第2話 再会のホワイトホース

 七助の頭に彼女の名前が浮かぶ寸前、女は自分で答えを言った。ヤスイカノ。その名を心の中で反芻させ、いくつもの彼女との思い出が目の前を駆け巡る。

 彼女は、簡単にいえば中学時代の七助の想い人であった。その恋愛は片想いでフられて終わるのだが、彼としては最後にしたまともな恋愛でありずっと心の奥底に残っている。だから度々、今日ですら彼女の夢を見た。

 だが今は思い出に浸るわけにはいかない。怪訝にこちらを見ている男が先ほどから気がかりだった。歳は同じくらいだがチンピラ風で嫌な予感しかしない。絶対に会ったことはないが、誰かに似ていると思えるのは不思議だった。


「よう来たな。中入って話そか」


 平穏な笑顔を取り繕いエレベーターへと誘う。二人は安堵の表情を浮かべ七助に従った。だがエレベーターのドアが閉まると七助は豹変し、非常呼び出しボタンを押して素早く3371と階ボタンを押した。業者に作らせた仕組みで、このようにボタンを押せば直通で七助のオフィス階へと行けるようになっている。七助は鬼のような形相で男を蹴り上げた。


「てめえポリじゃねえな、誰だ!どうしてここに来た!」


 尻もちついた男にすかさず銃を向け、驚いた華乃にも片手で肩を押さえつけ動けないようにする。張り詰めた空気の中、七助の背後でドアの開く音がした。男は怯えきった様子で口をわなわなと震わせるだけだった。


「ちょ、ちょっとやめてよ、航成!」


 七助の変わりように華乃が悲鳴をあげる。彼女の思い描く笹木航成と目の前の幽径七助はまるで別人に見えた。怯える華乃には構わず銃口を男の額に押し付けた。


「答えんのなら答えられるようにしてやろうか」


 ガチンと派手な音を立てて撃鉄を上げる。銃口の冷たさに観念して目をつぶり、震える手で鞄から書類を出した。「答えになってねえじゃねえか」七助は悪態をつき、撃鉄を戻して書類をひったくった。書類には覚えのあるヤクザ、北城会の名が見てとれ、あらゆる業界の裏企業の詳細が書かれていた。その中に「ニシオ貨物取扱事業所」の文字も。他の企業のように住所の詳細こそ書かれていなかったが、七助のオフィス街の名が記載されていた。

 七助は北城会と見て頭を抱える思いだった。以前このヤクザとは取引したことがあったが、相手の高圧的な態度が気に食わず、子どもでも買えるような値段の贋作に大仰な鑑定書をでっち上げて高値で売りつけたことがあった。危険に対し感覚を研ぎ澄ましていた台湾時代と違い、平和な日本に戻ってから頭が鈍っていたことを後悔する。バレなかったとはいえ尾けられていたことに気がつかなかったのは迂闊だった。


「そ、それにこの辺のことが書いてあったから。幽径七助の名前を華乃が知ってるって言うもんだから」


 男はようやく口を開く。男の口から華乃と出たのが気に食わず、足で肩を小突いた。


「気安く呼ぶな。てめえ北城会のもんなのか、何の用だ!」


 事と次第によっては容赦しないつもりで、男の胸倉を掴み上げる。ヤクザの抗争に巻き込まれるのは懲りていて、揉め事はこれ以上嫌だった。顧客であり自分に味方してくれるヤクザもいたことはいたが、北城会に関しては敵とも味方ともつかない。むしろ七助にとっては敵のようなものだった。


「違うんだ!北城会っていったって、追われてる方なんだ!」


 男が叫ぶ。七助はますます訳が解らなくなり、華乃の方を見て「なんでこの名が俺だって判ったんだ」とまくし立てると、反論的な口調で主張した。


「昔授業で作ったペンネーム、航成が考えたのは幽径七助って名前だったじゃない!私、不思議な名前だからずっと覚えてたんだよ!」


 またまた七助は後悔する。幽径七助という名は昇二に偽名を求められた時とっさに浮かんだ名前だったのだが、思えばそれは大昔に自分で作った名前だった。小学校低学年の頃小説を作るという授業があり、教師が作家はペンネームを名乗るということを教え生徒に名前を作らせた。七助はその頃読んでいた手記で幽径という苗字があることを知り、好きな作家の名前と混ぜて「幽径七助」という名前を作り出した。隣席の華乃がその名を見て大いに笑っていた気がする。「中二病みたい!」とはしゃいだ彼女の声が今更になって思い出された。


「追われてるってなんだよ。俺はただの商人で揉め事は専門外だぜ」

「匿ってくれ。見つかったら殺されちまう」

「お前みたいなやつ、死んだ方がいいんだ」


 相手を完全に厄介者と決めつけ七助はその人格を否定するかのように吐き捨てた。追い出してどうせ西荻窪を徘徊しているヤクザに喰わせてもよい。だが、何にも増して涙目で七助を見る華乃が気になった。どうやら男は華乃の彼氏であるらしい。


「ちぇ」


 拳銃を納め、一旦書類を男に突き返した。「そこで待ってろ」と言うと二人の荷物を廊下へ放り出し、七助はオフィスに入った。自分の荷物を降ろし財布を開ける。小遣いの万札に混じって顔を覗かせている吉原の割引券を惜しむように押し込んだ。

 三人が向かったのは吉祥寺に新しくできた高層ビル。タクシーで10分ほどのところだった。中には以前から贔屓ひいきしているバー、マックィーンが移転していて、表裏様々な世界の人間の溜まり場になっている。秘密会員制ではあるが一人が会員証を持っていれば連れが会員でなくとも店に入ることができた。


「あら七助さん、つい一昨日来たばかりじゃない」

「急用さ、リオさん」


 そう言って三人を席に案内するのはマスターの梨旺である。顔形は少女そのものであるが、身体つきは背が低くとも大人であるから初対面の客以外は誰も怪しまない。七助の連れてきた二人だけは訝しんだ目で彼女を見た。

 周りの席には見覚えのある面々が席を陣取り、大企業の社長からアウトロー、それに商売敵の特別強襲捜査官、要は国家公認の秘密戦闘組織。捜査官の中に容姿に合わずソフトを被った少年のような女がいて、七助を敵として見覚えがあるのかジロリとひと睨みした。七助は肩をすくませ咳ばらいをし、注文をした。


「ホワイトホースのロック、シングルで。あとプロシュートのサラダ」

「じゃあ俺、ビールで」

「お前らは飲むんじゃないよ、シラフでいてくれなきゃ困る。この二人にウーロン茶」


 出てきたウィスキーをオードブルのチーズだけで仰り、煙草を5本きっかりフィルターまで吸いきった後、七助はテーブル中央にあるボタンを押した。これは音声遮断装置のようなもので、席周辺に電磁層を張り中の会話を外に漏れないようにするものである。この特殊装置があるからこそ、様々な世界の人間がここに集まるのだった。PCのフィンが急回転するような音で電磁層が張られる。それにより周りの騒音は消え静かになるが、梨旺の趣味なのか店内に澄み渡るシナトラの甘い声、これだけは柔らかく耳を流れる。


「で、なんだって俺のとこ来たんだ。おかしな紙まで持って」

「はあ、それが」


 男はウーロン茶に少しばかり口をつけ、酔えない恨みを込めるかのようにモゴモゴと語った。


「確かに俺は北城会の構成員だったんだけど、華乃と付き合うようになってから組を抜けようと思って。真っ当に生きようと思ったんだ。でも金がない。そこでこっそり組の金を持ち逃げしようとした。でも…」

「バレたんだな」

「はい。それで捕まって、いよいよケジメつけられると思ってたとき華乃が助けてくれた」

「華乃が?」

「うん。凄かったよな、あのときの華乃。俺を見張ってた奴を一撃で倒して」

「すごい緊張してたんだよ。わざと着飾っていったら組長さんの女かと思われたみたいで、中には入れたけど。私の鞄が固かったから殴ったらすぐに気絶してくれて助かったよ」

「おおこわ」

「それで、逃げる前に見張りのやつが何か持ってないかと探したら、あの書類があった」

「なんでその書類を」

「いざとなったら警察に駆け込んで、この書類は犯罪の証拠だから助けてもらおうと思って」

「なんだと!」


 外に声は漏れてないはずだが、七助の剣幕を感じた幾人かの客が振り向いた。その中には捜査官の連中もいる。絶対に買収されないこの集団は目の上のコブだった。捜査官の一人、件の女がくわえ煙草で七助を睨みつけた。冷汗かきかき、作り笑いで手を振る。その笑いには応えずツンとした顔で背を向けた。

 握りつぶしてしまった煙草を灰皿に擦り付け新たな一本に火を点ける。


「要するに、俺を含めそうした業者をポリに売ろうとしたんだろ」

「そ、そういうことになるな…」

「いい度胸してやがら」

「でも、航成なら助けてくれると思って信じたんだよ」

「まだ助けるとは言ってない」

「助けてくれないの?」

「ヤー公風情とはできるだけ関わりたくないんだよ」

「ヤー公だなんて、航成のお客さんにヤクザもいるでしょ?」

「俺がよく相手してるのはもっとシャンとした『極道』だ。俺はそういう人たちなら暴力団とすら呼ばない。こんなチンピラまがいとは違う」

「そんなぁ…」


 実際、本心からこの男には関わりたくない。北城会から目をつけられれば七助に味方するヤクザが守ってくれるかも知れないが、それでも抗争の火種になりうる。そうなってしまえばもう商売はしていけなくなるだろう。この男がケジメに小指を詰められようがコンクリートブロック背負わされて東京湾に沈もうが、台湾でマフィアの死を大勢見てきた七助にとってはどうでもいい。

 だが、普段は元気な表情しか見せないはずの華乃がしょぼくれた顔をするのには弱い。これは昔からそうで、 華乃が沈んでいる顔をすると七助まで気が滅入ってしまって仕方がなかった。この男を助けると言わなければ明るい顔に戻ってはくれないだろう。


「見返りは?」

「え?」

「もし助けてやるとしたら、その報酬だよ。危険がつきまとうし、下手したら廃業の危機もある。リスクが大きい仕事だ」

「報酬…」

「ぜ、全財産出す!」

「バカ言え、雇い主の金に手ェつけようとしてた文無しのくせに。そんなもんハシタ金だ」

「額を聞いてから答えくらい言え」

「じゃあ言ってみろ。五億か、十億か?」

「・・・・」


 七助の意地悪に二人は黙りこくった。もちろんこんな質問はくだらない。ただ言ってみたかっただけだった。しばらく悲痛な面持ちで頭を抱えていた男は鞄から書類を掴み出して立ち上がった。これから彼が何をしようとするのかは分かっていたから七助は機先を制して言い放った。


「ポリに売ろうと思っても無駄だ。商売柄色んな組織の奴らと顔見知りでね、手は回してある」


 グラスの氷が音を立てて溶け落ち、沈鬱な空気が漂った。そうはいっても七助、内心ニヒリズムに満ちた笑みを浮かべ気楽にウィスキーのお代わりを頼み、二人の恨みがましい視線を楽しんだ。


「お前たちの荷物、着替えくらいは入ってるんだろ?」

「そりゃ、夜逃げ同然だから…」

「俺の事務所にはバストイレ台所、洗濯機もあるからそこで生活を済ませろ。部屋からは出るな。俺が良いと言うまで外出はいかん。鍵はかけさせてもらう。気が向けば料理もしていいが、酒には手をつけるな。飲みたきゃ俺がいるときに飲ませてやる」

「それじゃあ…!」

「色々手回しせにゃなあ。どうせ、本業はしばらく休暇だ」

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