キューピッド・ジェラシィ

森戸喜七

第1話 裏古物商の夢と緊張

 一面の草原と青空のコントラストが美しく、その中に溶け込んでしまいそうな白がひとつ立っている。よく見るとそれは白麦藁帽にワンピースの少女で、彼はその非現実的な姿に一瞬戸惑った。だが小麦色の肌にぱっちりと大きく瞳が微笑んでいてその葵に吸い込まれるように近づいた。はて、どこかで見たような顔、と記憶の棚を漁る間も無くその顔の持ち主が自分の愛した者であることに気づく。彼はおそるおそる華奢な身体に両腕を回し抱きしめてみた。少女は抵抗せず、嫌がりもせず、にこりとグラマラスな唇の両端を上げて抱きしめ返した。彼は途端に嬉しくなり、ああ、俺はこのひとと恋人になってもいいんだ、結婚して子どもを作って死ぬまで一緒に暮らしてもいいんだ。想像が膨らんみ涙を流した。


「付き合ってくれるね?」


 とっさに出た言葉はどこか少年らしく彼は気恥ずかしくさえ思ったが、彼女は期待通りの返答をしてくれると考えて身体をそっと離した。

 彼女の唇が動き声を出そうとする。久々に聞けるであろうその声に耳をすませ心待ちにしたが、代わりに聴こえたのはけたたましい電子音だった。

 はっとして我に帰ると全ては消え白面の空間が登場し、目の前に煙草の吸殻が山となる灰皿と電話が乗ったデスクが現れた。電子音は電話の呼び出しらしい。彼は「またか」と溜息を吐くと、そのデスクすら消えて緩い頭痛に襲われた。


「…妄想もここまでくると悲しいもんだなぁ」


 ねぼけ眼ををこすり頭をかきむしると、そこは彼の住処とするオフィスの一室。一人で使うにしては広すぎる部屋だったが、生活空間は不釣り合いに置かれたベッドとソファ、それに書類棚と乱雑に物の置かれたデスクだけだった。彼は大きなあくびをしてベッドから立ち上がり、デスク上の電話を取った。


「お待たせしました、ニシオ貨物取扱事業所です」


 受話器を耳にあてがうと途端に声が出て、自然と浮かべる営業スマイル。貨物取扱というのは業務用物資のコインロッカーみたいなもので、巨大な荷物を一時預るというのが建前である。だが実際にそのような業務を行なっているわけではなくこれはただの暗号だった。


『引き取りたい荷物があってなぁ。後藤田春紀さんに担当してもらった861番の荷物、モスクワ宛って登録したと思うんだけど』

「少々お待ちください」


 相手の声は中年男性のような図太いもので、その貫禄がうかがい知れる。彼は顧客リストのファイルを取り出し聞いた情報を照合した。


「照会いたしましたところ、後藤田担当の861番のお荷物はコルシカ島宛となっているようですが」

『じゃあ行先をハノイに変えて』


 ここまで聞くと顧客リストを閉じ、これまでの会話となんら関係のない話を切り出した。


「確認いたしました。東名工業グループ会長、押田彦一様ですね?」

『そ。あんた、幽径七助さん?』

「はい、幽径でございます」

『そらよかった、今日約束の日だから連絡しよ思て』

「こちらからご連絡差し上げなければならないところを、お手数おかけしました」

『ええ、ええ。それより、約束11時やったな』

「はい、11時にそちらにお伺いする予定です」


 時計を見るとはや9時半を指している。昨日は夜更かししてたから寝すぎたな、と思い支度の心配をすると、会長が続けて言う。


『それには及ばん、迎えを出すから昼飯でも食べながら話しましょ。もちろんこっちが飯代出すで』

「それはそれは、ありがたいお言葉」

『住所教えてもらえる?車よこすから』

「申し訳ありません。機密保持の理由から、住所をお教えするわけには…」

『そうか、そうやなぁ。さすが石花さんのお弟子さん、しっかりしとる』


 会長は納得したような声を出し、どこか懐かしそうな声色でつぶやいた。石花という名を聞き、七助はふっと自分の亡き師匠のことを思い出した。

 七助の商売は表向きは貨物預りの案内所事務員、古物商というのが裏の顔。正規な品々もあったが、盗品や違法に入手された商品を扱うというのも仕事だった。しかし彼はもとから古物商を目指していたわけではない。それに幽径七助というのも偽名だった。


 彼は高校を卒業すると国立大学合格も蹴って台湾へ密航した。海外で何かの裏界隈のボスになるという荒唐無稽な憧れを抱いてのことだったが、台湾に着くと厳しい裏世界の現実を知る。彼はたちまちマフィアの抗争に巻き込まれた。あるマフィアに捕まり殺されそうになったのだが、彼の日本語の命乞いを聞いて取引に来ていた裏古物商に助けられる。

 それが石花昇二という阿部寛似のダンディな中年男。彼は事あるごとに裏社会に巻き込まれた日本人を助けていたのだが、家出密航してきた七助は勝手が違った。


「もうどうしようもないんです、石花さんのとこに置いてください」


 涙ながらに訴える七助に同情したのか、自分の後継者が欲しかったからなのか、すんなりと七助のことを受け入れた。

 マフィアの跋扈する世界ではボディーガードが必要で、昇二を庇護するマフィアだけでは心許ない様子だった。昇二はまず七助をボディーガードに仕立て上げるところから始めた。

 七助が与えられた拳銃はチャーターアームズ社製ブルドッグというアンバランスかつ不恰好な銃で、製造されたのも30年前。粗悪銃を意味するサタデーナイトスペシャルとあだ名されていたが、.44スペシャル弾を撃ち出すそれは警官の拳銃より強力で、凶悪犯罪にも使用されたと聞くといかにも恐ろしく見えた。昇二も拳銃を持っていたが古物商らしく古めいた銃で、ナチス高官が秘匿していたという曰く付きの1934年製ルガーP08。金メッキされたP08は悪役の銃そのものだった。トグルアクションという故障しがちな機構を備えていたが壊れたこともなく、昇二は大切にショルダーホルスターに納めて持ち歩いていた。もっとも、たまの余暇で射撃する以外昇二が銃を撃つのを見たことはなかったが。

 マフィアに銃の扱いと護身術を習った七助はブルドッグ片手に襲いかかる敵性マフィアから昇二をよく護った。自分を保護して子のように面倒を見てくれる昇二を慕い、昇二のためなら命も投げ出す覚悟でいた。

 昇二は酒と煙草、それに女も七助に教え、娯楽だけではなく古物商もやっていけるようにと仕事も教えた。ヤクと博打だけは教えなかったが、台湾での麻薬はヘマして売人として捕まれば死刑になり、賭博も昇二自身が嫌っていた。昇二の信条から麻薬、賭博、人身に関わる取引はしなかった。

 度々仕事を任されるようになった七助は張り切って取引に臨んでいたが、昇二の残り少ない寿命を彼が知るはずもない。昇二が自分の半生を語ったのは七助を救ってから三年も経ってからで、彼が自らの死期を悟っていたからに違いなかった。

 彼は当初、真っ当に古物商として働いていたのだが、独立したての頃金に困って始めたのが裏オークションの取引だった。これは金になり一財産を築きあげ、各界のリーダーとのパイプもできてその世界では有名になった。だがヤクザの女に手を出したのが運の尽き。その女を囲んでいた組が当時は強大で他人に助けを求めるわけにもいかず、取引をきっかけに交友関係を持った台湾マフィアのもとに身を寄せることにした。日本にはその女が産んだ子どもがいるはずだとも言った。

 そうした話を聞いてから数ヶ月後、七助が初めて大きな取引を一人で成功させ上機嫌で帰ってくると、昇二が喀血して倒れていた。仰天して病院へ担ぎ込むも虫の息で、医師も手の施しようがなかった。台湾へ渡ってから土地の環境に身体が合わなかったのか、長患いだったという。病室に七助と昇二の二人が残されたが、七助は涙で顔をぐしゃぐしゃにして何も語りかけられない。沈黙の時間が続きようやく口を開いたのは意識が朦朧とする昇二で、蚊の鳴くような声で告げるのは秘密金庫の場所とその解除コードだった。


「僕の本当の名な、豊上進っていうんだ」


 そう言っていたずらっぽい笑みを浮かべると心電図がけたたましく警報を鳴らし、それが遺言となった。

 昇二の葬式を台湾式に済ませた七助は秘密金庫へと向かった。秘密といっても昇二の身内すら誰も知らなかったというだけのことで、金庫自体は街の平凡な銀行にあった。金庫の中身を出してもらうと分厚いファイルが現れ、そこには日本を含めた顧客のリストと連絡先、それに財産相続に関する書類が入っていた。遺した財産は全て七助に譲るとされていた。人生を何度も豪遊して過ごせるほど膨大な遺産だった。

 感謝と悲しみで数日泣き明かした彼は日本へ帰る決心をする。気持ちを新たにして、新天地で仕事をしたいと思い立ったのだった。彼はマフィアや他の取引先の人間から惜しまれつつ成田行の飛行機便に乗った。もちろん税関を買収して持ち込んだP08とブルドッグも一緒。18歳の密航少年は、22歳の裏古物商になっていた。


『最寄りの駅にでもいてくれたらそこに迎えに行くけど』

「では、西荻窪駅に待ち合わせというのはいかがでしょう」

『よろしい。10時半に駅に迎えに行くわ。ああ、あと背広着てきてくれるか?前会うたときは私服やったけど、今度は会社で会うから社員に怪しまれるといかん』

「かしこまりました。スーツを着用して参ります」

『ほな』


 どこの訛りともつかない声を残して電話が切れる。七助はあわてて長らく出していなかったスーツを探しにかかった。


 取引が終わり再び西荻窪駅まで送ってもらったのが午後8時。七助は上々の笑顔で車を降りた。取引はスムーズに決まり、昼はイタリアン、夜は高級フレンチとしゃれこみ全て会長のポケットマネー。昇二仕込みの紳士マナーがこんなとき役に立つ。それに小遣いと称して会長は諭吉を何枚も七助に与え財布も豊かであった。七助は型にはまったセールスマンでもなく、そうした好意も素直に受け取るものと快く財布を開いた。


「本日は様々に豪華な食事をさせていただき、ありがとうございました。それにこんなにも、お小遣いまで」


 西荻窪駅に停まるロールスロイス・ゴーストは風景に溶け込まず、幾人かの通行人が不思議そうに眺めて通り過ぎていった。会長は車の中で横に置いた絵画の包みを大事そうに撫で、葉巻の紫煙をくゆらせていた。


「こんなに良いものを手に入れて売ってくれたんだ。ほんの些細でもお礼をしたいものだよ」

「これからもどうぞごひいきに、よろしくお願いします」


 会長はニコニコと葉巻を挟んだ手を振り、車を発車させた。七助は車が見えなくなるまで頭を下げて見送る。車が視界から消えてからも数秒姿勢を正していた後、安堵の息を吐いた。くるりと身を翻し今にもスキップしそうな足取りで帰路につく。


「さあ金が入ったぞ。あの会長も絵に目がねえなぁ。とりあえず足を伸ばして吉原にでも行こかなぁ。何人も女の子つけてサービスしてもらお」


 西荻窪から日本一のソープランド街吉原までは1時間。今から行くには少し遅かったが、明日からしばらく休暇にする予定なので心には無限に余裕があった。まずは鞄を置いて身づくろいしようと思い、オフィスへと向かった。

 路地の奥まったところにある一見そうとは見えないオフィスビルの狭い入り口に足を踏み入れると、いつもは見られない異変が目に入った。エレベーター前でもめている若い男女が申し訳程度に照らす照明に浮かび上がる。そのオフィスビルの表札にはいくつかの事務所が入っているように書かれているが、実際にここにいるのは七助しかいないはずだった。警戒しながら近づくと、気配に気がついた女が七助の顔を見て叫んだ。


「笹木航成だ!」


 七助はビクと身を震わせ、スーツ下の拳銃に手を当てた。自分の本名を知っているこの女は何者なのかと心臓が早鐘のように打ったが、まず警官でないことは確か。警察幹部にも七助の客はいて、抜かりなく手回しがしてある。


「やっと会えた。探したんだよ!」


 女の顔をまじまじと見る。長い金髪だが今朝見た夢に出てきた少女そっくりだった。


「ほら、忘れた?安井華乃だよ!」

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