キャプテン・マルコ

Win-CL

第1話

 ――左腕に着けた腕時計が、小さく電子音を鳴らす。

 朝の七時四十分。


 自分が去年まで担当していた、マルコキャプテンの餌やりの時間だ。


「ご飯だよ、キャプテン」


 担当者が今年からアキラ君若いのに変わったのだけれども……。このアキラ君が、まだ仕事に慣れないのか、どこか慌ただしい。今日だって、園に来る途中で軽い事故をして、遅れてしまうのだとか。


 私はそこまで目くじらを立てはしないが、はそうもいかない。


 “彼”は黒々とした、まるで岩のような巨体を揺らしながら、朝食を待っていた。

 時折『ヴフッ』と鼻息を鳴らすのは、少し不機嫌になっているのだろう。


「済まないね、キャプテン。時間は厳守だと伝えているんだが」

「――ヴフッ」


 ニシローランドゴリラのマルコ。

 “彼”とは、もう十年近い仲だった。






「――こちらが当動物園の目玉となっております、ニシローランドゴリラのマルコです! ニシローランドゴリラというのは学名が“ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ”――」


 朝の九時から開園して。動物たちの様子を見ながら、お客様に挨拶しながら園を回る。今日は十時半からガイドツアーを担当していたので、もちろん園の目玉であるマルコの前を通る。


「おや、ちょうど餌やりをする時間の様ですね!」


 ……いや、本当なら二十分前に済ませているはず。

 アキラ君、餌やりをする順番を間違えたんだな……。


「ヴォオオ!!」


 餌をやるために展示スペースへと近づいたアキラ君に対して、短く雄叫びを上げて威嚇している。


 マルコの食事の時間は厳守、それがこの動物園の“ルール”である。数分遅れただけでも、鉄扉を蹴ったりと何かと音を立てて催促するのだ。


 ゴリラの体躯でそういうことをすると、必然的に大きな音になってしまう。なんたって身長は一メートルを有に超え、体重は百五十キロ以上。握力は成人の十倍以上。霊長類最強の名は伊達じゃない。


 今だって大半は喜んでいる様だけども、少し恐怖を感じているお客様だっていた。

 ……なんとか流れを取り戻さないと。


「マルコが、飼育員からリンゴを受け取ります!」


 アキラ君が腰が引けた状態でリンゴを投げ入れると、マルコはそれを上手くキャッチしてリンゴに齧り付いている。自分が注目されているのを理解した上で、展示スペースの中をぐるぐると回っていた。


「マルコの食事は、こうしてヒトと同じように器用に手を使って、餌を口元に運んでいきます。夜になると食パンやさつまいも、ブドウや白菜なども食べるんですよ!」


 お客様がマルコの食事風景を眺めている間に、餌やりから戻ってきたアキラ君に耳打ちする。


「看板にも『観覧のルール』が書いてあるけど、それでも守らないお客様がいるから、そのときはしっかりと注意するようにね」

「は、はい……」


 動物園と接することは、いつだって危険と隣り合わせ。

 興奮して気性が荒くなっている時。遊びたくてじゃれているとき。

 身体の規格からして違う生き物なのだから、どちらかが傷つくことはある。


 だからこそ、お客様にはルールを守って頂かなくてはならない。

 安全・安心と信じて訪れている以上、それを守るのが自分たちの努めなのだから。


「それじゃあ、次の餌の時間はしっかりとね」


 ――と、そのときだった。

 突然、人混みの中から悲鳴が上がる。


 手すりを乗り越えてぶら下がっていたのは――幼稚園の年長組ほどの子供だった。


 下はコンクリート。高さは四メートル近くある。

 落ち方が悪ければ、とんでもない大怪我を負う可能性も。


 子供は這い上がろうと必死に壁を蹴るけれども、逆効果だった。

 身体が揺れ、か弱い指先では自重を支えきれない。


 悲鳴が上がって落下するまで、その間は十秒も無かっただろうか。


 手が離れ、ゆっくりと落下していく。

 周りが一際ざわつきを大きくして、そこから音が消えた。


 手すりから身を乗り出しても届かない。誰も動けない。

 ……いや、一つだけ動く影があった。


 まるで岩のようにゴツゴツとした、筋骨隆々の、霊長類最強の生物の姿が。

 子供が地面に激突する前に、いち早く落下点へと滑り込むマルコ。


「た、助けられた……?」

「怪我一つないみたいですよ……!」


 彼の腕の中で、もぞりと子供が動いたのを確認すると――辺りから割れんばかりの拍手が上がった。……ここから子供を引き上げないと。マルコなら、子供に手荒な真似はしないとは思うけど……。


「マ、マルコ……」


 固唾をのんでマルコの動向を伺うと、明らかにこちらを睨みつけていた。子供を抱きかかえたまま、クイックイッと、展示スペースと寝室を繋ぐ通路へと手招きしている。


 ……こちらへ来いと言っていた。


「アキラ君……ちょっとこっちに。マルコから子供を受け取りに行こう」






「ヴォオオオオ!!」

「ひぃっ……!」


 子供を後ろに除けて、マルコはガチャガチャと檻を揺らす。

 目の前で、牙を剥き出しにして。明確な怒りの感情だった。


「エリカっ!」

「早く、早く娘を檻から出してください!」


 ご両親もついてきて頂いた。

 お子様が無事なことを確認してもらうためだ。


「申し訳ありませんが、無理に取り上げてしまうと興奮してしまう可能性がありますので……。もうしばらくお待ちいただけますか」


 子供に対してではなく、自分たちに向かって吠えている。


 ……大丈夫だ。マルコは賢い。

 ちゃんとした意思を持って、こうしている。


 それなら自分たちができることは一つ。……謝ることだ。


「マルコ、済まなかった。俺たちの監督不行き届きだ」


 アキラ君と二人で、マルコの前へと歩み寄る。

 檻越しだけれど、腕が届かないギリギリの距離だった。


「……ほら、アキラ君。君もマルコに謝って」


「ヴォオオオオオオオオ!!」

「す、すいません! すいませんでした!!」


 アキラ君も合わせて頭を下げると、そこでようやくマルコは檻から離れた。

 ――が、まだ入り口の前からは動こうとしない。

 まだ……マルコの怒りは収まっていない。


「申し訳ないのですが、お二人とも一歩だけ出ていただけますか?」

「……? 何を……」


 エリカと呼ばれた女の子の両親が、一歩前に出た瞬間。

 マルコが再び「ヴォオオオオオ!」と唸り始めた。


 母親の方は尻餅をつきそうになり、父親はそれを支えて。

 怯えた目をしてこちらの方を見る。


「ひぃぃぃ! なんで暴れ始めたのよ!」

「早くなんとかしてください!! 飼育員でしょう、貴方達は!」


 ……さて、どうしよう。

 マルコはきっと、両親にも謝らせたいのだろう。

 けれど、職員として二人に『謝ってください』とはとても言えない。


 アキラ君と顔を見合わせたところで、小さく声が聞こえた。


「パパとママを……怒らないで……」


 未だ檻の奥にいる女の子、エリカちゃんだった。

 彼女には少なくとも……マルコの言葉がぼんやりと分かるらしい。


 そしてマルコも、何を言ったのか理解できたようで。いつものように不機嫌そうに『ヴフッ』と鼻を鳴らすと、すっと檻の隅へと移動した。


「マルコ……」


 女の子の背中を軽く押して出口へと促すのを見て、私は檻の扉を開けた。


「ホホホホホホホ……」


 どうやらマルコも、もう満足したらしい。

 次の瞬間には、既に寝る体制に入っていた。


「パパ……ママ……!」

「エリカっ!」


 檻の鍵を閉め、安全を確認した上で。

 母娘で抱き合い、父親はこちらに詰め寄る。


「この責任は誰が取ってくれるんですか!」


 ……これで解決とはまだいかないか。一息つく間もない。

 確かにこちらにも責任はあるけども、激しい罵倒を浴びせられていた。


「娘は死ぬところだったんだぞ……。こんな猛獣と一緒の檻に――」

「も、猛獣だなんて言わないでください!」


 自分が担当している動物に対し、様々な悪口を言われて耐えられなかったに違いない。たまらずアキラ君が声を上げていた。『殺してしまえ』と言われる前に声を上げたのは褒めるべきだろうか。


「あれを猛獣と言わずしてなんと呼ぶんだ!?」

「あ、あのですね……」


「マルコ――彼は……少しルールに厳しいだけです」


 ……ここで自分が助け舟を出さないと。

 それが、この動物園の先輩として、やらなければならないことだ。

 アキラ君のためにも、マルコのためにも。


「今回の件は、私達の監督不十分なところがありました」

「だから、さっきからそうだと――」


「――ですが。お子様を柵に乗せないよう、しっかりと看板に書いてあったはずです。飼育委員の方からも、それについては事前に注意をさせていただきました。互いに規則、ルールを徹底できなかった事が原因なのは、お分かりいただけるでしょうか」


 決まった時間に、決まったことを。何をするにも、ルールを守って。

 動物園で長い年月世話をしていると、職員が注意する光景を覚えることもある。

 何が良くて何が悪いのかを、理解していく。


 特に、ゴリラというのはヒトと同じように賢い動物だ。


 集団コミューンで生活して、上下の立場をハッキリさせ。規律を破る者を叱りつけることだってする。ゴリラ同士ではなく、人に対してそうしても、別に不思議なことではない。


「マルコは決して人に危害を加えません。とても賢い子です。彼が人に対して吠えたり威嚇するのは、決まってルールを守れなかった時なのです」


 だからこそ、自分たちを裏方へと呼び出し、叱りつけたのだ。

 子供の両親に対し、しっかり子供を守れと怒りをぶつけたのだ。


 ルールを破る客がいると、展示スペースの中から客を叱るようになったのはいつからだっただろうか。マルコの飼育に関しても、昔は間違えたり不十分なこと幾度もあった。その度に、当のマルコに叱られたのは記憶が蘇る。


「……彼もまた、動物園の一員として、ヒトと真剣に接しているだけなんです」


 ルールに対して厳格なマルコ。


 客に注意したり、職員に指導したり。

 それは厳しくも、対等で、親身で。


 何よりも優しい行いであることを知っている。

 ゴリラは本来、心のやさしい動物なのだ。


 ――だからこそ。

 彼に一度でも世話になった職員は、口を揃えてこう呼ぶ。


「彼はこの動物園の――キャプテンなのですから」

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