12.献身の規定因 下
葉原春子が真犯人だった……というのは、この烏河病院で発生していた事件のうち、九割の真相でしかない。つまり、残りの一割にわかっていないところがある。
そう、貴島美咲を襲っていた病の正体である。
葉原がなぜこのような強硬に出たのかはまだ分かっていない。いまは注射器を取り上げた状態で看護師たちに監視してもらっている。すでに通報を受けた平さんたちがこちらへ向かっているところだろうから、それが明らかになるのは追々だ。
だが葉原の、真犯人の犯行には「素早く殺す」意志があった。ちょっとずつ毒を盛って弱らせて、などという手順は踏んでいない。だから、病状の悪化を繰り返しつつも致命的な事態に至っていない貴島美咲のケースは、葉原とは別の事件だと考えられる。
というのが、作戦実行前に紫木が話してくれた推理だった。そこから先が肝心なんだけど、それは実際に彼女に会ってからという予定だった。
だったんだけど。
「本当に大丈夫なんでしょうね?」
「はい……まぁ、うん……」
「息が絶え絶えになってる!?」
私の不手際(やむを得なかったんだ)で酷いダメージを負った紫木は、いま私の背中でぐったりとしていた。紫木の病室から美咲の病室までは、健常者の足ではすぐなのだが、義足で開腹手術直後、しかもその傷口をしたたかに痛めてしまった彼には千里に値していた。何とか力を振り絞って病室を出た彼は廊下を数歩行ったところで力尽き、結局私が担ぐことになった。紫木の呼吸が弱々しい気がしたけど、いつものを知らないので判断ができない。
「ねぇ、休んだ方がいいんじゃない? 美咲ちゃんの対応は後でも……」
「いまではなくては……だめです。このタイミングを逃せば、最善の解決は望めません……」
「……わかった。もうちょっとだから」
そういっている間に、美咲の病室が見えてきた。廊下には大騒ぎを聞きつけて既に大勢の患者や付き添いが顔を出しているが、美咲の病室の扉は締まり切っていて静かだった。私はその扉を、ノックすることなく力いっぱい開いた。
病室に入ると、美咲は冷蔵庫のそばで蹲っているところだった。ただ、様子がおかしい。
「……何やってるの?」
「っ!」
声をかけると、美咲が驚いた様子で顔を上げた。その拍子に、彼女の口から何かがこぼれて床を汚す。手にはペットボトル。
「……水?」
「やはり……水でしたか」
背中の紫木が呻く。美咲は水が半分ほど入ったペットボトルを持って硬直している。
彼女の細い体の後ろに、冷蔵庫の中身が見えた。同じように水の入ったペットボトルが何十本も並んでいる。
私は紫木を降ろして、ベッドへ腰かけさせた。彼が息を整えて、重々しく口を開く。
「美咲さん、でしたね。はぁ……それ、今日何本目ですか?」
「えっと……」
美咲は露骨に、紫木から目を逸らして言いよどんだ。さっきまでふてぶてしく不敵な葉原と対面していたせいか、実際以上に彼女の言動が子供っぽく見える。
紫木がちらりと、冷蔵庫の上に並ぶからのペットボトルを眺める。そこにはすでに、五百ミリの空ボトルが五本並んでいた。
「あなたの症状は低ナトリウム血症。いわゆる水中毒ですね」
「水中毒?」
「薫さんは知りませんか? 水をたくさん飲む大会で八リットル飲んで死んでしまった人がいるとか、そういう話。人間の体液は通常、塩分や電解質が適切な濃度で存在しています。しかし大量に水を飲むと、電解質が増えないにもかかわらず水分は増えるので濃度が薄まり、これが不調を引き起こします」
「あぁ、熱中症のとき塩分も一緒に取らないと危ないみたいなこと?」
紫木が頷いた。あれは汗と一緒に出た電解質を補給しないまま塩分を取るとまずいみたいなことだったと記憶していたけど、そういう理屈だったのか。
じゃあ、彼女の不調の原因も「水の飲みすぎ」ということか? そんな単純な話?
美咲はじっと、黙ったままだった。私は彼女のそばへ歩み寄って、膝をついた。目線を美咲へ合わせる。
「ねぇ美咲ちゃん。あなた、どうしてこんなことを?」
美咲は答えなかった。困ったように俯いて、視線だけ紫木の方へ向けた。紫木はお腹を押さえつつも、苦しそうな表情にならないように努めているようだった。ただそのせいで、かえっていつの以上の真顔になってしまっていて、美咲を威圧している。
「美咲さん。あなたはおそらく……ミュンヒハウゼン症候群でしょう。代理性ではないほうの」
紫木の声が小さく響く。
ミュンヒハウゼン症候群の、本来の原因は確か。
「推測ですが、要するに……あなたは誰かの気を引きたかったのでは? 両親とか」
「…………」
美咲はまだ黙ったままだ。泣きそうな顔になって、唇を噛んでいる。紫木はそんな彼女にかまわず続けた。
「この病院で起きている一連の事件が、実は代理性ミュンヒハウゼンを原因としていないのではないかということに思い至ったとき、では美咲さんの事件も同じではないかということに気づきました。であれば、考えられる最大の可能性は、美咲さん自身がミュンヒハウゼン症候群であるということです。ことが大きくなっているので気づきにくかったのですが、親の気を引きたくて仮病を使う子供と同じだと考えればさほど突飛なことではありません。
では仮に美咲さんが自分で症状を作っているとして、その手段は何でしょう。臨床心理士ではない僕が知る限りですが、ミュンヒハウゼン症候群患者の多くは単なる自己申告、仮病止まりです。自分は病気だから、検査で異常が見つからないのはおかしいと医者を渡り歩くというのが典型です。しかし美咲さんの症状、とりわけ意識の混濁は演技でどうにかできるレベルを超えています。何か、具体的な行動を起こして不調を引き起こしているのは間違いありません。
しかし美咲さんはまだ中学生です。自分で起こせる行動は限られている。加えて入院中にも同じ不調が起きている。僕が知っている事例では、腐った食べ物を摂取することで食中毒になるという手段を取った人もいましたが、母親が看護をしているのにそんなものを隠して置ける余地があるとは思えません。入院中ならなおさらです。サプリメントの過剰摂取というパターンもありますが、あれは結構値が張ります。中学生が大量に購入できるものではない。で、あれば」
紫木は彼女が手にしているペットボトルを見た。美咲が握りしめているせいで、ボトルは半ば潰れかけている。
「中学生でも、どこでも手に入れることのできるもので不調を起こすしかない。最たるものが水でした。水なら蛇口をひねればどこでも、どれだけでも手に入れることができます。大量に持っていてもあまり疑われない。むしろ、やたら喉が渇くとでも訴えれば病気の症状としてカウントしてもらえるというわけです」
「でも、なんで誰もこれが水中毒って気づかなかったの? 低ナトリウム血症自体はさほど珍しい症状でもないんでしょ?」
私が尋ねると、紫木は「いい質問です……」と答えた。やはり声に覇気がなく、絞り出すようにして喋っている。それでも、説明の間は言葉が途切れないのは驚嘆すべきだろうが。
「迂闊のそしりは免れないでしょうが、しかし気づけないのも無理はありません。これは医者やカウンセラーといった、治療者が抱え続ける宿痾のようなものです」
「宿痾?」
「医者にしてもカウンセラーにしても、患者の訴えを基本的に信用します。つまり、患者が『水を大量に飲んでいない』といえば、とりあえずはそれを信用することになるのですよ。というか、今回の場合は患者や家族からの自己申告がなければ、水の過剰摂取が日常的だったということそれ自体を想定しなかったでしょうね。処方薬やサプリメントの摂取で悪い結果を引き起こす人はよくいますが、単に水の飲みすぎって人は珍しいでしょうし。
それにこれは、低ナトリウム血症の症状が意識の混濁とか吐き気とか、どんな病にも見られうるものであったことも災いしましたね。一見して低ナトリウム血症が原因だとわかる特徴がありませんでした。血液検査をしようにも、処置が落ち着いて回復した後では体の電解質濃度は異常とは言えない値にまで下がっているでしょうし」
医者の治療というのも案外ザルなものだ。だけど彼らは普段、菌やウイルスが悪さをしているとか、内臓に原因があるといったある種「わかりやすい」病を相手にしているし、患者が治ろうとしていることを前提にしている。美咲のように自ら病になろうと手を尽くす患者がいる可能性をいちいち考慮したりしない。
そういう意味では、美咲の病の原因を見抜けなかった彼らの失態と、今回の事件を両方とも代理性ミュンヒハウゼンによるものだと疑ってかかってしまった紫木や私の失態はよく似ている。わかりやすく、あり得そうな可能性を追ってしまう。それはたいていの場合間違っていないけど、今回みたいなごく稀なケースでは簡単な答えを見落として落とし穴にはまることになる。
美咲はもう涙を堪えきれずに、泣いてしまっていた。さっき床へ零れた水へ涙の粒が落ちて、水たまりを大きくしていく。
「……別に、誰も怒ったりしませんよ」
紫木がぽつりと呟いた。私と美咲は、同時に顔を上げて彼を見る。紫木は言葉を選ぶように、途切れ途切れに話す。
「あなたのその行為は、追い詰められてのことでしょう。……どういう理由であれ、ここまでのことをしてしまうほどに、あなたは苦しんでいたんです。あなたは気を引くために症状を作りましたが、その行為自体が既に、ミュンヒハウゼン症候群という病の症状なんです。だからその行為で、あなたが責められるいわれはありません。だってそうでしょう? 風邪をひいている人間の咳やクシャミが五月蠅いからと文句を言う人がいますか? 美咲さん」
紫木はのそのそと立ち上がった。私の肩を掴んで美咲のそばへしゃがみ込む。
「怒らないから、どうしてこんなことをしたか教えてくれますか? あなたが苦しむ原因を取り除くことが、治療の第一歩ですから」
紫木が弱々しく笑う。私はジャケットからハンドタオルを取り出して、美咲に渡した。彼女はそれを受け取って、涙と鼻水でぐずぐずになった顔を拭いた。
「……お父さんとお母さんが、弟ばかりに構うから……。弟が大きくなったら、今度は仕事が忙しいっていうし……」
胸の中に溜まったものを吐き出すような彼女の告白は、病院に到着した平さんが私たちを見つけるまで続いた。
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