最終話

 元号が令和になって五日。十連休も残すところあと一日ちょっととなった新宿駅はごった返していた。都内からの下り電車は軒並み満席で、俺が予約していた十六時発のあずさ二十三号も混雑が原因で遅延が積み重なり、出発も到着も三十分近く遅れた。タクシーに乗り込み、会場のホテルを告げる。すでに同窓会は始まっているはずだった。



「僕には、好きな人がいます」

 そう言うと、冴島さんは「やっぱり……」と呟き、寂しそうな顔をした。

「最近、高校時代の同級生のことをよく思い出すんです」

「その人のことが好きなんだね。今でも」

「僕にとって、忘れられない思い出なんです」



 何日か前、叶さんの恋愛小説に寄せられた応援コメントへの返信を見つけて、俺は頭が真っ白になった。


『最近、ナゴの新しい飼い主が見つかりました! 逃げ出したあの子を、美人でクールで女子力MAXの方が助けてくれました。その方のおうちが、ナゴの新しい住まいです』


 叶まどかとKanaeは同一人物――。だが、それだけではない。俺は、叶まどかと望月香苗を重ねていた。円かな月と望月。二つの満月。最近知り合った二人のカナエと俺の記憶に留まり続ける望月香苗が同一人物なら……。俺は自分の思考を一笑に付した。恋愛小説のような運命を信じるほど、俺は若くも青くもなかった。


 目的地のホテルに到着した。料金を払い、堂々たる建物の前に立ち尽くす俺を残してタクシーが走り去ると、俺は少し憂鬱で心細い気持ちになった。それは、十数年ぶりに級友に会うことに対する緊張だけではなかった。

 彼女と目が合った時、俺は自然に笑うことができるだろうか。自然に会話ができるだろうか。自分が訊きたいことを訊き、彼女が訊きたいことに答えてあげられるだろうか。交わすべき言葉は、何一つ浮かんではいなかった。


 受付に小林がいた。ほかにもいくつかの懐かしい顔が並んでいる。

「お、来たな。特急で一時間半なんて近いもんだろ? 遅刻だけど」

「電車が遅れたんだよ。決してヒーローを気取ってるわけじゃない」

「ヒーローなんて思ってない。彼女にとっては、今でもそうかもしれないけどな」

「彼女?」

「来てるよ。望月」

 小林が親指で背後の扉を指さした。心臓が高鳴るのを感じた。


 会場の扉を開けると、すでに軽く酔いの回った面々がいくつかのグループに分かれて楽しげに談笑していた。通りかかったウェイターからスパークリングワインをもらう。すぐ脇に陣取っていた女子グループが「皐月くん!」「さっちゃん!」と駆け寄ってくる。一瞬誰だかわからなかったが、よくよく見るとみな当時の面影を残していた。彼女たちに下の名前で呼ばれていただろうか、間違いなく「さっちゃん」とは呼ばれてなかったよな、などと思いながらも、幾分気が楽になるのを感じた。


 そこで、やたら力強く後ろから肩を叩く人物がいた。幹事の山田だった。

「よう、久しぶり」

「久しぶり。あんま変わんないな。あ、幹事ありがとう」

「やっと皐月に来てもらえて感無量ですよ」と山田は皮肉なのか、嫌味なのか、本心なのかわからないことを言った。

「これからはちょくちょく顔を出すよ」と俺も本心なのか自分でもわからない言葉を返す。

「そう言えば、来てるよ」

「うん?」

「さっきバルコニーに出ていった」

「……そうか」

 なぜみんな俺に香苗のことを報告してくるのだろうと、ため息混じりにスパークリングワインを口に含む。

「もったいないよなー、ほんと」

 山田は呟くようにそう言うと、来た時と同じように俺の肩に手を置いてから立ち去った。


 バルコニーに目を向けると、ガラス戸の向こうにシャンパングラスを夜空にかざす背中が見えた。俺は静かに香苗の横に並ぶと、掲げられたグラスに自分のを軽く当てた。


「久しぶり」

 十数年ぶりに交わす会話の始まりとしては気が利いているとは言い難かったが、思ったよりも自然に口にすることができた。彼女の目は、今でも記憶の中と同じように澄んでいた。

「……久しぶり」

 俯き加減で、照れくさそうに香苗は言った。

「元気にしてた?」

「わたしは元気だよ。森山くんも、すごく久しぶりだよね。元気だった?」

「相変わらず、かな」

 そこで早くも少しの間が空く。「……いま、何してるの?」

「えっと、わたしも東京に出たんだよ……本屋さんで働いてる」

「本屋?」

 訊き返しながら、香苗は今でも小説が好きなんだろうと、どこかでほっとした気持ちになる。東京にいるということは小林から聞いていたから、驚きはなかった。

「そう、本屋さん! 力仕事もあるけど、すごく充実してるよ。この前、森山くんの好きな伊坂先生の新刊出たの、知ってた?」

「もう読んだ」

「あ、そうなんだ……」

 わざとではないけれど、せっかく香苗が振ってくれた話題を終わらせてしまった気がして申し訳なくなった。が、それと同時に、気まずそうにしている彼女の横顔を見て、思わず笑みがこぼれた。

「え……なに!?」

「ごめん、何でもないんだ。変わらないな、と思って」

「変わらないって。ひどいなぁ」

 そう言って、彼女も笑った。


 程よいアルコールと心地よい夜風の助けを借りて、二人の間にあった空白の時間が少しずつ埋まっていくのを感じた。

「今でも書いてるの?」

 もちろん、小説を、だった。

「……書いている、よ」

 てっきり「森山くんは?」と訊いてくると思ったが、香苗はそこで少しだけ話を変えた。「ねぇ、高校の時に一緒に小説書いてたの、覚えてる?」

「うん。もちろん。高三の夏休みに入るまでの水曜日、ね」

「そう! 森山くんに誘われてから、書き始めたんだよ……森山くんは、もう書くのやめちゃったの?」

「やめてない。というか、あの頃に書きかけた小説と今もう一度向き合ってる」

 俺は次の一言を言うべきか束の間逡巡したが、結局口からこぼれ落ちた。「新しい小説を書くために」

 反応が気になり横を見ると、同じタイミングでこちらを見た香苗と目が合った。ほんの数秒、視線が絡み合う。

「……そっか。森山くんも、前に進もうとしてるんだね」

「俺『も』?」

「うん、森山くん『も』……ねぇ、また小説見せ合おうよ」


 ――そうか、香苗も前に進もうとしているんだ。俺とは違うかたちで。


 香苗は残り少しになったシャンパングラスを傾けると言った。

「きっと、昔よりも私たちいい小説書いていけるよね」

 それは彼女の精一杯の言葉のはずだった。まだ俺たちに未来はあるのか、そう尋ねられているような気がした。

「あの時の俺たちのままじゃ、新しい物語は生まれない」

「私たち、本当にあの時のままかな」

「俺は、あの夏をもう一度やり直したいと思ってる。でも、もう戻ることはできないから、あの夏の思い出は俺を過去に縛りつけるから……それならいっそ忘れてしまいたい」

 香苗は唇を噛み締めた。

「本当にそれでいいの? ね、橘月さん」


 香苗が何を言ったのか、一瞬わからなかった。俺が「橘月」だと知っている? まさか、香苗は本当に――。

「えー、それではここで、ちょっとしたゲームをしたいと思います!」

 マイクを通した山田の声が、バルコニーまで聞こえる。歓声と拍手が広がった。香苗は体が冷えたのか、身震いを一つして会場へと戻っていく。

「待って、望月!」

 本当は「香苗」と呼びたかった。その思いを悟られないように、彼女の視線を避ける。だが、逃げるわけにはいかない。香苗は真正面から向かってきたのだ。

「好きだよ。叶まどかの小説」

 それが俺の精一杯の言葉だった。香苗は嬉しそうな、寂しそうな複雑な表情をした。

「知ってる」

 


 俺は、二次会だ、二次会だと大声を上げる集団から逃げるように道に出た。頬を撫でる五月の風が心地よい。タバコに火をつけ、空いた手でスマホを取り出した。ここ最近目にすることが多くなった名前を呼び出す。彼女はいま何をしているのだろうか。



「その人のことが好きなんだね。今でも」

 冴島さんはあきらめたように呟いた。

「僕にとって、忘れられない思い出なんです」

「そう」

「でも、いつまでも思い出の中では生きられない。自分も前に進まなきゃならないし、彼女が前に進めるようにしてあげなきゃならない」

「……」

「今度、同窓会があるんです」

「同窓会?」

 俺は小さく頷いた。

「そこでもし彼女に会えたら、きちんと言葉を交わそうと思います。前に進めるように……そうしたら、きちんと前に進めるようになったら、僕と付きあってくれますか?」

「……うん」

 冴島さんは泣いているみたいな優しい顔で笑った。



 俺は意を決して「発信」のボタンに触れると、夜空を見上げた。プラネタリウムで見た偽物の星たちほど美しくはなかったけれど、そこには本物の星が無数に輝いていた。俺の選択は正しかったのだろうか。自信はない。けれども、自分勝手かもしれないけれど、香苗も新しい恋を見つけて、これからも小説を書き続けてくれたらいいと願った。


 呼び出し音が三回鳴り、回線が繋がった。不安な気持ちを心の底にぐっとしまい込むような間がある。

「……もしもし」

 その声が少しだけ懐かしい気がした。

「明日の朝一のあずさで帰ります。そしたら……」

「何時に着くの?」

「え? あぁ、九時過ぎかな」

「わかった。新宿駅で待ってる」

「うん、ありがとう」

「シューズは持ってる?」

「え、また走るんですか? 冗談ですよね?」

「結構本気だけど」

 冴島さんは電話の向こうでいたずらっぽく笑った。この恋に退屈することはなさそうだ。


 電話を切ると、癖でいつものサイトを開く。通知を示す印が付いていた。叶まどかの小説の最新話が投稿されていた。

「いつの間に……」

 どうやら彼女の物語は完結したようだった。香苗は、もう前に進んでいる。俺もあの書きかけの小説を終わらせなくてはならない。前に進むために。俺の小説を待ってくれている彼女のために。


 見上げた空に月はなかった。新月の街は、それでも光にあふれていた。




――恋愛小説に『恋』をして






もう一つの最終話へ

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888890745/episodes/1177354054889412404


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恋愛小説に『恋』をして Nico @Nicolulu

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