プリズムの視界
鈴木 千明
息を呑むほどの景色の中で
海に沈んでいく夕日が、少年の目に沁みる。少年はたとえ一瞬でも、愛する少女の姿を見失いたくなかった。霞む視界の中から、海風が少女を攫ってしまうのではないかと、怖くなった。少年は少女の身体を、いつもよりも強く抱きしめた。少女の足先まで、波が押し寄せては、引いて行く。
少女の腕時計が、赤い光に照らされて光る。少女の細い腕には似合わない、大きな時計だ。手の甲に乗ってしまっている文字盤の上で、短針は、真上の12に限りなく近い。長針は、1の近くにあり、5分割に刻まれた目盛りの1つ分だけ、12に寄っている。文字盤の中、小さな丸の中にある針は上を指し、短針が示すのは〝0時間〟であると告げている。これはただの時計ではなく、少女の余命を示す、特殊な腕時計だ。手のひら側にあるもう1つの文字盤は、白い腕に隠れていて、見ることができない。だが、3つの針が揃って真上を指していることは、もう何度も確認した。
手の甲の長針がまた1つ、12に近づく。彼女の命は、あと3分で消えてしまう。
少年は涙を零した。少女の頰を伝い、その中に夕日を映す。かける言葉は、細波だけが揺れる穏やかな海にさえ、呑まれてしまう。
腕の中の少女と、彼女の最期に見るこの景色は、あまりにも美しかった。これほど美しい光景は、見たことがない。これから迎える悲しみを思うと、残酷なほどに。
“ 綺麗だね。” 少女がそう言った気がした。細い声は、波の音と、時計の針が動く音にかき消される。
少年は、少女の腕から時計を外し、海へ放った。夕日の中で宝石のように光り、水面に溶けた。まるで元から存在していなかったかのように、波を乱すこともなく、沈んでいった。
少年はまた、少女を抱きしめ直した。彼女の命が残りわずかであることも、この息を呑むほどの景色の中で、溶けてなくなれば良い。あの時計と共に、彼女の時間もこのまま止まれば良いのに。少年はそう思った。
夕日の一欠片が、海の縁から落ちようとする。最後に少し強く光を放ち、姿を消した。
少女は眠った。呼吸が彼女の髪を揺らすことはもうなく、瞳が彼女の心を揺らすことも、もうないのだ。
少年は泣いた。海風よりも静かに嗚咽を溢し、夕日の残した光が弱まっていく様を、プリズムの視界の中で見届けた。
少女は目を覚ました。天井の照明に、徐々に焦点が合っていく。ベッドが静かな機械音とともに、椅子の形に変わる。
いつものように質問をされ、身体検査と精神状態の確認が念入りに行われる。装置と観察対象の準備ができ次第、少女はこのベッドに戻る。
そしてまた、少女は誰かの夢の中を目指して潜る。誰かの恋人、ときには家族、ときには有名人、ときには極悪人、ときには恩人、ときには怨敵として。
『〝余命時計〟実用化に伴う周囲への精神的影響および発生し得る状況について』
職員の持つ資料に、幾度となく見た文字が並んでいる。現実から沈み、夢に浮かぶ。光が拡散していくプリズムの視界の中から、インクの塊たちが消えていった。
プリズムの視界 鈴木 千明 @Chiaki_Suzuki
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