合わない朝

犬怪寅日子

Good Morning

 捕虜が月を見上げるような仕草をした。少なくとも男にはそう見えた。


「ええ? なんだ? お前――今、何を見たんだ?」


 男は鉄格子の向こうに呼びかけたが、捕虜は答えない。もうずっと、明確な答えは返ってきていない。不安になったので、男は外側から内側の天井を覗き込んでみようという気になった。ひょっとしたらと思ったのだ。


 捕虜の目が男へ向く。


 ひょっとしたら? ひょっとしたらなんだというのだ? 石造りの牢の上にも月は上がるだろうが、まさかその下まで光の届くはずはあるまい。そんな当たり前のこと。そんな当たり前に不自然なことを、どうして思ったりしたんだろう!


「こうなると、一体どっちがどっちだか分からないな。なあ?」


 と、男は牢の中へ呼びかけた。話し始めると、思考より先にぼろぼろと言葉が産まれ、落ち、零れていくようだった。


「この格子のことを言ってるんだ。な? 分かるだろ? もう半年もこの格子を挟んで俺とお前はこうしている。こうして、これを挟んで座り合っている。うん? 座り合っているというのは変か。それじゃあまるで、俺とお前が互いの意志でここにいるみたいだもんな。いや、語感の話だよ。俺がしているのは。好き合うとか、庇い合うとか、ああいう感じでさ。俺たちは座り合っている――っていうと、なんだ、協力的な感じがするだろ? 合う、っていうのが、どこか共有している感じがさ」


 捕虜は首を微かに傾けた。それは男の言葉に対する反応ではなかった。ある日突然、この捕虜は首を一センチほど短く右に傾ける動きをしはじめたのだ。一定ではない間を置いて一回、二回、三回――と、それは続く。

 痙攣とするには連続性に欠ける動きだ。意識していない動きではあるが、彼自身に意識がないわけではない。恐らく、脳の一部が壊れている。


 男は声の張りに注意して喋ることを続けた。


「合うっていうのはまずいな。俺たちは、座っていることを共有していないもんな。お前は捕まってそこにいるだけで、俺だって捕まったお前を見張るためにここにいるだけだ。座っているのは――まぁ、副次的な問題だな。本当は座っている必要なんてないんだ。うん。そうだ」


 と言って、男は立ち上がった。

 しかし、何かが変わったという気にはならない。視界が変わったか? そんなことはない。目の前に格子がある。その奥には捕虜がいる。何も変わらない。


「なんの話だっけ?」


 捕虜の首はまだ細かく動いていた。

 もしかしたら痙攣なのかもしれない、と男は思った。いや、あれは間違いなく痙攣だ。しかし、どうしてそう思うのだろう。少し前までと動きは変わらないのに、なぜ今では痙攣だと思うのだ? 今までは思わなかったのに、今は思うというのは変だ。思う。思っている。誰が?


 誰が何を思っているって?


 男は、急に何を言おうとしたのだか思い出した。目の前の鉄は鈍色になっている。


「格子だよ。格子。この格子の話をしていたんだ。どちらがどちらか分からなくなるっていう話だ。こうして長い間座っていると、昨日も一昨日も一ヶ月前もこうしていたなって、ほら――意識がもうろうとしてくるだろう? だって、一ヶ月と一日前も、一ヶ月と二日前も、ずっと俺たちはこうしていた。でも、考えてみると、こうしていなかった時もまたあったわけだ。お前がまだ捕まっていなかったとき、俺がまだ、こうしてお前を見張っていなかったとき――まだこうして座り合っていなかったころ――」


 うなり声が聞こえた。しかしそれは捕虜の上げたものではなかった。外の獣だろう。最近獣が出ると言って、クヌギは塀の縁に除草剤を振りまいていた。けれど、なんだってあんなことをしたのだろう。除草剤は、草を駆逐するためのものだ。


 捕虜の瞳の縁は白く濁っている。


「どうしてそんな目で俺を見るんだ?」


 ふいに、男はその目を恐ろしく思った。


「俺にどうしろっていうんだ? え? お前は政府の人間で、俺は革命軍の人間なんだろ? こうして一晩、今日も昨日も一昨日も、どちらがどちらか分からなくなる位まで座り合っていたって、どうやってもお前は政府の人間で、俺は革命軍の人間なんだよ! それに二年前には、お前たちのほうが俺たちをこんな風にしていたじゃないか? いや、もっと酷かった。もっと酷かったんだよお前達は! 俺たちの仲間には、まだ下の毛も生えそろってないようなガキたちだっていたんだ。それをお前らは――――俺の弟はまだ九つだった!」


 格子からわんわんと残響が聞こえてくる。捕虜は笑ったようだった。

 男には笑ったように見えた。


「笑ったのか? お前。今、笑ったんだな? そうか。そうだろう? 笑うしかないんだ。笑うしかない――こんなこと、笑う以外にやりようがない。夜になるといつも思うよ。一体これはいつ終わるんだって。いつになったらこの生活は終わるんだ? だって、俺たちは同じ国の、同じ人間同士なんだぞ? 少し前まで、街の中ですれ違って、酒場で隣同士になったりしたら、肩を組んで国歌を歌って笑い合っていたかもしれない仲間同士だ! 驚くだろ? 笑えるよな。ははは」


 ははは、と男はもっと笑おうと思ったが、息が切れてそれ以上声がでなかった。

 それよりも、なぜ自分は立っているのだろうと思った。正しくは、なぜ自分だけが立っているのだろうと思ったのだ。


 座り合っていなければいけない。


 俺たちはこうして、ここで座り合っていないと。


「一番良いのはさ、結局は死んでしまうということなんだろうな。お前か、俺か――別にどちらでも良い。どちらでも同じことだ。お前が死んだら俺はもうここにこなくてよくなる。ここに来て、日々可笑しくなっていくお前の姿を寝ずに観察していなくてもいい。それになにより、お前はもうこんな所でじっとしていなくていいんだ。銃声一発。それだけだ。それだけで、俺たちは解放される。きっと最高の気分だろう。お前が死んで、寄宿舎に帰って一眠りして、そのあとの目覚めのことを考えるとさ――」


 それはそう遠い日のことじゃない、と男は内心で思った。けれどそれは、自分を元気づけるためにわざと思ったのだ。実際には、それがいつかなんて見当も付かない。

 捕虜の首すじには薔薇の蔓のタトゥーが掘ってあって、男は急に妙な劣情を感じた。


「それか――クヌギやマキがやってこなけりゃ良い。このまま、交代がやってこずに、ずっと座り合っていられるんならいいんだ。俺は――俺はあの時間が一番怖い。お前と離れて、自分のやったことと一人で向き合い始めなくちゃいけなくなるあの時間が。いいや、本当は何もかも怖いんだ。なぁ。何か言ってくれよ。お前の言葉が欲しいんだ。一言でいいから」


 しかし、捕虜はもうずっと眠っているのかもしれなかった。首は痙攣していない。もしかして、と男は思う。もしかして――。

 狂っているのは自分で、捕虜の方がまともなのではないだろうか。もう動く気力のない捕虜の首が動いたとか、瞳が濁っているとか、そんなことを勝手に思い込んでいるのは自分だけじゃないのか。


 そもそも、捕まっているのは本当にあの男の方なのか? 格子の中にいるのは。


「まさか――そんな」


 その時、きき、と金属の擦り合う音がした。


 光が漏れ入ってきて、ああそうか、と男は思う。もう朝だ。交代が来たのだ。俺はまたここから離れて、寄宿舎に帰らなければいけない。そうして一眠りして、恐ろしい夢を見て、最悪の気持ちで起きて、また夜、ここに来て――。


 しかし、やってきたのはクヌギでもマキでもなかった。上級兵士だ。


「下がれ」


 男にそう言うと、彼らはだらだらと牢の鍵を開けはじめた。鉄格子の扉が開く。やはりあいつの方が中に入っていたのだ、と男は思う。出ろ、とだけ兵士が言う。そうだ、出ろ、と男は思った。こんな所からは出て、あの光の方へ出なければ。そうして、畑を耕さそう。俺たちの大地を――。


 はた、と男は気が付いた。一体、今自分は何を考えたのだろう。


 捕虜は、すでに男の目前にいる。右肩から腕がだらりと下がっている。最初の拷問で壊れたのだ。この腕を叩き潰したのは俺だ。そうだ、俺がやったんだ、と男は恍惚とした。この捕虜は俺の――。


 光の中で、捕虜の瞳の縁は透き通っていた。


 あ、と男は声を漏らした。捕虜の口が何かを言おうとゆるく開き始めている。ああ、と男は祈りの声を上げた。幸福な心持ちだった。やっと言葉が聞ける。俺はもうずっと、お前と話がしたかったのだ。


 その声は、ありうべからざるほど、美しかった。



「良い朝を」



 きき、と鉄の擦れる音がした。捕虜は光の中へ飲み込まれていった。男は一人で立っていた。なにごとをも理解できずに、ただ立っていた。

 しばらくして、銃声一発。



「ああ――ああ!」



 そう言ったきり、男は座り込み――少しも動かなくなってしまった。



















「っていう夢をみたんだけど、どう思う?」

「めっちゃこわい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

合わない朝 犬怪寅日子 @mememorimori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ