終章 沫雪に祈る 2

「あれは、全部あんたの計算通りの出来事だった。あんたは戦争になる前に、俺とシャルを外に出したんだ。……俺は知らなかったけど、うちは内外から――多分、あの宰相からも監視されてたんだろ。だから普通のやり方じゃできなくて……それであんたが考えたのが、襲うと見せかけて川に流し、カロキアに脱出させる方法だった」

 小さく息を吸い、気持ちを整える。

 正直、滅茶苦茶な結論だとは思う。

 だが、その滅茶苦茶をやるのがこの男、リン・フォルツァートだと――誰より知っているのもまた、自分なのだ。

「誘導する経路も川の深さも、きっと現地で下見でもして計算したんだよな。ついでに家宝の剣を入れ替えて、鞘と剣の引き合いで、方角に弱い俺がちゃんとあんたのところに辿り着けるようにしたんだ。……もしかしたら、最終的に今俺が持ってる剣を、別れる前に俺に渡せるようにって意味も含めて」

「それは……お前の推理か?」

 リンはあくまで落ち着いた様子で言う。

「そうだよ。この数ヶ月、ずっと頭絞ってた」

 もっとも、冷静に考えられるようになったのは、それこそ海戦の後だった。

 とはいえシャーリーにも相談できない上、考えた末結局兄はただの裏切り者だった――という結論が出ないとも限らず、考えること自体にかなりの覚悟を要した。

「シャルを国内に隠す、っていうのは難しいし、それに、俺の態度でばれると思ったんじゃないか。だから俺も外に出して、シャルを守らせればいいって思ったんだろ。アレニアと戦いになったら、俺うるさいだろうし」

「そう考えたことは否定しない。……だが、それだけではないよ」

 リンは静かに唇を開き、緩くかぶりを振る。

「私はお前のことも守りたかった。宰相殿からは、従わなければ弟の将来、どころか多分安否も含めてだろうな――まあ、お決まりながら覿面な脅しも受けてしまってね。だから、私はお前も国外に出すべきだと判断した。勿論シャルを守って欲しかったのも本当だが」

「……え……では、……では本当に……」

 フォルテの推理を真と裏付けるその言葉に、シャーリーは声を震わせる。

「シャル、君には本当に済まないことをした」

 リンは居住まいを正し、真摯な表情でシャーリーに向き直った。

「ミルザへの道中、宰相の密偵が潜伏しているのがすぐ分かった。別邸のある集落にも、既に息の掛かった者がいた。だから館での行動も見張られているだろうと……どうしても否定できなかった。……何にせよ、君を傷つけたのは事実だ。どう詰られても、軽蔑されてもいい。……本当に、申し訳ない」

「――っ……!」

 頭を下げられ、シャーリーは手を口元に当てたまま、息を引き攣らせる。

 そして表情を崩し、再度大粒の涙を零すと、呼気を奮わせ泣き始めた。

「……侯爵も、お一人で随分悩んだんだ」

 ダレンはシャーリーの肩を優しく抱きながら、穏やかに言う。

「部外者の僕が言うことじゃないけど……許してあげられないかな。家族なんだから仲直りが一番だよ。ね、シャル君」

 小さい子をあやすように、ダレンはシャーリーの背を撫でて笑いかけた。

 ――これで、終わった。

 肩の力を抜き、息を吐きながら、フォルテは思う。

 急な兄の来訪には驚いたが、一番良い形で決着できた。シャーリーはもうこのことに苦しまずに済む。ぼんやりしていると揶揄されてまで、考え続けた甲斐はあったのだ。

 なのに。――何故自分は、こんなに宙に浮いた心持ちなのだろう。

 フォルテはどこかぼんやりと、目の前の光景を視界に映す。

 素直に涙を溢れさせるシャーリーと、身を乗り出し、ダレンと共にそれを慰める兄の姿。そんな望ましい光景をどうしても笑って見守ることができないまま、場の談笑は、フォルテの体を素通りしていった。


 その後、水入らずの時間を、と市長に勧められ、フォルテとシャーリー、そしてリンは客間へ移動した。

 そこはフォルテたちが初めてここに来た時に通された部屋で、記憶と変わらない内装には、どこか懐かしい思いを抱かされる。

 だが、いまだ泣きはらした目のシャーリーの世話を焼くリンを見るうち、フォルテは自然と、自ら部屋を辞す提案をしていた。二人で積もる話でもして欲しい、後でまた来るから――と言い残し、一人で廊下に出る。

 あてもなくふらつき、人気のないところを選んで歩くうちに、二階から地上に繋がる外階段に出ていた。石段に腰を下ろし、ぼんやりと庭を見る。

 広葉樹の落葉の時期はとうに終わり、もう地面の掃除の必要はなくなっていた。

「……寒い……」

 だが腰掛けて間もなく、フォルテはその場の想定外の寒さに少し後悔した。 

 外套も纏わない身に、冬の風と、石段から来る冷えは堪える。部屋に戻っても良かったはずだが、どうもそんな気になれず――だがいつしか注ぐ日の光が橙を帯び、建物の影も藍色に染まり出す頃、流石にこの馬鹿げた行動をそろそろ終えるべきだと思い始めた。

 そうして重い腰を上げようとした時、その声は、耳から心の中へと入り込んだ。

「ここにいたのか。探したぞ」

 寒さに強張った身体で振り返るより早く、リンはフォルテの隣に座り、穏やかに笑う。

 その笑顔を直視できず、フォルテは咄嗟に視線を庭へ逃がしてから、やがて口を開いた。

「……シャルは、どうしたんだよ」

「客間に残っている。私はフォルテを探してくると言って出てきた」

「何……一人にしてんだよ」

「随分疲れさせてしまったし、お前を探すのに連れ回しても可哀想だろう。それに、私もお前と、二人だけで話をしたかったから」

「ふうん……」

「シャルから聞いたが……知ったそうだな。あの子のことや、うちの色々なこと」

「……うん」

 複雑な感情のまま、フォルテは庭の景色に視線を投げ、ただ頷く。

「お前には悪いことをした。本当なら外に出す前に全て話しておくべきだったが……私も正直あの時期は追い詰められていて、冷静な判断ができなくなっていた」

「あんたの判断が滅茶苦茶で唐突なのは、いつものことだろ」

 フォルテは素っ気なく返す。日頃から兄の行動は「これが天才肌の人間か」と諦め半分で受け入れていた部分もあり、寧ろ冷静な判断ができていたらどんな追い出し方をしていたのかと、根拠のない不安を覚えることすら正当に感じる。

「そのくせ後追いみたいに、カロキア辺境の防衛になんか首突っ込んで。……市長の話聞いてびっくりしたよ。大体、日数考えたらとっくに俺たちそこ通り過ぎてるっての」

『圧力をかけた心ある貴族さん』――それが兄、フォルツァート侯爵だったとついさっき聞いた時には、正直何を言っていいかわからなかった。

「いや、それとこれとは別」

「は?」

「お前たちの足取りが気になって、密偵を使って探りを入れたのは事実だけど、そうしたら襲撃騒ぎがあったっていうだろう? 街道が断絶したらラングだって困るし、軍部の者として手を回させて貰った。ああでも、宿の女将からお前たちの情報を得られた時は、勿論安心したよ?」

 最後の部分はやたらと無邪気な笑顔で言われた。……これは怒っていいところだろうか。

「……もういい。けど、そもそもあんたさ。自分が何でもできるからって、人もそうだと思うんじゃねえよ。俺とシャルが放り出されてどれだけ苦労したと思ってるんだ」

「何でもはできないよ。それに、お前はちゃんとシャルを守ってくれただろう?」

 けろりと笑う兄を見て、フォルテは言うだけ無駄だと理解した。

 だがフォルテも、今思えば前夜の父の部屋での話こそが、兄からの精一杯の言葉であったと受け止められていれば――という負い目はあったので、これ以上追求するのはやめた。

「……それで、いつまでいるんだ。ここに」

「明日の朝には、帰るつもりだ」

 兄はフォルテの問いを受け止め、変わらず落ち着いた調子で答えた。

「休戦中といえ仕事は山積みだし……。まあ、今日のうちは、お前たちと一緒に過ごせる」

「帰ったら、やっぱり忙しいのか?」

「そうだな。だが戦のただ中程ではないよ。……家のことは一門の皆が気を回してくれている。お前のことも含め、心配をかけてしまっているが」

「俺は……どういうことになったんだ?」

「表向きは『体調を崩して辺境で療養中』。まあ、密偵まで放ってきた宰相殿の一派は、辺境での顛末をおおよそ知っているみたいだが」

「……シャルは、死んだことになったのか?」

「一応は。だが……宰相殿は、本当はシャルの生死にそこまで頓着していないんだ」

「え……?」

 奇妙な緊張感を――恐らくほぼ一方的にフォルテだけが持って続けられた会話は、そこで一度途切れた。半ば愕然と兄の顔を見ると、彼は僅かに言い辛そうに顔を顰め、続ける。

「だって結局はアレニアに『処刑した』と伝えられさえすればいいんだから。あの人の本音は、私に――フォルツァートに圧力をかけたかっただけなんだよ。お前たちを外に出した後も死体がないと難癖をつけてこようとしたが、すぐ戦になっただろう? 大将軍の空位はまずいということで、シャルの件は棚上げされ、私の就任が決まった」

「……なんだよ……それ…………」

 淡々と語られる言葉に、目が眩み、声が掠れる。

 シャルの生死は関係なかった。……なのに、まるで命を玩具のように扱われた。

 兄はフォルテを見て愁眉を寄せると、肩を叩き、芯の通った表情で続ける。

「フォルテ。……戦は、まだ当分続くぞ」

「え……」

「帝国の重鎮はアレニアを侮っているが、楽観はできない。実際、軍部も独自の諜報活動を続け、アレニアの様子が五年前と違うことは把握している。……それに、一度戦闘となって分かったが、アレニア軍は普通ではない。戦力は想定を遥かに超えるし、何より兵が自らを省みない。……まるで何か、自分の意志を超えるものに心を奪われているように」

 ――脳裏に浮かんだのは、海戦の折、自滅と引き替えに怪物を召還したアレニアの船。

「それって……理由は分からないのか?」

「アレニアでは今、長く病床にある王に変わり、反ラングの急先鋒でもある、王太子の外戚が権力を握っている。兵が死兵となった原因も、彼らが握っているという見方が強い。何せ王家始まって以来の天才と言われる王太子を産み落とした大魔法使い一族、擁する魔力も相当なはずだ。しかも対ラングだけでなく西方地域にまで進出していることから、軍部の中には、密かに強力な魔法兵器でも保有し、広域的な侵略戦争を始めるつもりでは、という見方も出てきている」

「…………」

「引き続き調査は進めるが、こちらの戦が長引けば、他の土地にも影響は出るだろうな。カロキアがロランを襲ったようなことも、また起きるだろう」

「……止められないのか、戦」

「現時点では難しいな。帝国側にしても、宰相殿などは今度こそあちらを叩き潰す気でいる。……この現状を大きく変えないことには、どうにもならない」

 兄の言葉を聞き、真剣な顔を見ながら――心の中に、奇妙なざわつきが生まれる。

 フォルテには、ひとつの自負があった。

 それは、シャーリーには悪いが、リンという男を――完全に理解するのは不可能だということも含めた上で――この世で一番理解しているのは、恐らく自分である、というもの。

 天才の考えなど分からない。だけど、違和感には気づける。

 自分は――彼の弟なのだから。

「兄上……何やろうとしてる」

 フォルテは確信と共に、兄に問いかけた。

「俺とシャル……足引っ張る身内を外に出して、あんたは一体何をしようとしてるんだ。滅多なこと考えてるんじゃないだろうな」

「お前の思う滅多なことって、何だ?」

「それは……」

「あんたが危険に身を置くことだ」――。

 そう言えず、口籠るフォルテの背を優しく叩き、リンは語り聞かせるように話し出した。

「フォルテ。私たちは貴族という、所謂特権階級に生まれた人間だ。だがそれは本来、私たちを支える全てに、働きを以て返さねばならないものなんだよ。それができないなら、その立場にある資格などないと私は思う。……まあ、とはいえ。お前とシャルを外に逃がしたことくらいは、見逃して貰いたいところだけど」

「…………」

「……かつて私も、権力による横暴と、無力感の前に全てを見失いかけたことがある」

 リンは遠くへ視線を投げ、呟くように言う。

「大切なものを奪われ、その理不尽さえ曲げられ――。だが心が腐り果てかけた時、シャルと出会った。そうして目が醒めたんだ。目の前のこの子すら救えず、何が貴族だ。生きている意味などあるのかと……。あの子が本当の意味で、私を侯爵にしてくれた。だから、その恩を返す意味でも、私はあの子を守ってあげたかったんだ。……まあ、そこにお前を巻き込む格好になってしまったのは、悪いと思っているが」

「巻き込まれてない。俺は自分の意志で、シャルを守るって決めたんだ」

「そうか。……そうだな」

 リンは笑い、僅かな沈黙を置いて、穏やかな目をフォルテに向けた。

「お前がそう思っているなら、私から言うことは何もない。それに、どうやらお前たちは私が知らない間に、これまで以上の絆を築き上げてくれたようだ。これからは……私がいなくとも大丈夫だな。シャルも、お前も」

「なっ、何……勝手に……――」

 言葉にどきりとして咄嗟に言いかけ――だがそこでフォルテは気付き、口を噤んだ。

 ――これは、言うべきではない。

 この数ヶ月を経て、自分はもう、それを言ってはいけない立場に至ってしまった。

 兄との再会、そして和解にシャーリーが素直に泣き崩れる一方、自分には同じ行動がもう許されないのだと無意識に悟ってしまったこと――それこそがこの塞いだ気分の原因だとはっきりと自覚し、フォルテは愕然と言葉を失う。

 そんな弟の姿にリンが何を思ったのか――それはフォルテには分からないが、彼は静かに弟を見つめ、僅かの間を置いてから、そっと口を開いた。

「フォルテ。私がお前に頼みたいのは、お前がシャルと二人で、無事に生きていくことだ。そのためなら家も名も捨て、生涯を市井に生きようと構わない。私や家、互いの故国がどうなろうと、気にしなくていい。ただお前たちが幸福であること――それが私の望みだ。これは兄としての頼みであると同時、家長からの命令とも受け取り、決して違えるな」

 リンは静かに語る。だが彼も、本当はそう甘くないことは理解しているだろう。

 世界が揺れ動き変わる以上、必ずいつか、対峙する二つの国を祖とする自分たちの運命も、廻る。戦が起きたと知った日、シャーリーの色と自分の色が、突然どうしようもなく遠いものに感じられたように。

 ――だが、それでも。

「分かりました、兄上。……必ずシャルは俺が守り、共に生きていきます」

 兄をまっすぐ見据え、フォルテは弟として、そしてフォルツァートの侯弟として答えた。

 それでも――世界がどうなり、運命がどう廻ろうと。この決意だけは変わらない。どころか、家を出る前よりずっと強固なものになっている。大切な人を守り、生きること。

 二人の間を微風が吹き過ぎ、やがて止む。それを見届けるだけの時間を置いた後、リンは表情を穏やかに和らげ、フォルテを見据え、頷いた。

「ありがとう。フォルテ」

「いいえ」

 久し振りにまっすぐに見た兄の微笑は懐かしく、だが遠く――。

 湧き上がる胸の痛みは、もう幼い頃のように彼に無邪気に縋ることも、また庇護下で反抗し甘えることも許されない、そんな日々は戻らないのだと、その事実を雄弁に告げる。

 だけど。

 それでもこれだけはと、フォルテは意を決し、兄の自分と相似の黒い瞳を見つめ、強く引き結んでいた唇を、開く。

「兄上、あのっ、絶対死なないでください――違う! どうか、お気を付けて」

 ……全く、様にならなかった。

 感情のまま妙な言葉は出てしまうし、ぽかんとした兄の顔を見るまでもなく、声が揺れ、明らかに顔も引き攣ったのが分かった。――まるで、泣き出す前の幼子のように。

 恥ずかしさにフォルテが完全に硬直していると、リンは不意に吹き出し、耐えきれない様子で笑いを堪え、肩を震わせてから、腕を伸ばし、弟の肩をそばへと引き寄せる。

 半ば抱きかかえられる格好で密着した身体に、兄の体温が伝わり――、

 そしてフォルテは、それ以上我慢はできなかった。

「っ……うぐっ……」

 穏やかに笑う兄の胸に顔を伏せ、意味などないと知りつつ必死で声を殺しながら、止まらない嗚咽に息を震わせる。

 伝う涙は兄の服に吸い込まれ、彼はそれを弟の身体ごと受け止めながら、優しく背を叩いていた。――幼い頃、フォルテが身体が弱くむずかった時、よくそうしてくれたように。

「ありがとう。……ありがとうな、フォルテ」

「う……うぇっ……――」

「よく頑張ってくれた。……お前にも辛い思いをさせて、本当に済まなかったよ」

「っく、――ひっ……、うあぁあああああぁああぁ…………!」

 静かにかけられる言葉を受け、益々、もうどうしようもなく嗚咽が激しくなる。

 兄の身体にしがみつき、束の間だけあらゆる決意も建前も捨て、告げられない言葉の代わりにフォルテは泣いた。

 それは大人になる前に贈られた、少年の日々への、最後の決別の時間であった。


 ――そしてその翌日、リンはラングへの帰路についた。


「あの剣はお前への餞別だ。持っていけ」

 出立の直前、客間で二人きりになった僅かな時間に、リンはフォルテに告げた。

「いいんですか? 家宝の剣なんでしょう?」

「だからこそだ。重大な任務を任せたお前を、丸腰で放り出すわけにいかないだろう? そもそも爺様たちが兄弟で一振りずつ使っていた剣だし、私が二本持っていても仕方ない」

「……兄上のもとにある方も、やっぱり、すごい力があるんですか?」

「ああ。だが……私のほうは、余程でない限りは使わないつもりだ。持ち出すことがあるとすれば、それはアレニアとの戦場だろうし」

「…………」

「あんなものを使わずに済むうちに、戦争を終わらせられればいいんだがな」

「……そうですね」

 兄の剣に秘められた力については、フォルテは知らない。

 だが心の底から戦争を厭い呟かれた言葉には、素直に同意できた。


「……行って、しまったな」

 庁舎の馬車止めに二人佇み、門を遠く眺めながら、シャーリーが寂しげな微笑で呟いた。

 元々僅かだった見送りの人間は既に屋内に去り、今はフォルテとシャーリーだけがこの場に残っていた。

「やっぱ、寂しいか?」

「うん。でも、ちゃんと話ができたから」

 シャーリーは少し感傷的な表情を見せてから、フォルテに微笑む。

「あの人の口から真実が聞けて……捨てられたのでなかったと分かった。それで十分だ」

「そっか」

 フォルテは頷く。今はもうシャーリーの兄への態度に、苛立ちは生まれなかった。

 恐らくそれは、自分も兄への感情を正しく受け入れられたからだろうと、そう思った。

 今の自分の寂しさを肯定できるから、シャーリーの兄への敬愛も肯定し、受け入れられる。

「お前にも、礼を言わないとな。フォルテ」

「えっ、いや、俺は何も」

「リンに話をしてくれただろう。……私も、市長やアニタの話で、もしやと思わないことはなかったんだ。だがそんな自分に都合の良い解釈などあり得ないと、それ以上考えることができなかった。今思えば、それこそが正しかったのだが」

「……まあ、終わったことだよ」

 悔いて寂しげに笑うシャーリーを、フォルテは元気付ける。

「それに大体、お前忘れてるかも知れないけど、あの人は俺にとっても兄貴だから。俺自身も決着つけなきゃいけなかったんだし、そう気負うな」

「ああ……そうだな。また私は、お前から兄上を取ってしまうところだった」

「いや、それはそんなに気にしなくても……」

 いい、と断言できない自分を既に自覚していたが、それでも気を遣わせまいと、フォルテは視線を泳がせつつ、言う。

 そんな彼をシャーリーは笑って見ていたが、ふと、何かに気付いた様子で顔を上げた。

「フォルテ……雪だ」

「えっ?」

「ほら。……ああ、ここでも降るんだな……」

 シャーリーは驚き惚けた表情で空を見上げ、手を掲げる。

 つられてフォルテも見ると、冬の灰空の中、白く細かい無数の破片が、ちらちらと地上へ舞い降りているのが分かった。手で触れると仄かな冷たさを残し、すっと溶けていく。

 ぼんやりとそれを見てから、再びシャーリーに視線を戻すと、彼は白く注ぐヴェールの向こうで、舞い散る雪片を愛おしむように微笑を浮かべていた。

 ――初めて会った時、雪が人の姿になって訪れたのだと思った。

 事実シャーリーの故郷は雪国で、彼は雪が降る度いつも懐かしそうに――今のように笑っていたものだったが、一方で幼いフォルテは、雪が溶けたらこの希有な美しい少年も、どこかへ儚く消えてしまうのではないかと心配したものだった。

 流石に成長につれ、人は雪のように消えはしないと思うようにはなったが、今思えば自分は常にどこかで、シャーリーを失うことを恐れていたように思う。それは彼が人質――いや、それ以前によそから来た人間である以上、否定できない可能性。頑なに心の底に押し込め忘れようとも、亡霊のようにつきまとう事実だった。

 ――或いは。だからこそ自分は、願い、言い募ったのだろうか。

 守るから、ずっと消えずに、そばにいて欲しいと――。

「シャル……」

 胸を突く焦燥に駆られるまま、フォルテはシャーリーの腕を取る。

 雪見を中断させられたシャーリーは、驚いた顔でフォルテを見たが、構わずそのまま引き寄せ、腕の中に抱き留めた。……堪えられる限り優しく、壊してしまわないように。

「フォルテ……?」

 肩口に埋もれくぐもる声は、ただ呆然としていたが――やがてシャーリーは小さく笑って身を揺らすと、その手をフォルテの背に添え、ぽんぽんと叩く。

「何だお前、寒くなったのか? それとも兄上の帰還が急に寂しくなったか」

「…………」

「……冗談だよ」

 そしてフォルテの肩口に頬を寄せ、今度こそ穏やかな、満たされた微笑を浮かべる。

「大丈夫。一緒に生きよう。私はどこにも行かないから」

「……うん」

 暖かな言葉に胸が満たされ、フォルテは首肯する。

 ――かつて、故郷で暮らした日々から、随分遠くに来てしまったように思っていた。

 だが本当に大事なものは、決して失わずに守り抜けていた。居場所が変わり、慈しんでくれた兄のもとも巣立って――それでも尚、自分たちは共にいられる。

 互いの姿さえ見失わなければ、きっと、いつまでも一緒に生きていける。

 動き出した世界が、どのように変わっていったとしても。


 後の世に、ラング―アレニア百年戦争と伝えられる戦。

 その終盤、僅か五年の小康を経て迎えた最終局面に、二人の若き英雄が名を残した。

 一人は、幼くして帝国に人質として送られ、戦の再開にあたっての処刑を逃れて自由都市ロランの庇護下に身を置いた、アレニア王子シャーリー。

 そしてもう一人が、亡命の途から彼に寄り添い、生涯を剣と捧げたといわれる――そのあまりに偶像的な生き様に、一時は存在を後世の創作とすら疑われた、ラング帝国フォルツァート侯爵家、戦乱中期に軍場で活躍した大叔父と区別し、小フォルテ卿と呼び習わされる、『黒の侯弟』フォルテ・フォルツァート。

 これは彼らが同時代の群雄と共に名を残す以前、まだ雛であった時代の出来事。

 全てが廻り出す前に、ひとつの終わりを迎えるまでの、はじまりの物語である。

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黒の侯弟 白銀の祈り手 tototo @tototo

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