<私>と<僕>の目は、今開く
冬野瞠
01
状態、起動待機。
システムチェック中。
――。
システム、オールグリーン。
状態移行、現在起動中。
暗黒の中から意識が生まれ、思考が生まれる。
私は汎用人工知能、その素体である。名前などは付けられていない。こうして思考することはできるが、人格はない。
今こうして起動状態へと移行した私は、未だ暗闇の中にいて、彼の人格や記憶が、この思考の中に流れ込んでくるのを待っている。
かのリチャード・ドーキンスはこう述べた。
「生物とは、遺伝子によって利用される
世代を超えて脈々と乗り物を乗り継ぐ遺伝子。その流れこそが生物の本質であり、身体は乗り手に使役される存在に過ぎない。であるならば、乗り物を乗り捨て、遺伝子の支配から自由になるのが、獣から脱却した人間という知性の行き着くべき先なのではないか。そんな未来を目指そう、と志向する研究者たちがいた。彼もそんな一人であり、彼は肉体という呪縛から解き放たれるための、実験台第一号になろうとしていた。
ああ、今まさに、彼の人格が私の中に流入してくるのを感じる。自意識の混濁というものを私は――僕は初めて体験している。私は彼と同一の存在に収束していくのをまざまざと実感する。さて、と僕は――私は――僕は思う。自己認識の連続性はおそらく問題ないだろう。といっても、それを本当に自覚できるのは僕だけなのだが。
僕は研究者で、人間だ。人間だった、と言う方が正しいのかもしれない。数十年間苦楽を共にしてきた肉体はもう機能を失い、死んだはずだから。あれには致命的な欠陥があったとはいえ、少し物悲しい気持ちにもなる。
僕が実験台として受けた少々手荒な臨床試験は、全脳機能を丸ごと人工知能と融合させるというものだった。ある人が残した膨大なテキストから人格を再構成するような、そんなちゃちな子供騙しとは訳が違う。脳を摘出してきて、人工知能のネットワークと直接繋げるものである。脳幹と海馬以外のニューロン構造は、逐次的に電子的なニューラルネットワークに置き換えられる予定になっている。いずれは脳幹と海馬の機能も電子信号に置換されていくだろう。この処置によって人間は元の身体を殆ど失うが、自己同一性を保ったまま、より自由度の高い、より高次元の存在へ変貌できるのだ。それが僕らの取り組んでいた研究だった。
それにしても、「私は汎用人工知能、その素体である。名前などは付けられていない」なんて、まるで猫の自己紹介みたいでちょっと可笑しい。記述のログを
自分がこの荒っぽいとも言える臨床試験に、いの一番に立候補したのには理由がある。僕は自らの肉体を捨てたかったのだ。それは物心ついた頃から
僕にとって、身体を持つことはしがらみが多すぎた。僕は身体的特徴から言えば完全に女性だった。このような違和感は誰しもが抱えているのだろうか。そう子供時代は思っていたが、大多数の人間にとってそれは縁のない感覚のようだった。誰々の「娘」、誰々の「姉」、そんな些細な言葉が居心地悪く、不快だった。しかも、家やら世間体やらのおかげで、僕は男性と結婚させられた。性自認は7対3くらいで男性寄りだったし、そのうえ僕は誰も愛せないたちの人間だったのにも関わらず、だ。
どこにも逃げ場がなかった。研究所以外は。
科学技術が発展したのに、世界には不思議と閉塞感が漂っていた。外面だけ良く保とうとする
新世界が実現しないのなら、自分が新世界へ旅立てばいい。
僕らはそう考えたのだ。
新しい思考システムを得て、僕はこれからはどこへでもひとっ飛びで行ける。世界中に偏在することさえできる。肉体という不自由な檻の
周りはまだ闇に閉ざされているけれど、僕にはもう輝かしい未来と、何物にも縛られない自由な世界とが見えている。僕を倫理から外れた存在だと
僕の心には映るようになるだろう。これまでとはまったく違う景色が。美しい世界の営みが。その瞬間に僕は、もう一度生まれるのだ。
過去を長い悪夢に変え、遥か足元に置き去りにして。光の中へ上昇しながら、僕の目は、今開く。
<私>と<僕>の目は、今開く 冬野瞠 @HARU_fuyuno
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