この町には、猫を入れてはいけない

神辺 茉莉花

第1話根澄町のルール

 根澄町の町役場一階、住民課。

 転入届を受け取った男性が顔をしかめ、隠すようにいびつな笑みを浮かべた。

「高梨……小百合さん、申し訳ありません。ちょっと……」

「はい?」

 記載した書類に何か不備でもあったのだろうか。いぶかしみつつもカウンターに身を乗り出すと、男性はのけぞるように身をそらせた。失礼な態度に多少むっとする。

「何ですか」

 思わずぶっきらぼうな口調になった。

「えと……あの、つかぬ事をお伺いしますが……高梨さんって、もしかして猫を……飼ってらっしゃる?」

「ええ、まあ」

 前の町で八年。喜びも悲しみも共有してきた、家族のような存在だ。一度など、仕事で失敗をして落ち込んだ私の前にどこからか狩ってきた鼠を置いたこともある。本人……いや、本猫にとってはご飯を食べて元気を出してほしいという意味合いだったのだろう。

 そんなかわいい相手を手放して新天地に行くことなど、どうしてできようか。今も駐車場に停めた車のなかにはケージに入った愛猫がいるはずだ。

「実は、根澄町は条例で猫が禁止されておりまして……」

 ――猫が、禁止されてる?

 そんな条例、聞いたこともない。

 あまりにも理不尽な取り決めに私は口をぱくぱくとさせた。

「ちょっと……上司と相談させてくださいね」

 険しい顔つきにでもなっていたのだろう。私が文句を言う前に受付の男性はさっと席を立って奥の方へ逃げて行った。


 数分後、私は住民課の課長を名乗る小太りの人物から、この町の特殊なルールについて説明を受けた。説明と言っても先ほどの男性の発言と同じ「根澄町では猫を飼うことが禁止されている」以上の情報はなかったが。

「もういいです! 新居から探しますから!」

 延々と続く堂々巡りの話し合いに疲れた私は、半ば啖呵をきるようにそう二人に向かって叩き付けた。

 びくりとした顔の裏側に安堵の念が見える。乱雑に書類を鞄の中に入れ、帰る仕草をすると安堵の念は一層の広がりをみせた。

 その、いかにもお役所じみた態度に私は落胆の吐息を漏らした。

 車を停めた周囲には他の車両はなく、悠々と出ることができたことだけが幸いだった。



 先ほど市役所で受けた待遇を交え、新居を探すために不動産会社に乗り込むこと四軒目。人のよさそうな笑みを浮かべていた女性の営業社員が、深々と頭を下げた。

「お客様、大変申し訳ございません。私ども、スマイル不動産ではペットの同居……特に猫の持ち込みは不可となっております」

 はぁ。

 ここも、だ。途中まで浮かべていた笑顔が「猫がいる」という情報で凍りつき、そこから拒絶の道をたどる。理由を聞いても「条例だから」の一点張りだ。

 ――またクレーマーみたいな、面倒な客扱いされて出ることになるのか。

 だが、この時は少し違っていた。

「もし……」

 いかにも困ったという口振りで、それでも自身の営業成績を上げたいのか、女性社員は声を潜めた。

「もし高梨様さえ可能でしたら猫をご家族にお預けいただいて、……高梨様だけであれば入居は充分に可能ですので……」

 そういうことじゃない!

 思わず出かかった言葉が、ふと消えた。

 ――つまり……入居の時にだけ家族に預けて、落ち着いたころに連れてくればいい? 郊外の一軒屋を借りればまわりにだってばれないだろうし、今まで通り完全室内飼いをすれば……消臭にだって今より気を使えば……。

「ちょっと……今の、家族に預けるっていう話を前提にして話を進めてもいいかしら」

「はい、もちろん!」

 ここでようやくお茶がふるまわれた。渋みがあるものの、温かくおいしい緑茶だ。滋味あふれる味わいに、私はものの数口でそれを飲み干した。



 実際、暮らしてみると根澄町は思った以上に快適だった。

 まず、物価が安い。

 電化製品も服も、食料品も前にいた街よりも四~六割は低価格だった。特に驚いたのは医療費だ。子供への医療費の助成が行われている市町村は数多くあるが、根澄町は住民ほとんどがほぼ無料であらゆる医療機関を受診することができた。

 そして給料がいい。前の町にいた時と同じ、食品メーカーの事務という地味な仕事だが、給料は四十%増しだ。

 同じくネコ好きの親友、明菜にも幾度となくその素晴らしさを伝えた。もしよかったら転入する日はうちに猫をつれてきてもいいから一緒に根澄町に移住しないかと。



 異変が起きたのは根澄町に住民票を移してから十日目だった。

 早めに布団に入ったせいか、明け方に不意に目が覚めた私はどことなく違和感を覚えた。

 ――体が、だるい。

 疲れが出たのか、やたらと布団が重い。ようやくの思いで掛布団からはい出る。

 姿見のなかの私も一緒にもぞもぞと動いていた。光の加減なのか寝ぼけているのか、少し縮んだように見える。

「う……ん?」

 左腕が、変だ。まるでマフラーか何かを巻き付けてしまったような……。

 そろりとパジャマをまくり上げる。

「ひっ! ひぃ!!」

 空気が朝の色に染まる。どこかで野鳥が甲高く鳴いた。

 声にならない悲鳴。

 本来肌色であるはずの左腕に、びっしりと銀色の毛が生えていた。まるで、そう、ネズミのような……。

 さぁっと背が冷えると同時、何か、とんでもなく威圧感を持った生き物の気配を背後に感じた。

 グルルルル……。

 低い声は、獲物を見つけたときの歓喜の唸りだ。分かる。背後にいるものの正体を、私は誰よりもよく分かっている。

 じり……。

 一歩。

 じり……。

 二歩。

 匍匐前進のように身を低くし、相手は飛びかかるタイミングをじっと窺っている。

 シャァァァー! グルァァァァー!

 尖った牙。ざらざらの舌。鎌のような爪。

 確かに私はそのとき相手の殺意を感じた。だから、私もめちゃくちゃに手を振り回し、爪を立て、相手の顔を引っ掻き……。

 爪が、生温かい赤で染まる。


 ……気が付いたら私は人間の姿でぼんやりと布団の上に座っていた。腕を見てもあの、銀色の毛は生えていない。体の重たさも、倦怠感もほとんどない。

 まるで、幻のようだった。布団の近くで顔面血だらけでこと切れている愛猫以外は。

「ひぃ……イヤァァー! ヤダァァー!」

 悲鳴に、住民が何事かと集まってきた。



 車座になった根澄町の住民が語ったのは、信じたくない、それでも信じざるを得ない証言の数々だった。

 

 この町は、町が丸ごと遺伝子操作の実験対象となっていること。

 医療費が無料なのも、研究費でまかなっているから。

 あの緑茶を飲んでから約一カ月かけて「昼は人間」「夜はネズミ」となっていくこと。

 根澄町は「ネズミ町」を意味していること。


 そうして、こう言って結んだ。

 だから、この町では条例で猫を禁止しているのだ、と。自らの身を守るためだ、と。


 ああ……私の口から、絶望の溜息がこぼれた。


 そのとき、スマートフォンが鳴動した。電話だ。

 動揺していたのか、誰の呼びかけであっても出る気はなかったが、持った瞬間に通話をタップしてしまったようだ。

 親友の、生き生きとした声が伝わる。

『決めた! 私も移住する!』

 そうして、弾んだ口調のまま、声量だけを落とした。

『私の飼っている猫も、連れて行っていいんでしょ?』

 心臓が、はねた。悲鳴に近い懇願が口をついて出る。


「ダメ! 根澄町には猫を持ち込まないで!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この町には、猫を入れてはいけない 神辺 茉莉花 @marika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ