【R15】らぶらぶ手帳【なずみのホラー便 第31弾】

なずみ智子

らぶらぶ手帳 ※2022年1月1日 改訂版アップロード


 ごく普通のOL、いや正確に言うなら、自分に自信がないにも程があるOL・ミサは深呼吸した。


 今から自分は電話をかける。

 それも”魔界通販日本営業所”へと。


 ミサが手にしている魔界通販のチラシには「くれぐれもお電話のおかけ間違いをしないよう、お気を付けくださいませ」という文言が、おどろおどろしい書体で印字されていた。

 耳元で響くコール音に、ミサはゴクリと唾を飲み込む。

 だが、電話口から聞こきてきた若い女性オペレーターの言葉は「お電話ありがとうございます。魔界通販日本営業所でございます」と、日本語であったため、少しばかり安堵した。

 魔界という言葉は、ミサにとっては東洋世界よりも西洋世界のイメージが強いものであった。

 どうしても欲しい商品を電話にて注文するには、英語もしくはフランス語などを流暢に喋ることができなければ無理なのかもしれないと思っていたが、これならスムーズに意思疎通はできそうだ。

 現代は国際化社会だし、「魔界通販日本営業所」とチラシに明記されているだけあって、日本語の出来るオペレーターを配属しているのかもしれない。


「あ、あ、あの、わ、私……枕の下に挟んであったチラシを見て、電話しました」


「私どもがお客様の就寝中に、お客様の枕の下へと挟み込んでおいたチラシをご覧になっていただけたということでございますね。誠にありがとうございます。それでは、本日のご用件を承ります」


「わ、私は、あの、その……チラシの中で、ただいまのご注文数1位と紹介されている『らぶらぶ手帳』の購入を検討していて……」


「まあ! ありがとうございます。”どんなに無理ゲーな恋でもあっさり叶っちゃう! まるで夢のごとき『らぶらぶ手帳』”のご購入ということでございますね?」


「いえ……あ、いや、購入を考えてはいます。でも、その前に確認したい件があって……」


「はい、ご質問ということですね。どのような件でしょうか?」


 ミサは、再び深呼吸した。

 チラシには「返品絶対不可」と明記されているから、ここは慎重にいかなければならない。

 今、自分が購入前の問い合わせをしている通販会社は、いわゆるパンピーの通販会社ではない。魔界通販なのだから。


「え……ええと、支払いというか……購入者が支払う現金に代わる対価ですが、『手帳を使い始めてから2週間と使い終わる前の2週間の計4週間、魔界通販オリジナルのとびっきりの悪夢を体験していただきます』ということで……間違いはないですか?」


「ええ、間違いございません」


「あ、あの……それがとてつもなく不安なんですけど……体験させられる悪夢が恐ろしすぎてショック死したり……それに、悪夢だけじゃなくて、後出しで寿命や命そのものまで後々取られることになったりは……しませんか?」


「私どもがチラシに明記しております通り、お客様にお代金に代わる対価として体験していただくのは、死に至るレベルではない計4週間の悪夢のみでございます。ただいまお客様がおっしゃられたようなことをご心配される方は非常に多いです。ですが、弊社は”誠実”を経営理念としております。ご安心くださいませ」


 ミサはホッと胸を撫で下ろす。

 だが、事前に確認しておきたいことは、まだまだ他にもあるのだ。


「えっと……この『らぶらぶ手帳』なんですが、3か月分しかないスケジュール帳ですよね。もっと長い期間のバージョンはないんですか? 市販で売られている手帳とかも、1年間通してのスケジュール管理ができるものが一般的だと思うんですけど」


「申し訳ございません。『らぶらぶ手帳』は3か月バージョンの1種類のみのご用意でございます。その製作背景といたしましては、製作者が日本の恋愛ドラマに……ほぼ1クールでハッピーエンドな結末を迎える恋愛ドラマに夢中になってしまい……恋愛成就させるなんて3か月もあれば充分じゃないか、との非常に短絡的な考えによるものでございます」


「……………………そ、そうですか……現実はドラマのようにはいかないと私も思うんですけど…………3か月分バージョンしかないなら仕方ないです」


「はい。それではさっそく、ご購入手続きを進めさせていただくということで……」


「あ! あっと、待ってください! もう1つだけ、聞きたいことがあるんです! この『らぶらぶ手帳』は『お1人様1点限り、リピート購入不可』とも書いてあるんですけど……」


「チラシに記載されている通りでございますね。この『らぶらぶ手帳』は、お1人様1点限り……さらに申し上げますなら、お客様が『らぶらぶ手帳』に3か月間、書き入れることができる”思い人様のお名前”は1名のみとなっております」


「そ、その”思い人”とは3か月たった後……『らぶらぶ手帳』を使い終えた後は、どうなっちゃうんですか? 何もなかったように元通りの関係になってしまうんですか? そっ、それとも効果は継続するようにしてくれるんですか?」


「『らぶらぶ手帳』を使い終えた後のことにつきましては、私どもでは分かりかねます。非常に失礼なことを申し上げるのですが、やはり3か月後の展開については、お客様次第と言えますね。その間に、本物の愛の結びつきを得ることができるか、それとも束の間の甘い夢を楽しむだけとなるのか……」


 ミサは考えた。

 少しばかりぽっちゃり体型で、肌は脂っぽいのに髪はパサパサ、メイクもファッションも垢抜けようにしても元が元であるから垢抜けられないという泥沼でもがき続けるしなかない自分。

 正直、今のミサの自分自身に対する自信なんて、この外見に比例するかのごときものであった。

 けれども、女としての底辺でもがいている自分であっても、束の間の甘い恋の夢を見ることができるかもしれない。

 3か月という期間限定のその甘い夢は、きっとこんな自分の一生涯の思い出となるはずだ。


「…………お願いします。『らぶらぶ手帳』を購入します。なるべく早く届けてください。悪夢を見させられるのは、今夜からであっても構いませんから」


「ご購入、誠にありがとうございます。お客様のご要望通り、今夜より最初の2週間にあたる悪夢を開始させていただきます。また、明日の朝、悪夢にうなされて汗びっしょりで目を覚ましたお客様に、枕の下にはさみ込んである『らぶらぶ手帳』をご確認いただける予定で手配を進めます」


「…………よっ……よろしくお願いします」


「お任せくださいませ。なお、この『らぶらぶ手帳』でございますが、ご使用期限を過ぎた後はご使用にならないようにお願いいたします。”くれぐれも”よろしくお願いいたします」




 『らぶらぶ手帳』の購入と引き換えにミサが体験することになった悪夢は、このうえなく悪趣味であり残酷なものばかりであった。

 あの女性オペレーターはショック死するようなものではないとは言ってはいたが、目が覚めた時、ミサの心臓は恐ろしいほど脈打っていた。

 食人趣味の男に捕まり「これはなんと美味しそうな豚女だ」だと生きたまま食べられたり、満員電車の中で便意を催したかと思うやいなや下痢便を盛大な吹き出し車両全体をそれらで満たしてしまったり、仕事の事務的なちょっとしたミスが同じ課の社員全員の怒りを買ってしまい、リンチされたあげく、わっしょいわっしょいと神輿のように担がれて14階の窓から放り投げられたりと言った具合だ。

 夢とはいえ、これが一生続くとしたなら相当にきつい。しかし、最初の2週間と最後の2週間という期間限定の悪夢なのだ。

 終わりが見えていることはありがたい。

 よくよく考えてみると、それは悪夢の終わりだけでなく、甘い夢の終わりも見えているということではあるも。

 最初の悪夢期間は終わり、ミサは今まさに現実における甘い夢の真っ只中にいた。

 『らぶらぶ手帳』によって創り上げられた甘い夢のヒロインであるお姫様はミサであり、ヒーローである王子様はミサと同じ会社に勤める営業マンのハセさんであった。

 29才のハセさんは、2年前にミサが新卒でこの会社に入社して以来、ずっと憧れの存在であった。

 若くてピチピチしている年齢にも関わらず社内の女子カーストの最下層にいるミサから見たら、まさに雲の上の存在であった人だ。


 190cmに届くほどのモデル並みの長身。長身であるだけでなく、彼は手足までもがモデル並みにスラリと長く、均整がとれていた。

 顔立ちはまるで外国人のように彫りが深く――ヨーロッパ系のクォーターという噂もミサは聞いたことがあった――イケメンという片仮名言葉よりも「精悍な男前」という言葉がしっくりときてしまう。

 あまりにも美形過ぎて一般人の中では相当に浮いてしまう容姿であるも、彼は仕事も出来るうえに尊大なところなどまるでなく、男性社員たちからも目をかけられ、または慕われていた。

 この世の中には本当にこんな人がいたんだ……と、ミサが思わずにはいられないほどにパーフェクトな王子様。

 ミサだけでなく、おそらく社内の99%以上の女性たちのパーフェクトで麗しい王子様だ。


 けれども『らぶらぶ手帳』の効力であるとはいえ、この素敵な王子様が今はミサの恋人、正確に言うならミサの初彼氏となっているのだ。

 現に今も、社員食堂で2人で向かいあって、昼食を取っている。

 手を伸ばせば触れられそうな距離に、あの憧れるばかりの存在であったハセさんがいるうえ、ミサの子宮だけでなくその他の内臓までもが蕩けていきそうなほどに、優しい微笑みを見せてくれている。

 本当に夢としか思えない。これは幸せ過ぎる甘い夢だ。

 しかし、ミサが包まれている夢の外側からは幾つもの棘がビュンビュンと飛んできていた。

 嫉妬と怒りに満ちた鋭い視線が。

 ミサと同じく、ハセさんの外見的ならびに内面的魅力の虜である女性社員たちからの鋭い視線が。


 「なんで? あんなブスが」「なんで? あんなデブが」「けっこう可愛い、もしくはけっこう美人な私たちを差し置いて」と彼女たちは言いたげであった。

 ミサをジロジロギロリと睨むだけでなく、耳打ちしあってコソコソと話していた。

 特にハセさんと同期入社の美人受付嬢・スミレさん(29才)からの嫉妬と怒りの棘はより鋭く尖っていた。


 怖い。女ならではの怖さだ。

 だが、ミサは少しばかりの小気味よさと優越感をも感じずにはいられなかった。

 突き刺さってくる棘は怖いが、ミサに妙な快感を生じさせる役割をも果たしていた。

 まるで恋愛ドラマにおけるテンプレ的なワンシーンを、今まさにヒロインとして実際に体験しているのだから。

 それが『らぶらぶ手帳』という一種のドーピングによるものであったとしても。美貌やスタイルやコミュ力などで、自分の前を走っていた数多の女性たちを追い越し、ハセさんとの距離をグーンと縮めただけであったとしても。



 ミサの甘い夢は――会社の王子様をこの私が独り占めの日々――は、早くも1か月半を過ぎた。

 その頃になると、ミサは『らぶらぶ手帳』の使い方もだんだんと掴めてきた。いわゆる普通の手帳とは違うのだから魔界通販も説明書ぐらい付けておいてくれたら、より親切だったのにとも思わずにはいられなかったが。

 日付を自分で書き入れる『らぶらぶ手帳』は、1日1ページ方式である。

 その1ページにハセさんに対する思いをありったけ書き込む。

 「好き、好き、好き! ハセさん、大好き! ハセさんとらぶらぶ! 今日もハセさんとらぶらぶ!」といった具合に。

 1ページにぎっちりと書き込む文字の密度が濃ければ濃いほどに、その日1日のハセさんとの甘い夢の密度も濃くなる。


 そう、本来は手帳であるはずなのに「昨日のページに記録を付けておこう」や「明日らぶらぶ予定を先に書いておこう」と思って書き入れておいても、当日に書き込むほどの効果は表れない。

 その日1日――つまりはミサが枕から頭を上げて再び枕に頭を下ろす限られた時間――のできるだけ早い段階で、手帳に本日のハセさんとのラブラブ予定を書き込む必要があるのだと。


 なお、ミサとハセさんとのベッドインはまだであった。

 一刻も早くハセさんと結ばれたいのが本音であるも、今のミサの体はハセさんの前で服を脱いで生まれたままの姿になれる状態になかった。

 とりわけぽっちゃりしているお腹は三段になってブヨブヨとしているし、とりわけ脂がのっている背中にはニキビもポツポツと見受けられる。更に陰毛だけならまだしも、腋毛がとりわけ太く固く非常に密生してワシャワシャと生えている。

 電気を消して暗闇の中でコトをいたしたとしても、手触りによって、管理と手入れのなっていない自分の体がハセさんにバレてしまうだろう。

 ハセさんとエッチするのは……私の初めてをハセさんに捧げるのは、私が痩せて永久脱毛も受けて、もっともっと綺麗になってからにした方がいいよね……と時間的に実現は難しいであろう自分磨きのスケジュールを頭の中で組んでいるミサであった。




 そんなある日のこと。

 自分の仕事を終えたミサは、ハセさんのいる営業二課へと足を向けていた。

 ルンルンと廊下をスキップせんばかりのミサであったが、帰宅途中の女性社員数名とすれ違いざまに「きもっ」「デブスが盛ってんじゃねーよ」と、聞こえるように呟かれた。

 『らぶらぶ手帳』を手にする前のミサであったなら、縮こまり即座にコソコソと逃げていたであろうが、今は妙な自信が身に付いてしまったためか、なんと彼女たちに”ハセさんの公式彼女”としての余裕の微笑みを返せるまでになっていた。


 そして、余裕に満ち満ちているミサの目は、自動販売機前の休憩スペースに立っているハセさんをとらえた。

 ハセさんは1人ではなかった。

 彼と一緒にいるのは、受付嬢のスミレさんだ。

 受付嬢といえば、美人であるのが大概のテンプレだが、スミレさんは元々の顔立ちだけでなく、メイクも上手でヘアスタイルも常にばっちり、いかにも垢抜けしている華やかな美人だ。女性にしては長身に部類されるそのスタイルだって、ボンキュッボンのグラマラスボディであることが、制服の上からでも分かる。

 ハセさんが会社一の美男なら、スミレさんは会社一の美女と言っても過言ではない。

 美男美女の彼ら2人が並んで立っているだけでも、正直すごく様になる。絵になっている。

 しかし、どうやら彼らの様子がおかしい。

 

 まさか、スミレさん……”私のハセさん”に手を出そうとしているんじゃ……! 


 ゴオッと湧き上がってきた嫉妬の炎に包まれたミサ。

 足音を立てないように――私のハセさんと泥棒猫受付嬢に決して気づかれないように――息を潜めながらそろりそろりと近づいていった。


「ねえ、どうしてよ? ハセくん、私が前にあなたに告白した時『会社の女性とは、そういった関係になるつもりはない。公私のけじめはきちんとつけたい』って、言って断ったよね」


 スミレさんの声。

 彼女もやっぱりハセさんに惚れているばかりか、ハセさんに告白までしていた。彼女は何にも頼ることなく真正面から彼にぶつかっていっていたのだ。


「そうだ。確かにそう言った」


「じゃあ、どうしてよ? なんで、あの娘(こ)ならいいの?! あの娘(こ)は自分の仕事も100%満足にできないらしいのに、公私のけじめもつけず、会社内であなたに得意顔でまとわりついてきているじゃない!?」


 スミレさんが言っている”あの娘(こ)”とは、言うまでもなくミサだ。

 正直、ミサの仕事能力は高いとは言えなかった。あまりにも使えなさ過ぎて解雇されるほどではないが、別の部署にいるスミレさんの耳にまでミサのイマイチな仕事ぶりが届いていたのだ。

 ”ハセさんの公式彼女”と会社内の者たちに認識されていることで、ミサのことが皆の口に上ってしまう頻度や密度が高く濃くなってしまっていたのもその一因であろう。

 ゴクリと唾を飲み込んだミサは、ハセさんからスミレさんへの答えを待った。

 ニンマリとして。笑顔になって。

 きっとハセさんは「そんなこと、君には関係ない。俺はミサが好きなんだから。ミサを愛しているんだから」と答えてくれるはずとの確信を持って。

 その答えを聞いたスミレさんの悔しそうに歪むであろう美しい顔までをも想像してしまったミサ。

 けれども、ハセさんから口から紡がれた答えは思いもよらないものであった。


「正直、俺にもワケが分からないんだ……」


「ワケが分からないってどういうことなの? あなたはあの娘(こ)のこと好きだから付き合っているんでしょ? あなたからあの娘(こ)に声をかけて付き合い始めたんでしょ?!」


「……俺から声をかけたことは間違いない。でも、俺自身、本当に自分の気持ちも行動も分からないんだ」


「? ……そんなこと言われたら、私だってますますワケが分からないわよ! 好きでもないのに、付き合っているの?!」


 ハセさんは、答えない。いや何もかもが分からないハセさんには答えることができないのだろう。

 『らぶらぶ手帳』の効果は確かにあった。

 ミサは、ハセさんと公式上は”らぶらぶ”になることができた。しかし、ハセさんの心を真にとらえることまではまだ出来ていない。

 本物の愛の結びつきまでをも得ることは、魔界の息がたっぷりかかったアイテムを持ってしても、やはり本人たち次第であるのだ。


 甘い夢の終わりは、徐々に近づいてきていた。

 ミサの頭の中で、魔界通販日本営業所の女性オペレーターの言葉が、幾度もリフレインされ、胸に刺さったままの棘のごとく疼く。


「やはり3か月後の展開については、お客様次第と言えますね。その間に、本物の愛の結びつきを得ることができるか、それとも束の間の夢を楽しむだけとなるのか……」


 『らぶらぶ手帳』を手にする前のミサは、3か月という期間限定の甘い夢は自分の一生涯の思い出となるはずだと思っていた。

 3か月間だけとはいえ、憧れの王子様の側に肉体関係はなくとも恋人としていることができたという思い出を胸に、自分はこれから生きていけるのだと。

 それだけで構わないと、ミサは本当に最初はそう思っていた。

 しかし、一度、甘い夢を味わってしまったミサは、ずっと夢の中にいたくなっていた。かりそめの愛とはいえ、一度手に入れたものを手放したくない。二度と夢から目覚めたくなどない。

 自分に自信など全くなかったのに、ハセさんと付き合うようになってからのミサは、他の女性社員たちを――社内の女子カーストの最上位のスミレさんまでをも――上から目線で眺めるようになってしまっていた。

 浮きたちまくっているミサの心は、静まることはなく常にランナーズハイの状態であった。

 まあ、一言で言うなら「調子に乗っていた」というわけだ。


 ミサの現実における甘い夢の日々が過ぎ去っていくとともに、最後の悪夢期間2週間までもがついに始まってしまった。

 最初の悪夢期間においては、カニバリズムやスカトロジーなホラーでアダルト風味な悪夢であったのに、なんとラストを飾る悪夢たちはミサがハセさんを失ってしまう内容のものばかりであった。

 スミレさんが「2番目でもいいから。お願い、私を抱いて」とボーンと突き出た胸元をはだけてハセさんに迫り、美女の捨て身の誘惑に陥落してしまったハセさんと彼女の間に子供ができて結婚することになってしまう夢。

 ハセさんが29才にして芸能界デビューすることとなり、彼は日本中の、いや世界中の幼女から老女までを、まるで悪魔のごとく瞬く間に虜にしてしまったうえ、ついには外国の本物の王女様からもお声がかかり、”本物の王子様”となってしまう夢。

 ミサとハセさんがどこかの超高いタワーでデート中であった時、突然にハセさんが「ああああああああ!」と錯乱して、タワーの柵を乗り越えてしまい……転落死したハセさんのグチャグチャの肉片と化した死体を見せられる夢。

 悪夢のバリエーションは他にもいろいろあったが、これらの悪夢から目覚めたミサの心臓は最初の悪夢期間以上にドクドクズキズキと脈打っていた。

 

 嫌だぁぁ!!! 私はハセさんを失いたくなんてないよ!!!


 ミサは頭を抱えた。

 嗚咽しながら、頭を抱えていた。

 ハセさんがもともと自分のものではなかったことを、いやハセさんは誰のものでもなく彼自身のものでしかないことなどとうに忘れていた。


 やっぱり、ハセさんとエッチしちゃおうか?! 避妊せずにエッチしまくってもらって……うまいこと授かり婚に持ちこんじゃおうか? 『らぶらぶ手帳』の効力が切れた後でも、優しいハセさんだから絶対に私を孕ませた責任は取ってくれるよね? 私がずっと守ってきた大切な処女を捧げたってことでもあるし。でも、でも……私、もっと痩せてペタンコお腹になって、背中も腋もツルツルのピカピカにして、綺麗になってからの姿を、ハセさんに見て欲しいし、愛して欲しいよ……!!!


 そうこう思い悩んでいるうちに、ミサは最後の悪夢から目覚めてしまった。

 枕から頭を上げたミサは、現実の甘い夢も昨日で終わったことを、どこか底冷えしているような寝室の空気とともに感じ取った。




 ミサは会社の前でハセさんの出社を待っていた。

 今にも泣き出しそうな顔で立っているミサに、同じビル内で働く人々たちのみならず、通行人までもが怪訝な視線を向けていた。

 夢はもう終わり。それは理解している。しかし、ミサの心は一縷の望みをかけ、ハセさんを待っていた。

 もしかしたらハセさんが昨日までと変わらぬ微笑みを、本当に恋人関係を継続することにした自分に見せてくれるのではないかと切に願いながら。

 その時、ミサは気づいた。

 今、自分が肩から下げている通勤カバンの中にあの『らぶらぶ手帳』が入ったままであるのだ。

 『らぶらぶ手帳』の効力は、昨日で終わっている。だが、手帳に自分が書き込むことができるスペースは残されていた。

 確かに1日1ページの記入欄はビッチリと埋めているものの、表紙の裏や背表紙の裏にあたるページは全く白紙状態だ。まだ書き込める。


 『らぶらぶ手帳』の表紙の裏ページをバッと開いたミサは、カバンの中を引っ掻き回し、インクが少なくなっている黒のボールペンを取り出した。

 3か月前に注文を受け付けてくれた女性オペレーターの言葉――「なお、この『らぶらぶ手帳』でございますが、ご使用期限を過ぎた後はご使用にならないようにお願いいたします。”くれぐれも”よろしくお願いいたします」という言葉――が不意にミサの火照り始めた脳内に蘇ってきた。


 しかし、ミサは構わず書き込んだ。

 どうせ分かりゃしないと、高を括って。

「好き、好き、好き! ハセさん、大好き! ハセさんとらぶらぶ! 今日もハセさんとらぶらぶ!」と。

 だが、とりあえずの導入部を書き終えた瞬間、信じられない現象が起こったのだ。


「!?!?」


 なんと、手帳に文字がぶわりと浮かび上がってきた!

 おどろおどろしい真っ赤な血文字で。

 これぞまさに”魔界”といった書体で。



「お客様、非常に残念でございます。

 私どもが『ご使用期限を過ぎた後は”くれぐれも”ご使用にならないように』ということを念押しで申し上げたにもかかわらず、本商品をこうして使用されてしまいますとは……お客様はどうせ私どもにはバレやしないと思って、このような愚行に及んだものだと推測されますが、魔界通販の私どもが言うのもなんですが『天知る、地知る、我知る、人知る』という言葉をお聞きしたことはないのでしょうか。

 それに、弊社は”誠実”を経営理念としております。

 よってご利用されるお客様にも”誠実”であってほしいものでございました。

 ですが、正直申し上げますと真正面から意中の人にぶつかってはいかず、こんな『らぶらぶ手帳』なんて一種のドーピング行為を良しとするお客様の誠実さなんて、最初からある程度はお察しではございましたけど(笑)

 ただいまよりこの『らぶらぶ手帳』は昨日までとは逆の事象を引き起こします。

 言葉通り”らぶらぶ”の逆の事象でございますよ。

 少しばかりのヒントを申し上げるなら、先ほどのお客様の違反行為が思い人様の社会的生命を終わらせ、転落させてしまう……ということですね。

 それでは失礼いたします。

(追伸)

 私ども一同、一方的にお客様に思いを寄せられてしまった世にも気の毒な殿方のご多幸を心よりお祈り申し上げます(笑)」



 なんということだ!

 魔界通販の者たちは、全てお見通しであった!

 おどろおどろしい血文字のメッセージは、ミサを全身の血を瞬時に凍らせたばかりか、魔界通販の者たちは”らぶらぶ”の逆の事象を今から引き起こすとまで言っている。


 嫌あああ! 何?! 何が起こるの?! いったい何をされるというの?!


 ”らぶらぶ”の逆。

 それはハセさんに嫌われてしまう、憎まれてしまうということか?

 いや嫌悪と憎悪ではなく、全くの無関心の状態になってしまうのもしれない。

 全くの無関心とは、ミサが『らぶらぶ手帳』を手にする前の状態に戻るだけではあるが。

 だが、「社会的生命を終わらせ、転落させてしまう……」という言葉の意味がミサには良く分からない。

 まさか、ハセさんが突然に「ああああああああ!」と錯乱して、通行人たちに危害を加え始め、魔界の死者のごとく血に飢えた殺人鬼へと変貌してしまうとでもいうのか?

 それではハセさんだけでなく、通行人たちの社会的生命どころか人生そのものを終わらせてしまうことになる。


 ハセさんにそんなことさせちゃいけない! 何とかしてハセさんを止めなきゃ! でも、実際にハセさんと対峙することになったら、私真っ先に逃げちゃうかもしれない……なんだかんだ言って、私はか弱い女の子なんだし、暴れ狂う男の人を止めるなんて無理だよ……どうしよう? どうすればいいの? もう今のうちに逃げちゃったほうがいいのかも?!


 ミサが無責任にも程がある行動の選択へと到達したその時、道の向こうから悲鳴が聞こえてきた。

 幾人もの通行人女性の「きゃーっ!」「いやーっ!」という悲鳴が!

 その悲鳴には、スミレさんのものだと思われる「ちょっ……いったい、どうしたのよ!? ハセくん!!!」という叫びまでもが混じっていた。

 スミレさんだけじゃない。

 男性たちの「早く警察を呼べ!」「捕まろ!」「変態がいるぞ!」という声は、突っ立ったままのミサの血肉をピキーンと凍らせた。

 魔界通販の者たちは、言葉通り”らぶらぶ”の逆の事象をハセさんの身に引き起こしたのだ。

 そう、”らぶらぶ”という言葉を反対から読んだなら……


 いやいやペナルティを課す相手が違うやろ、と言ってもそんなこと、あいつらには通じない。

 嗚呼、何て気の毒。嗚呼、何たる理不尽。


 自分でもワケが分からないまま、公共の場で”ぶらぶら”させてしまうことになった世にも気の毒なハセさんは、駆け付けてきた数人の警察官たちによって「公然わいせつ罪」で現行犯逮捕されてしまった。



―――沈(チン)―――

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【R15】らぶらぶ手帳【なずみのホラー便 第31弾】 なずみ智子 @nazumi_tomoko

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