲深く、残酷で、律儀で、気まぐれで、優しく、冷たい。

 そうして万象の法に通じた神だった。

 不意に、梵天は立ち止まった。


「よう。今日もやっているな」


 視線の先――青々と葉を茂らせた木の下で、一人の男が胡座を掻いていた。

 風雨にさらされ、擦り切れて色あせた衣を纏っている。しかしその精悍な面立ち、凜然とした佇まいからは、なんともいえぬ気風が感じられた。

 この男はその様子から、近くの村人達から『修行者』と呼ばれていた。

 修行者は目を瞑ったまま、梵天に答えない。

 しかし梵天は構わず彼の前に座り、軽く瓶子を持ち上げた。


「どうだ、一杯やらないか。こんなに暑い日だ」

「いらない」修行者が答えた。


 梵天は肩をすくめて、瓶子の栓を抜いた。

 これ見よがしに喉を鳴らして酒を呑み、口元を拭ってみせる。


「うまいぞ。しかも、一口呑めば寿命が百年延びる天上の酒だ」

「寿命が延びたところでなんになろう」


 修行者は静かに答えた。

 ぐびぐびと酒を呑んでいた梵天は、その一言に眉をひそめた。


「またおかしなことをいう。寿命が百年延びればそれだけのことができるだろう」

「百年延びれば、百年分の苦しみが増える」


 修行者の言葉に、梵天は閉口した。


「そして百年掛けて積み上げたものも、崩れるときは一瞬だ。そうやって、世の中は移ろっていく。……長命に何の意味があろう。生きることに、何の意味があろう」

「おかしなやつだ」


 梵天は首を振り、酒に口を付けた。


「意味がないというのなら、お前が今こうして座っていることになんの意味がある」

「それを知るために、座っている」

「キリがない」


 梵天は首を振り、また酒を飲む。


「郷里に家族を残してきたんだろう。こんな無益なことをしていると知れば、悲しむぞ」

「すでにこの身は世俗の身にあらず」


 修行者は言った。


「不安はないのか。本当に己が答えを得られるのかという不安は」


 修行者は答えなかった。

 すると梵天は少し優しい口調になって、「なにも恥ずべきことはない」と言った。


「おれはお前のように求道の誓いを立て、しかし達することのなかったものを何人も見た。恥ずべきことはない。神にも、人にも、できることじゃあないのだ」

「できるではなく、やるのだ」


 修行者は目を開き、梵天を見つめた。

 大きな瞳には、深い水のように底知れぬなにかが宿っていた。


「やらねば、ならないのだ」


 修行者はゆっくりと言った。


「例えこの身が朽ちたとしても、わたしは必ず答えに至ろう」


 梵天はじっと修行者の瞳を見つめた。

 やがて立ち上がり、ゆっくりと背を向けた。


「信じられん」梵天は言う。


 それは自分が幾星霜もの年月を経ても成し遂げられなかったこと。

 それを目の前の、三十年と少ししか生きていない人間が、できるなどと。


「信じられん」

「あなたが信じられずとも、わたしは成し遂げよう」

「わかってないな。このおれが信じられんと言うことはな、つまり不可能なのだ」


 そう言って、梵天はゆっくりと修行者に背を向けた。

 その背中に、修行者は問うた。


「また来るのか」

「どうだかね。もう来ないかもしれんよ」


 梵天は振り返らずに答えた。

 やがてその姿は真夏の陽炎のように揺らめき、消えた。

 修行者はしばらくじっとそれを見つめていたが、やがて再び目を閉じた。


 また別の日。梵天は瓶子を手にふらりと現れた。

 雨上がりだった。

 ぬかるんだ地面を進むにつれ、梵天の表情は険しいものになった。


「穢らわしい連中がきたな」


 梵天は毒づき、酒に口をつけた。

 その時、黒い竜巻のようなものが梵天の眼の前に現れた。

 それは蛇のごとく、梵天へと襲いかかってきた。

 梵天はただ、竜巻を睨んだ。

 その背中に光の輪が閃く。

 そこから飛ぶ光線に触れた途端、竜巻は溶けるように消え去った。


「マーラの手下め。救いがないな」


 唸り、そこで梵天はふと修行者のことを思い出した。

 梵天は神だが、修行者は人間だ。魔物に襲われればひとたまりもない。

 早足で、修行者のもとにむかった。

 心配もあった。

 そして神らしい、ちょっとした加虐的な感情があった。


「奴がおれを見たら、泣いて助けを乞うだろう。そうしたら少しばかり良い気味だ。奴も所詮は人間だったということだからな……」


 梵天は呟きながら、輝く宝輪を懐から出した。

 果たして、修行者はいた。

 目前には、蟲と大蛇と腐乱死体を掛け合わせたような化け物がいた。

 化け物は身をのたくらせ、今にも修行者に襲いかかろうとしているように見えた。


「マーラめ」


 梵天は叫び、宝輪を投げつけようとした。

 しかしそれよりも早く、マーラの体が燃え上がった。

 マーラは悲鳴とともに、消えていった。

 梵天は目を見開き、マーラがいた場所を見た。

 そして、振り返った。

 修行者は相変わらず胡座を掻き、目を閉じている。


「お前がやったのか」

「ひとりでにそうなったのだ」修行者は言った。

「わからん。何故マーラが消える」

「万象は必ず滅ぶ。マーラにとっては、それが今だったのだろう」

「そんなばかな」


 マーラがいた場所を見つめたまま、梵天は呟く。


「人間にマーラを降せるものか」


 修行者は何も言わない。

 雨が再び降り出した。

 神である梵天の衣は濡れず、修行者の体ばかりが冷たく濡れていく。


「きっとまた来る。次はマーラも本気だろうから、お前もおしまいだぞ」

「マーラも前に同じことを言っていた」


 梵天は黙った。遠雷の音が響く中で、修行者は静かに「彼との問答にも学ぶことはある」といった。


「マーラから学ぶことだと」

「欲とは何か。恐れとは何か」


 修行者は言って、うなずいた。


「知れば知るほどに奥深いものだ」

「あんな穢らわしきものに学ぶなど、ありえんよ」


 梵天は呟き、空を見る。


「人間にマーラを降せるものか」


 再度呟く。見上げた天を、稲妻が切り裂いた。


 予感がした。

 だから、梵天はその日は夜明け前に自らの宮殿を飛び出した。

 期待と不安とが胸を満たしていた。

 修行者が本当に答えを得たのなら、喜ばしい。

 しかし、神の誇りは踏みにじられるだろう。

 人が答えに到ることは、神々が費やした幾星霜もの求道の時が無駄になることを意味する。

 考えただけで、梵天は身が張り裂けるような恐怖を感じた。

 しかし、梵天はまた一方で高をくくっていた。


「人にできるものか」


 疾駆しながら梵天は呟く。


「神に、できなかったんだぞ。たかだか三十四、五の人の子に、」


 目の前が開けた。

 梵天は口を閉じた。

 いつも通りに修行者は座っていた。

 背中から夜明けの日差しが差し込んでいる。

 しかし梵天には、修行者の体そのものが光り輝いているように見えた。


「わかったのか」梵天は問う。


 修行者はただ一つ、うなずいた。


「教えろ」梵天は言う。

「お前が本当に辿り着いたというのならな。まぁ、嘘に決まっているだろう。神でさえわからなかったんだからな。さあ、言え。笑ってやるから、言え」


 梵天は早口でまくし立てた。

 期待、不安、焦燥――あらゆる感情がないまぜになって、今にも爆発しそうだった。

 修行者はしばらく、動かなかった。

 やがて梵天が焦れたとき、躊躇うように口を開いた。

 ――無。

 声もなく、言葉もなく。

 その口から放たれた静寂に、虚を突かれる。

 梵天は一瞬、眉をひそめた。

 直後、梵天は限界まで目を見開いた。


「嗚呼」


 ただそれだけ、梵天は呟く。

 静寂は雷鳴のように身の内の深淵に轟いた。

 梵天は、崩れ落ちた。

 目から、熱い涙が滴り落ちた。

 神は、人によって答えに辿り着いた。

 それは梵天の積み上げた幾星霜もの求道の時が全て否定されたことを意味した。

 けれども、悔しさも悲しさもない。

 その身にあったのは、ただひたすらに歓喜だった。濡れた目に映る空の青いこと、頬を撫でる風の芳しきこと、地面のあたたかなこと――。

 梵天は、知った。

 己がたった今、目覚めたのだと。

 そして、目の前の――修行を終えた男の偉大さを。


「……おれは、あなたを見誤っていた」


 梵天はゆっくりと、こうべを垂れた。

 冠が落ち、地面に転がった。


「人は幸運だ……あなたが世にいるのだから」

「……わたしは、これを人に教えることをためらっている」


 男の言葉に、梵天は顔を上げた。

 朝日が逆光になって、その表情は窺い知れなかった。


「これは深淵であり、流れに逆らうものだ。人に理解できるものではないかもしれない……神であるあなたでさえ、一瞬で理解することは叶わなかっただろう」

「教えるべきだ」


 梵天は言い切った。


「千に万に言葉を尽くしてでも、人の子に広めるべきだ。さすれば無明の闇のうちにいる子も救われよう。……そのためなら、おれも千に万に力を尽くそう」

 この通りだ、と梵天は頭を下げる。

 神が、人に請い願う。かつての梵天ならば、まず鼻で笑うような浅ましい行為だ。

 しかし目覚めた梵天は、それを厭わない。


「頼む、目覚めた人よ。世に真理を伝えるのだ」


 男はしばらく沈黙していた。

 やがてゆっくりと立ち上がり、梵天の前に膝をついた。


「……いと高き者よ。顔を上げておくれ」


 梵天は顔を上げた。

 男はあの底知れぬ瞳に慈悲の光を湛え、梵天に語りかけた。


「あなたのいう通りにしよう。千に万に言葉を尽くし、四方に車輪を転がすようにして、衆生に伝えよう。それが私の生まれた意味ならば」

「……感謝する、目覚めた人よ。きっと千年先の子らも、あなたに感謝するだろう」


 梵天は深くうなずく。

 どれほどの酒を飲んでも、今日ほど満足することはなかった。

 男と梵天は立ち上がった。

 梵天は男の顔を見つめ、「そういえば、あなたの名をおれは知らない」と言った。


「名乗るべき名がわたしにあるのならば」


 男はしばし逡巡し、答えた。


釈迦牟尼しゃかむに――それがきっと、わたしの名になるのだろう」


 それが、世界でもっとも素晴らしい目覚めを迎えた男の名前だった。

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