三十五時間五十七分と、三分
石井(5)
三十五時間五十七分と、三分
地べたに座り込んだ彼女は、それにもたれて泣いていた。
「大丈夫?」
声をかけると、泣き腫らした顔が上がる。
「全然……」それから彼女は、へへ……と力なく笑った。
「うそ。ごめんなさい。大丈夫」
「あんまりそう見えないけど」
「……あなた明日の予定は?」
「決まってない」
「なら、ちょうどいいじゃん」
飲みに行こう――涙を拭い、立ち上がった彼女はコートを喪服に羽織り直した。
手狭な居酒屋だった。客はまばらだった。
トイレで化粧を直してきた彼女が、向かいの席に戻ってくる。
さっきまで泣いていたとは思えないほど、さっぱりした態度だった。
「ここ、のどぐろが美味しいの。せっかく石形まで出てきたんだから、ここに来ないと損した気分になっちゃう」
「そう」
「あっ、ごめん。自己紹介がまだだった。私、
「イツセ、たぶん」
「たぶん?」
不思議そうに問い返した純奈に、イツセは自分のメモ帳を取り出して、一番始めに書かれていた文章を見せた。
『あなたの名前はイツセ』
「えっ。これなに? ゲーム?」
イツセはページをめくった。
『あなたの記憶は三十六時間しかもたない』
それを見た途端、純奈の表情が変わった。
「……記憶喪失なの?」
「十分前から。あなたと出会う直前」
ふーん。純奈は滑らかな指で鼻の頭を掻いた。
「何も覚えてないんだ。ここがどこだかわかる?」
「石形市。県庁所在地。でも私がここにいる理由はわからない」
「そっか。一般常識は覚えてるっていうもんね、マンガとかでも」
それから店員がビールと料理を運んできたので、会話は一時中断された。
ジョッキを握った純奈は、こぽこぽと弾ける泡を伏し目に眺めていた。
イツセは尋ねた。
「ビールが好きなの?」
「嫌い。いつもは日本酒だから……ねえ、あなたの記憶が一日半しかもたないって聞いて、私ラッキーって思っちゃった」
「どういうこと?」
「全部忘れてくれるなら、
乾杯、と純奈はジョッキを掲げた。
イツセはそれに自分のをぶつけた。
硬い音が鳴った。
純奈は酒豪だった。運ばれてくるビールをミネラルウォーターみたいにがぶがぶ飲み続けた。酒豪、底なし、ザル、
泊まるとこないでしょ。私の部屋来なよ――
ビジネスホテルは店を出て十分ほど歩いたところにあった。シングルルームはベッドと小さな机でぎゅうぎゅうだった。
かわりばんこにシャワーを浴びた。ベッドに腰かけてると、後番の純奈が浴室から出てきて机の椅子に座った。
「着替え、あってるね」
イツセが着ているパジャマは純奈のものだった。
「森の匂いがする」
「それって褒めてる、
「旅行なの?」
「えっ? 違う違う。分家のお葬式があって、私は父親の名代。明後日には田舎に帰るよ」
「そうなんだ」
「そう。私、専務なんだから」
胸を張る純奈の姿は、イツセには強がってるように感じた。
「ベッドで寝ていいよ。私、仕事があるから」
「ビール、十リットルくらい飲んでたよね」
「あはははっ。十リットルは盛り過ぎ。私んち酒蔵なんだ。父親が社長で、私が専務。小学生の頃から酒飲んでるんだよ。こんなんで酔っ払わないもん」
その言葉に甘えて、イツセは先に寝ることにした。
部屋の電気を消す。机のスタンドライトだけが明かりを放っている。
イツセはベッドに潜り込み、淡く照らされた天井を見つめる。
ふと視線を机の方にそらすと、鉛筆を持った純奈がノートに何事か書きなぐっていた。
仕事、というふうには見えなかった。
イツセは目をつむった。
目を覚ますと、純奈は机に突っ伏していた。ノートはどこにもなくて、何を書いてたかはわからなかった。
揺すって起こす。寝ぼけた声が返ってくる。
「何時?」
「朝日が昇って二時間」
「そう……」純奈は目をこすった。
「どっか遊びに行こうか」
駅前から二十分ほど歩くと歓楽街があった。
イツセと純奈は、服屋を回ったり、アイスを買い食いしたり、路上で弾き語りしている若者を冷やかしたりした。
若者を哀愁の瞳で見ながら、純奈は言った。
私もね、昔は夢があったんだ。
働きながら東京で四人組のバンドをやってた。でも全然芽が出なくて、結局私は将来の不安に敗北。田舎に戻って実家を継いだってわけ。
東京に出るって言ったときは親族中から反対されたよ。
唯一私の味方になってくれた従兄も、三日前に死んじゃった。
今何時? 十一時か……そろそろ煙になった頃じゃないかな、お兄ちゃん。
イツセと純奈は複合商業ビルの屋上に昇った。小さな観覧車があって、それに乗った。
たいしたことない観覧車だったが、屋上にあるおかげで眺めはよかった。
角ばって、でこぼこしたビル群の稜線に、夏を予感させる青空と光が輝いている。
「お兄ちゃん、怒ってるかな。私が告別式に来なくて」
「煙になった人は怒れないよ」
「私も煙になりたい。それでどこか遠くに行きたい」
そう言うと、純奈は窓の外にやっていた物憂げな視線をイツセに向けた。
そっと身を乗り出して、キスした。
観覧車の籠が少し揺れた。
純奈は顔を離し、もとの席に腰を戻した。
「……私があと十八時間で忘れるから?」
「そうかもね」
自分でもわからない、というふうに純奈はイツセから目をそらし、また頬杖をついて彼女が嫌っている街を眺めた。
夜になると、昨晩と同じく酒を飲んだ。適当な居酒屋に入り、純奈はまたビールばかり頼んだ。
イツセはアルコールに飽きていた。記憶をなくすたびに、酒を飲んでは自分が酒好きじゃないことに気づく徒労を、何度も繰り返してきたのだろう。
七本目の瓶ビールを空けたところで、純奈が尋ねた。
「なんでそんなに落ち着いてるの?」
「なにが?」
「だってあと半日もないよ、タイムリミット。それで今までの記憶も全部パー。また最初からやり直し。一回死ぬのと同じじゃない? 怖くないの?」
「あんまり」
「イツセって煙みたいだね」
「死んでるみたい?」
「違う違う」純奈は笑った。「なんていうか、すぐに消えちゃうんだけど、たぶん完全には消えなくて、薄まったり濃くなったりを繰り返しながら、いろんなとこを漂ってる。そうやって旅してきたんでしょ」
「わからない。覚えてないから」
「そりゃそうか」
純奈はまた笑ったが、すぐに頬を引き締めて、思いつめた顔を寄せた。
「明日さ、私と一緒に帰ろう。それでずっと田舎で暮らそうよ」
冗談かと思ったけど、純奈の眼は真剣だった。
「生活の心配はしないで。最初は不安定かもしれないけど、私もサポートするから、だから――」
「行けない」
イツセは自分について何も知らないが、それだけは確信を持って答えることができた。
「自分が誰なのか。どうして私の記憶が四十八時間しかもたないのか。私はその答えが知りたい。そのためにずっと旅を続けてきたんだと思う。だから……純奈と一緒には行けない」
「そうか……そうだね」
純奈は寂しげに繰り返した。イツセの答えを噛み締めるように。もはや叶わない夢を反芻し、わずかな残滓だけでも味わおうというように。
それから、大きな声を出してお代わりを頼んだ。
純奈が頼んだのは、自分の酒蔵の日本酒だった。
ビジネスホテルに戻った。
またかわりばんこにシャワーを浴びた。
寝る準備をして電気を消すが、純奈は机のスタンドライトを点けた。
「また仕事?」
「うん。寝てていいよ」
イツセはベッドに潜った。掛け布団を肩まで上げて、柔らかいスプリングに身を沈めた。
目をつむった。
暗闇がイツセを包んだ。
かり、かり、という純奈の鉛筆の音が時折、耳に響く。
イツセは目を開けた。
「眠れない?」
座ったまま振り返った純奈に、うん、とイツセはうなずいた。
純奈は鉛筆を置くと、イツセのとなりに潜り込んできた。
「大丈夫、何も怖いことなんてないから」
そう言いながら、純奈は布団の中でイツセの手を握る。
手に触れる暖かさは全身に広がり、イツセはいつの間にか眠りに落ちていた。
目が覚めると、狭いホテルの部屋だった。
ベッドで身体を起こす。机とベッドしかない、狭い部屋。
枕元にメモ帳が置いてあった。
『あなたの名前はイツセ』
イツセ。確かめるようにつぶやく。
ページをめくる。
『あなたの記憶は三十六時間しかもたない』
椅子の上に服が畳んであった。イツセはパジャマからそれに着替えた。
メモ帳をポケットにしまう。
そこで、机の上にものが置いてあることに気づいた。
手紙と、音楽プレーヤーだった。
イヤホンがきれいに結んであるプレーヤーをどけて、イツセは手紙を取り上げた。
――イツセへ。
――これを読む頃、あなたはもう全部忘れているかもしれません。
――私があなたといた時間はとても短いものだったから。
――でも、私にとっては何物にも代えがたい時間です。
――あなたがいてくれたおかげで、長年の胸のつかえが取れました。
――未完成の曲……それは私の未練をかきたてる、夢の残骸でした。
――でも、あなたと出会えたおかげで、ようやく詞をつけることができた。
――ありがとう。
――これはあなたに贈ります。
差出人の名はなかった。
イツセはプレーヤーのイヤホンをつけ、再生ボタンを押した。
曲が流れ……そして終わった。
きっかり三分だった。
イツセは泣いていた。
なぜ泣いているのか、わからなかった。
彼女はそれからも旅を続けている。
あの日から、彼女の記憶は三十五時間と五十七分しかもたない。
名も知らないきっかり三分の曲が、彼女の心でずっと流れている。
三十五時間五十七分と、三分 石井(5) @isiigosai
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