夏祭りの夜 「KAC7」
薮坂
恋とラムネと熱帯夜
それは最高の目覚めだった。
8月中旬の熱帯夜。エアコンのタイマが止まって、暑くて夜中の2時に起きてしまったのにも関わらずだ。
寝汗で髪がおでこに張り付いていても。Tシャツが汗で背中に張り付いていても。ひどい寝癖で髪が逆立っていても。それでも最高の目覚めには違いない。
2日前からずっと、私はこの幸せな目覚めを体験している。それは何故か。答えはとてもシンプルだ。
枕元のスマホに手を伸ばす。ラインを開いて、彼とのトークを表示させる。それが私の、最近の目覚めのルーティン。
「今度の花火大会、一緒に見に行かないかな?」
「望むところだ!」
彼からのシンプルなその返信。それを見て私は、また幸せな気分になる。彼とのトークが残っている。ということは、これは夢じゃない。現実だ。それが私の、最高の目覚めの要因。つまり、良いことがあれば私の目覚めはいつも最高だってことだ。単純だって言われても別に気にしない。だってそれは事実なのだから。
今日は、その待ちに待った花火大会の日。と言っても今は当日の午前2時、花火大会まではまだまだ時間がある。
これは彼と初めてのデート、と言えるかも知れない。いつも私たちはデートからかけ離れた遊びばかりしていたから、こういう遊び方は新鮮だ。
今日はおしゃれをして出かけよう。お気に入りの浴衣を着て、可愛い下駄を履いて。彼が見てくれるといいな。可愛いって言ってくれるともっといいな。なんて妄想しながら、エアコンのスイッチをつけてタオルケットに包まった。
ぐふふ。我ながら気持ちの悪い笑い声が漏れる。仕方ない、それほどまでに楽しみなのだから。
よし、そろそろ眠ろう。今日は忙しくなるはずだから。私はスマホのディスプレイの明かりを落とす。
次の目覚めも、最高のものに決まっている。
今日は特別な日。大好きなワタルくんと見る、初めての花火大会の日。幸せな気持ちを抱いたまま、私はまた眠りに落ちて行った。
──────
その日の午後5時ちょっと前。夏だから陽は長く、まだ充分に空は明るい。それにやっぱり暑い。
約束の場所に私は、随分前から到着していた。この街にこんなに人がいたなんて、と思うほどの人出。みんな楽しそうにしている。
私もそんな楽しそうな人のひとりだ。浴衣に下駄という花火大会にぴったりの服を着て。
5分もしないうちにワタルくんがやってきた。ワタルくんは今時珍しい、冒険に命を懸けているちょっと変わった男の子だ。いつも冒険に出る時はスーパーヒトシくんみたいな格好であったりするのだけど、今日は純粋な普段着。やっぱりこれは、とてもデートっぽい。なんかちょっぴり恥ずかしい。
「よう、ルコ。待たせたな」
「今来たところだよ」
「今日は誘ってくれてありがとう。今日、伝説の型抜き屋台が出るんだろ?」
「うん、毎年この日だけね。ワタルくん、型抜きやったことは?」
「小学校の頃、別の型抜き屋台でやったことはある。最近、ここの花火大会には来てなかったんだ」
「私は毎年来ているよ。花火大会と型抜き屋台のセットは、私にとって夏の風物詩なんだ」
「夏の風物詩、か。いい響きだな」
そう言って笑うワタルくんの顔を見て、私は胸を撫で下ろす。やっぱり勇気を出して誘って良かった。もちろん、誘うのにはとても勇気が要った。断られたらどうしようなんて、いつもの臆病な自分がマイナスのアドバイスをする。
だけど私は。どうしても、ワタルくんと一緒に花火を見たかった。だから臆病な自分を封殺して、なけなしの勇気を振り絞ってワタルくんにラインを送ったのだ。
あの時、勇気を出して誘って良かったと本当に思う。その結果が、今からの楽しい時間。私は自分で自分を褒めてあげたいと、初めて思った。
「ルコ、そろそろ行こうか。型抜き屋台の他も、せっかくだから廻ろうぜ」
「ラムネが飲みたいな!」
「やっぱり冒険仲間とは趣味が合うな。よし、まずはラムネを飲みにいくぞ!」
意気揚々と言うワタルくん。私はその横顔をちらりと盗み見る。やっぱり彼の笑顔は本当に素敵だ。
今日、言おう。ワタルくんに、好きだと言葉で伝えよう。私の密かな計画。それを実行に移すのだ。
──────
それから私たちは。その花火大会の夏祭りを目一杯楽しんだ。まずはラムネを飲んで、次は射的屋。その次に行ったのは金魚すくい。他にもかき氷を食べたり、ベビーカステラを食べたり。本当に最高のひと時だった。
そして。ついに今日の、名目上のメインイベント。型抜き屋台に到着する。
型抜き屋台は、最近縁日でも見かけなくなった屋台だ。薄い板状の脆いお菓子に、描かれた様々な型。それを針などで綺麗に刳り貫くことが出来れば、型の難易度に応じた景品が貰える。私はこれが昔から好きだった。
だけど。型抜き屋台、まさかの休店。張り紙に、型が全て水に濡れてしまって営業出来ないと書いてある。こんなことってあるのか。残念。
「ルコ、どうする?」
「これは、仕方ないね。他の型抜き屋はないし」
「楽しみにしてたんだろ」
「来年やればいいよ。夏はまた来るんだし。それよりも、せっかくだし花火を見よう?」
「あ、そうだ、今何時だ? 電話のバッテリが切れててな、時間がわからないんだ」
屋台を廻るのに夢中で、気がつかなかった。空にはすでに夜の帳が下りている。時刻は午後7時20分。あと10分ほどで、花火が始まる。
「あと10分で花火が始まるよ」
「よし、それじゃ見るか」
「うん。夢だったんだ。こうして、ワタルくんと2人で花火を見ることが」
「僕と?」
つい勢い余って言ってしまった。計画してた順番と違う。花火を見ながら告白しようと、そう思っていたのに。だから私は、咄嗟に言った。
「は、花火! 花火を見ながらもう一度ラムネを飲もうよ。私、買って来るね!」
「あ、おい待てルコ!」
「花火のよく見える広場で待ってて!」
私はラムネを求めて走る。下駄だからかなり走りにくい。でも、ラムネを飲みながら花火を見るっていうのは、初めから決めていたこと。だからこれがないと話にならない。
ちょうど花火が始まる時間帯だったから、人の波に逆らうように進むことになる。全然進まなくて、ラムネを手に入れた時は、始まりの花火が打ち上がった頃になってしまった。
お腹に響く重低音。花火の爆ぜる音。
見上げると、空には大きな菊花火が咲き誇っていた。
急がないと。私はラムネを2本抱えて、広場を目指す。そこで致命的なミスに気がついた。
花火がよく見える広場で待っていて。私が言った言葉。そもそもその広場のどこに、ワタルくんはいるのだろう。それにワタルくんのスマホは、電源が切れていると言っていた。これでは合流できない。どうしよう。
花火はさらに打ち上がる。音が重なり、私の胸を打つ。早く行かないと。早くワタルくんと会わないと。花火の勢いを借りて、好きだと伝えようと思っていた。だから。
花火が終わるまでに、ワタルくんに会いたい。会わなきゃならない。
私はもう一度、休店中の型抜き屋台の前に戻ることにした。迷ったら最初の位置に行く。ワタルくんに教えてもらった冒険の基本。
私はもう一度走る。お願いそこにいて。そう思いながら、私は走る。
「──ワタルくんっ!」
果たしてそこに、彼を見つけた。私の息は切れているけれど、大きな声でそう叫んだ。でも、その声は花火の轟音に掻き消されて。彼の耳には届かない。
だから行かないと。彼の隣に。
私が走り出そうとしたその瞬間。
ワタルくんの手を取って、走り出した女の子が見えた。
──ユリちゃんだ。孤高の人で、ワタルくんと元々仲が良い、クラスメイトの女の子。
ユリちゃんは、そのままワタルくんを何処かへ攫って行ってしまう。
「待って、ワタルくん!」
私はもう一度、ワタルくんの名前を叫ぶ。でも花火の音は凄まじい。私の小さな声なんて、届くはずがない。
追いかけなければ。先約は私だ。私がワタルくんと花火を見る約束をしていたのに。
だけど、足が一歩も動かない。どうして。どうして動かないの。
視界がゆらりと揺れた。いや違う、視界が滲んだのだ。
気がつけば私は泣いていた。大粒の涙を流して泣いていた。
わかっていた。そう、これが横恋慕だということは、初めからわかってた。
滲む視界で、駆けていく2人を見やる。もう届かない、その絶望的な距離。
私の思いは届かなかった。ただそれだけ。そう、それだけ。だから元の状態に戻っただけ。
夜空に咲くこの菊花火のように。私の思いは潔く、夜の闇に吸い込まれるように消える。
その場に崩折れそうになるのを、私はなんとか堪えた。負けた時ほど胸を張れっていうのも、ワタルくんに教えてもらったことだから。
だから毅然とした態度でいよう。これはある種の始まりだから。私の恋が、終わってしまって。全てがリセットされて。今日の夜、家で泣きに泣きまくって、涙がもう出ないほどに泣いたなら。きっとスッキリ出来るはず。
そうすれば。明日の目覚めも、最高のものになるのかも知れない。いや、最高のものにしよう。全てを忘れて、一度リセットする。もう一度、初めからやり直すのだ。
私はまだ、直接振られてはいない。そう、振られた訳ではないのだから。だからまだ、この恋の話が全部終わった訳ではない。
涙を流しながら、私は手にしていたラムネを2本とも開けた。ポポン、という小気味好い音が鳴り、泡の弾ける音がする。
そのラムネを、私は口いっぱいに呷る。
夏の味がした。
ちょっとしょっぱい、夏の味が。
夏祭りの夜 「KAC7」 薮坂 @yabusaka
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