13.カギは青いバラ

「いやぁ、ご迷惑おかけしました」

 事件の解決から数日後。烏河病院のエントランスには見送りの看護師に気まずそうに頭を下げる紫木の姿があった。傷口をどこかの誰かが痛めてしまったせいで、結局彼は予定を延ばして入院し経過を観察、問題なしと判断されて今日退院となった。

 もう患者服は着ていない。搬送されたときに着ていたのだろうスーツを身にまとっている。杖を突いて立つ姿は元気そうだ。

 紫木の周りに集まる看護師たちは、口々に「最初はどうなることかと思ったけど」とか「先生のおかげで」とか言っている。彼は搬送させた当初大騒ぎしたことがいまだに恥ずかしいのか、頭を掻きながら投げかけられる言葉へ頷いていた。

「でも、どうして葉原先生はあんなことを?」

 私の隣で、紫木を出迎えに来ていた森が言った。彼女は彼女で、どこからか紫木の退院予定を聞きつけて出迎えに来たらしい。そういえば彼女には、事件の詳しい話はせずじまいだったか。

「うちの後輩刑事が取り調べんだけどね。葉原、末期の患者が可哀想だって理由であんなことしたらしいわ」

「可哀想?」

「そう。どうせ治らないなら、さっさと死んだほうが苦しくないだろうって。界面活性剤を注射してね。最初は本当に末期の老人だけを殺してたんだけど、やってるうちにどんどん範囲が広がってったらしいわ」

 界面活性剤は要するに洗剤の一種だ。子供が誤飲することはあっても、人の血管に注射されることはない。だから過去の事例もなく、医者は被害者の死因がそれであることに気づけなかった。もちろん、ただの洗剤を厳重に管理することもない。

 ありふれて、なおかつ未知だった毒を手に入れた葉原は無敵だった。紫木が現れるまでは。

「怖いですね……治してもらおうと思って入院したら殺されちゃうなんて」

「ここから大変よ。どこまでが葉原の仕業なのか、多すぎて彼女ですらよくわからない状態なんだから」

「ことによっては戦後最大の連続大量殺人になるかもしれませんね」

 いつの間にか、花束を持った紫木が目の前へ来ていた。私の視線に気づいて、彼は「看護師さんからもらいました」と言った。

「あぁでも、サリン事件にはさすがに負けるかもしれませんが」

 不謹慎なことを言いながら笑う彼に、私は顔をしかめる。

「笑い事じゃないでしょ。まったく、自分を囮に使うとか信じられないわ」

「薫さんなら心配ないって思ってましたから」

 森が彼の花束を受け取る。花束は名前にあやかったのか、紫色の花が中心になっている。晶と同じ発想だ。みんな考えることは同じか。

 小さな釣り鐘状の花が揺れる。名前はわからなかった。

「そうだ。気になってたんだけど、美咲ちゃんはどうなったの?」

「美咲さんですか? 永川曰く、カウンセリングに入ってからは自傷行為は無くなったようです。彼女ならすんなり丸く収めるでしょう。腕のいいカウンセラーですから」

 噂をすれば、階段を下りて永川がエントランスへやってきていた。紫木が手を振って彼女へ合図すると、こちらへやってくる。

「紫木くん、退院今日だっけ?」

「あぁ。迷惑かけたな」

「こっちこそ。……ありがとう」

 紫木がわずかに微笑んで、無言で頷く。

「じゃあ行きましょうか。神園さん」

「えぇ。……って病み上がりでバイクは大丈夫なの?」

「それ以外帰る方法ないですし。ここアクセス悪いんですよ」

 そう言って、彼は歩き始めた。私と森が両脇を支えるように彼を追いかけ、病院の自動ドアから出ていく。

 はずだった。

「失礼、紫木優さんですか?」

「……はい?」

 私の隣から、スーツの男が近づいて話しかけてきた。荒くまとめた固い短髪で、落ちくぼんだ眼が不気味な印象の中年男性だ。

 あれ? 私、この人に会ったことあるぞ。

 その理由はすぐに分かった。

「大阪府警の難波といいます。あなたに逮捕状が出ています。殺人の容疑で逮捕します」

「えっ……」

 紫木が呆然としている間に、森を押しのけてもう1人がやってきた。そいつにははっきりと覚えがあった。

「大迫っ!」

「久しぶりだな神園。今度は邪魔させないぞ」

 大阪府警の大迫刑事。一月に京都府警と大阪府警が事件で対立したときに会っている。そしてその事件は、紫木が真相を暴き大阪の捜査の不手際を明らかにしていた。

「なんで……先生っ」

 森は虚空に手を伸ばしたまま硬直している。突然のことに対応できないでいた。私も同じだった。誰かを逮捕したことはいくらでもあったけど、知り合いが逮捕されるのを間近で見るのは初めてだった。

「薫さんっ」

 紫木は手錠をかけられながら、私を振り向いていった。

「ブルーローズ……平塚葵へ連絡をっ。それですべてわかるはずです」

「なんで……」

 大阪府警に連れていかれる彼の顔は、どういうわけだか、満面の笑みだった。


(『ガラスと指』へ続く)

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献身の規定因/アラフォー刑事と犯罪学者 新橋九段 @kudan9

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