第5話 敗北のニヒリズム
5:敗北のニヒリズム
一緒に出ようと慌てる進一を残したまま華乃の手を引きオフィスを出た。無言のまま華乃を連れてきたのは梨旺のマックィーン。入口のドアを拭いていた梨旺が気づき二人に手を振った。
「いらっしゃい、七助さん。あら、この前のお連れさま」
「梨旺さん、今店空いてる?」
「開店30分前だけど、お店の片付けは済んだからどうぞ」
「ありがとう」
そう言って梨旺の前を通り過ぎようとすると、彼女に袖を掴まれ立ち止まった。振り向くと梨旺が苦笑いで七助の顔と腰を交互に見た。
「一仕事してきたの?火薬くさいよ」
「仕事ったって、俺はただの古物商だよ。梨旺さんにカウンターの絵も売ったじゃないか」
「ピストル持ってることくらいわかってる。気をつけてね、この後強襲捜査官の御一行が来るから」
「あいつらまた呑んだくれて。店での揉め事は御法度ってやつらもわかってるでしょ」
「でもあの男の子みたいな女の子、手が早いって噂だよ」
「そのときは梨旺さん、連中を追い出してくれ。俺から銃を抜くことはしないから」
「まあ、お店の責任を持つのは店主の勤めですものね」
甘ったるい国産ワインばかり口にし、華乃がシャンディガフを注文しても今は文句を言わない。七助はじっと固まり未だ何も言わなかった。
「ねえ、航成」
「……」
「航成ったら」
「…なんでさ、彼なの」
突っ伏してから顔を上げると煙草をくわえライターを取ろうとした。目の前にあるのに酔いが回りかけているからか空を切る手を華乃はそっと抑え、ライターを取り煙草に火を点けてくれた。不貞腐れた七助の声と顔に華乃は苦笑いでグラスに口をつけた。
「彼って、なにが?」
「なんであいつと一緒にいるの」
「そりゃ、好きだから」
「ふん、どこを好きになるんだよ」
「いいじゃない、理由なんかなくなって」
「華乃があんなやつと付き合って、俺は情けないんだ」
「…怒るよ?」
「悪かった。またあのビンタを張られるのは痛い」
「航成こそ言ってたじゃない、私に告白したとき」
「なんか言ったっけ俺」
「言ったよ、中2の時だったっけ。あの頃あんまり女の子っぽくない私を好きになった理由聞いたら、理由なくたって私のことを好きだって」
「そのボーイッシュなところが好きだったんだよ」
「なんだ、そうだったの」
「…たしかに理由なんていらないよな」
グラスを空にし肘をつく七助、指先の煙草立てたまま立ち昇る紫煙を華乃が吹いた。漂う煙に顔を上げて華乃を見ると困ったような笑顔でこちらを見ていた。この顔をするとき、決まって華乃は優しく言葉をかけるのだった。七助は弱った。
「ヤクザ屋さんからお金盗んじゃうほど無鉄砲なとこあるけど、底抜けに優しいの。私が変な客に絡まれたときなんて、怪我してでも助けてくれたし」
「華乃」
「私と一緒になってくれるっていうからヤクザやめようとしたんだけど、どうしても指詰めることになりそうで。指詰めるのもヤだしお金もないから盗んじゃった」
「何が盗んじゃっただ」そう笑いかけて、ふと昔の夢を思い出す。
中学の頃二人一緒に帰って、この元気な女の子を抱き寄せれたら、と幾度も思った。自慰に耽るときも華乃のことばかり思い出し、いつか生身の彼女を抱くことを夢見た。何一つ叶わぬまま、思春期の生々しい恋慕はずっと心の底に残っている。
昔恋した人間を忘れることはできない。一生心の片隅に残し置いて抱えて生きていく。
「華乃、俺といてくれ」
「航成」
「華乃が好きだ。酔ってるから言うんじゃない、華乃とあの男を見ていて嫉妬するんだ。俺が華乃を欲しい」
「だめだよ」
「あいつはちゃんと台湾に送ってやる。だから、そうしたら華乃も心配しなくていいし、そしたら」
「私、進一の子どもが欲しいの」
その言葉だけで千年の酔いも醒めてしまう。母親の覚悟、頭の中で浮かび上がった活字は直視できない。どうあがいても敵うことなく全てを諦めなればならなかった。
全身から頭に昇った血が一挙に爪先から吹き出すようで、力の抜けた指から煙草を取り落す。華乃は足下で灰を散らした吸殻を黙ってつまむと灰皿に擦り付けた。目を丸くだらんと口を開け、徐々に涙を湛えていく下瞼を見つめふふんと笑い七助を抱きしめた。
「ほんとに、航成は私のこと好きなんだね」
「うん」
「ありがとう。でも、家族になるのは進一。再会するのが早かったらまた違う人生を歩めたのかもしれない。もっと安全で安定した、今こそ私たちが望む生活を。でも、その前に進一を愛しちゃった」
「解ってるよ。解ってるよ」
七助の涙が華乃の肩を濡らす。叶う事のない夢、蘇ったその夢掴みかけて再び遠くへ消えた。結局のところ幻影追い続けただけと知り、失望に打ち震える彼は優しい抱擁により最後の一線を保ったが、やはり悲しくてしょうがない。
自分は二人を救うだろう。安寧と幸福を与えることに成功するだろう。だが、しばらくの間は自分自身すら救えることはないのだ。
結構だ。それで結構。一人孤独にニヒルに笑い、涙を流し、酒に溺れてみて、くわえ煙草の煙が目に沁みる。それでいいのだ。そう思わなければならないのだ。
「私を愛してくれたごほうび」
華乃は七助の唇に小さくキスをした。彼はこの重苦しい恋と唇の甘さは忘れまいと決意した。
店を出て行こうとすると、会計レジの近く、特別強襲捜査官の連中が席に陣取り例の女が音声遮断層を切った。「おい」と呼ばれて立ち止まると帽子の庇をくいと上げ喧嘩腰に煙草の煙を吹きかけた。
「火薬臭えな、そう思わねえか。イチャついてるにいちゃん」
七助はムッとして口から煙草を取り上げるとそれを吸い、煙をやり返した。女は不快を露わにして舌打ちすると煙草を引ったくり灰皿に押し付けた。
「臭え煙草だな。硝煙どころじゃないだろ?火薬臭えのはお前らだ偉そうに。すっこんでろ」
「ああ?」
「呑んだくれてないで、ヤー公の一人でもひっ捕らえてきたらどうだ。遊んでる暇なんてないんだこちとら」
「てめえ、逮捕してやる!」
「やってみろ!ポンコツ特強風情が」
女はジャケットの下に手を突っ込みピストルドローの仕草、それを隣の少女から抑えられた。七助は瞬時に腰のブルドッグに手をかけようとしたが、背後にいた梨旺に腕を掴まれ首を振られた。嗜めるようなその目に過ちを犯しかけた自分を恥じた。
「梢子さん、喧嘩はダメですよ?私のお店では平和に。七助さん、お会計はこちらです」
「あ、ああ」
離れる時特強と同じ席にいた青年が「ゴロワーズ、たしかにくせえよな」笑ってみせ、七助は目を細めて手を振った。
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