ラストステージ
奏 舞音
ラストステージ
彼女は、毅然と前を向いていた。
つい先程まで震えていたはずの手も足も、暗いホールの中、スポットライトが当たるとそんな様子は一切見せない。
にっこりと微笑み、黒いドレスのすそをつまんで、優雅にお辞儀する。
ジャズピアニスト、新堂ゆかりのラストステージ。
客席は満員だった。
しかし、誰もが皆、彼女の方を不安そうに見つめていた……。
*
――私はね、ピアノにすべてを捧げてきたの。
コンサート前、彼女は私にそう言った。
――人様に自慢できるような生き方をしていないことぐらい、分かってるわ。私は、いろんなものを捨てて来た。自分の子どもだってそう……だからこそ、ピアノだけは手放せなかったの。それなのに……ね。
彼女にとって、ピアノは人生そのものだった。
しかし、彼女はもう、ピアノが弾けない。
職業性ジストニア――手指の筋肉に問題はないにもかかわらず、思うように手や指が動かせなくなる病気で、原因はよく分かっていない。プロのように高いレベルを持つ演奏家やスポーツ選手などがなりやすいという。
――笑えるでしょう? ピアノのために他の大切なものすべてを捨てたのに、私の身体はピアノに触れると動かなくなるの。私からピアノをとったら、何が残るのかしらね……。
自嘲気味に、彼女は笑っていた。魂の抜けた人形のように乾いた表情で。
私は、「そうですね」と頷くことも「そんなことないですよ」と否定することもできずに、ただボイスレコーダーの停止ボタンを押した。
『どうして、取材を引き受けてくれたんですか?』
――どうしてかしら。あなたのことが、好きだからかもしれないわね。
その言葉に、消していたはずの記憶や感情が揺れ動かされる。
しかし、私はそんな動揺は微塵も出さずに、愛想笑いをうかべた。
『嬉しいです。あなたのラストステージを生で見ることができて。でも、本当に手は大丈夫なんですか?』
私の問いに、彼女は意味深に微笑んで、取材はもう終了だと告げた。
*
そして今、彼女はステージに立つ。
ホール内に緊張が漂う。彼女の指は動くのか。
黒く艶やかな輝きを放つ、グランドピアノ。白と黒の鍵盤。彼女の美しい色白の肌と、黒いドレスのコントラスト。
弧を描く、真っ赤な唇。
細く長い指が、鍵盤に触れる。
彼女が鍵盤に触れた瞬間、その場の雰囲気は変わった。
思わず身体が乗ってしまう、ジャズ独特のリズムに、不安そうな顔をしていた観客は笑顔になる。細見の彼女からは想像もできない、パワフルな演奏。
本当に病気なのか疑ってしまいそうなほど、その動きは自然で、聴いているだけで楽しくて。
彼女がピアノに注いできた時間がどれだけ大切で、どれだけ愛おしくて、楽しかったのか、私には分かってしまった。
「ピアノのために私を捨てたから罰が当たったんだ、って……ずっと憎んでいたけど」
私は、彼女がピアノのために、と捨てたものの一つだ。
父は、母は死んだと言っていたけれど、いつも新堂ゆかりのCDやコンサートの情報をチェックしていたのを知っている。それに、財布に大事そうに入れていた若い頃の二人の写真。
隠していたつもりだろうが、父は詰めが甘かった。
まだあんなピアノだけの女を愛しているのか、と思春期を過ぎた頃から私は呆れて何も言えなかった。
しかし、父は本当に新堂ゆかりを愛したまま、病気でこの世を去った。
捨てられた私たちには、何もないのに、あの女にはピアノがある。
だから、許せないと思った。
そうして記者になった私は、暴露記事を書いて新堂ゆかりを追い詰めてやる、ピアノを奪ってやる、と意気込んでいた。
そんな時に、耳にしたのだ。
新堂ゆかりが職業性ジストニアと診断され、もうピアノの道は断たれただろう、という話を。
「あなたは、本当にピアノにすべてを賭けていたんだ……」
こんな演奏を見せられたら、もう何も言えなくなる。
私も、今はただ、この演奏が終わらないで欲しいと願う、ただのファンだ。
このステージが終われば、彼女が生き生きとピアノを弾く姿はもう見られない。
プログラムは、演奏時間三分間の、たった一曲だけ。
それが、彼女の限界だった。
演奏終了後、観客はスタンディングオベーションで彼女を称えた。
そして、涙した。
彼女の手はもう限界を超えていて、その場から動くことすらできなくなっていた。
ありがとう。どこからか、そんな声がした。
彼女がピアノへ込めた強い想いは、観客の心を動かした。
彼女もまた、自身のピアノ人生最後にふさわしい演奏ができたことに笑みを浮かべた。
この三分間のラストステージで、新堂ゆかりは“伝説”となった。
ラストステージ 奏 舞音 @kanade_maine
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