おはよう僕の彼女

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おはよう僕の彼女

 朝目が覚めると真っ先に玄関へと向かう。

 そこにあるのは濃いブルーのスマートな美しい金属。


『お兄ちゃん、そこのウエス取って』

『ウエス? この布切れのことか?』

『あーあ、布切れだって。雰囲気台無し』


 1年前までユカがやっていた朝の儀式を今は僕が受け継いでいる。


 チェーンの一コマ一コマに丁寧にオイルを差す。そして余分なオイルをウエスでぬぐう。


「行ってきます」


 家族に声をかけて玄関を飛び出し、『彼女』と共に朝のキン、とした空気を切り裂いて国道を駆け抜ける。


 僕の『彼女』に名前はない。

 それはたった1人の妹、ユカがこの世からいなくなるその日まで乗っていた美しいクロスバイク。


 ユカの形見なんだ。


 ・・・・・・・・・・・


「おはよう、ヒロキ!」

「ああ、おはよう、ネコ」


 今朝も渋滞がちな国道の車をブチ抜きながら僕との合流地点までやって来たクラスメートのネコ。彼女のニックネームの由来は、自転車通学生の背後から自慢のロードバイクで猫のように音もなく忍び寄ってくるから。

 車がまばらに走る程度の騒音の中だと、パーツの整備が完璧なネコのロードバイクは走行音がほぼしないのだ。


「ヒロキ、早くクロスバイク卒業しなよ・・・って無理か」

「分かってて訊くなよ。僕は今乗ってるこのクロスバイクが好きなんであって、使えなくなったらママチャリに戻るから」

「あーあ。せっかくこうして鍛えてあげてるのに」

「ネコ。すまんね。感謝してるよ」

「はは。でー、今日の目標タイムは?」

「んー。10分」

「よっし。行くよー!」


 これは僕とネコの毎朝の儀式。

 合流地点から僕たちの通う高校までサイクリングロードがずっと続く。遠慮なくペダルを踏みに踏めるその道を、毎朝ロードバイクのネコとクロスバイクの僕とでタイムトライアルするのだ。


 この儀式の初まりは、1年前、ユカの死がきっかけだった。


『・・・ヒロキ、今塾か? すぐ市民病院にきてくれないか』

『父さん? どうしたの? 会社は?』

『・・・ヒロキ、あのな・・・』

『なに?』

『ユカが死んだ』

『え?』

『・・・学校の裏の踏切で、特急にはねられた。今病院だが、もう・・・』


 はっきりとした遺書ではなかったけれども、はねられる直前、スマホからこんなツイートをユカはしていた。


『いじめの無い世界に生まれたかった』


 ユカは即死だったようだ。遺体の損傷が酷かったけれども、顔はいつものユカのまま、きれいな長いまつ毛で目を静かに閉じていた。


 高価なものを欲しがらないユカが唯一ねだったのがこのクロスバイクだった。

 大切な相棒と一緒に「いじめのない世界」へ旅立とうとしたのか、特急の前にユカが漕ぎ出したクロスバイクはあらゆるパーツが損傷していた。


 ただ、不思議なことに、フレームそのものは塗料は削れ傷はあるものの折れたりヒビが入ったりもしていなかった。


『ネコ。ネコってさ、自転車詳しいよな。頼みがあるんだけど』

『うん・・・』

『妹が乗ってた自転車、直せないかな』

『・・・いいよ。やってみる』


 ネコは行きつけのサイクルショップとも掛け合いながら、僕のバイト代で賄える範囲のコストで自転車を組み直してくれた。


 パーツもできるだけユカの仕様と同じように。フレームの塗装も、元どおりの濃く深いブルーとなって蘇った。


『きれいな自転車ね』

『うん。ネコ、本当にありがとう・・・色はブルーだけどこの自転車、女の子だな』

『うん・・・そうだね』



 自転車に関しては全く素人だった僕にクロスバイクのメンテナンスから乗り方までもネコは指導してくれた。

 そしてこうして通学時間を利用してのトレーニングにも付き合ってくれている。行きも帰りも。


 僕とネコの関係を誤解しているクラスメートもいるけれども、それはない。

 強いて言うなら僕らは『自転車友達』だ。


「はいー、減速ー」


 ネコがトンネル手前で合図をする。

 海沿いのサイクリングロードなので、途中電車用のトンネル脇を間借りする部分があるのだ。

 トンネル内は道幅が狭いので、徐行しないといけない。因みにタイム計測はこのエリアは除外している。


「あれ?」

「どうしたネコ」

「真っ暗だよ」


 トンネルに入って入り口からの日の光が薄まるぐらいの奥まで来た時、闇が段々と深まっていくのが分かった。


「照明が切れてるのかな」

「でも、全部よ」


 仕方ないのでデイパックから夜間用のランプを取り出してハンドルに装着した。


「ねえ、ヒロキ。長くない?」

「うん。いつもは3分ぐらいで出るのに」


 5分は経過している。

 一向に出口の光も見えてこない。


「ねえ。やっぱり変だよ」

「うーん。でも、道を間違える筈もないだろ?」

「あれ? 線路がないよ!?」

「あ・・・どういうことだ!?」


 いつの間にか道幅は広まり、僕とネコが並走可能なスペースができていた。

 そして、後ろから何か猛スピードで近づいてくる気配を感じた。


「わ!」


 僕とネコの真ん中のわずかな隙間を押し分けるように衝撃波が走った。

 駆け抜けていったのは、隊列を組んだ2台のロードバイク。


「なんだかわかんないけど、抜かれてそのままじゃ女がすたる! せっ!」

「あ、ネコ!」


 僕らも隊列を組んで先を行くロードバイクを追った。ランプだけを頼りに多少の恐怖心は抑えて全力で踏んだ。


「速い・・・!」


 ネコがこう言うのはよほどの時だ。僕はネコのスリップストリームで引っ張ってもらっているのでクロスバイクでも3台のロードバイクになんとかついて行けている。


「あ、出るよ、ヒロキ!」


 トンネルの向こうに光が見えてきた。


 ごおっ、と気圧の変化を感じつつ風の勢いでトンネルを抜けると、きれいに整備されたアスファルトがいく筋も続いていた。


 先を行く2台のロードバイクが徐々に減速し停車した。

 1人は男。もう1人はヘルメットの後ろからポニーテールのはみ出している女だ。そういえば最後の日、ユカはお気に入りのポニーテールでなくって、無造作なままの髪型でクロスバイクに乗って出かけた光景を今、思い出した。


 サングラスを外したその顔が、僕に語りかけた。


「お兄ちゃん・・・」


 呆然と見つめ合う僕とユカ。

 そしてその隣でネコも声を失くして立ち尽くす。


 ユカと一緒に走っていた男もサングラスを外す。

 日常生活の中では見覚えがないけれども、既視感があったので必死に記憶を手繰った。あ! とユカの部屋に残されていたサイクル・スポーツの月刊誌のグラビアに思い至った。

 でも、僕が言う前にネコが答える。


「か、茅野選手・・・ですよね!?」


 そうだ。

 日本人として初めてツール・ド・フランスでマイヨジョーヌを着た男。

 山岳コースの鬼神と呼ばれた茅野白兎選手だ。3年前、ロードで練習中に危険運転をするバンに煽られ、亡くなっている。


「世界には二種類ある。自転車の世界とそうでない世界」


 茅野選手の言葉は、ロックな世界とそうでない世界がある、というのと同義に聞こえた。


「お兄ちゃん。トンネルが世界の区切りだったの。ネコさんと一緒にbreakonthrough してくれたのね」

「ユカちゃん、茅野さんと一緒に走ってるの?」

「うん」

「ユカさんは僕の練習パートナーなんだよ」

「うらやましー」


 それから、4人で並んで走った。


「お兄ちゃん、わたしのクロスバイク、大切に乗ってくれてるんだね」

「うん。とてもきれいな自転車だからね」


 ユカみたいに、という言葉は出さずにおいた。


「2人ともどうする? ここで暮らすこともできるんだが」

「茅野選手、それって僕とネコが死ぬ、ってことですか?」

「手続き上はね」


 顔を見合わせる僕とネコ。

 ネコは自転車が主体に生活できるこの世界と、そして茅野選手と一緒に走れることに魅力を感じているのだろう。うん、という口の動きをしにかかかる。


「ダメだよっ!」


 ユカが声を上げた。

 そりゃそうだよな。自分の兄貴と先輩を殺しちゃうことになるもんな。と思っていたらユカは思わぬことを言った。


「わたしは2人がいい・・・」


 ユカはそう言って茅野選手のレーシングウエアの裾をつまんで彼を見上げる。

 茅野選手もじっとユカを見つめている。


「よし! ヒロキ! 帰ろ!」

「え? ちょっと、もう少しユカと話を・・・」

「2人とも帰るのなら急いだ方がいい」


 茅野選手が真面目な顔で言った。


「トンネルは後30分もしたら閉じる。開閉時期は不定期で次はいつかわからない」

「お兄ちゃん、さっきぐらいのスピードで走らないと間に合わないよ」

「げえ!? またあの全力疾走を!?」

「ネコさん、お兄ちゃんをよろしくね」

「ユカちゃん、任せてよ! さあ、ヒロキ、ついておいでっ!」


 手を振る間もなくトップスピードに達するネコ。僕はまたもそのスリップストリームで全力で走る。


『速い! こいつネコってよりはチーターだな』


 トンネルを逆走して、元の世界へ突き抜けた。


 ・・・・・・・・・・


 その後、僕とネコがユカたちの側へ突き抜けることは二度となかった。


 僕はそれまで通りブルーの美しいクロスバイクに触れるために朝、やっぱり美しい気分で目覚めを迎える。


 チェーンにオイルを挿しながら、挨拶を交わす。


「おはよう、僕の『彼女』」


 あ、それから。

 こちら側の世界で僕に劇的なことが起こった。


「おはよう、ヒロキ!」

「おはよう、ネコ」


 僕とネコは『自転車友達』を卒業した。


 僕にもう1人、彼女ができたんだ。


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