終章 沫雪に祈る 1
秋が深まるにつれ、あれだけ暑かったロランの街も、随分と涼しくなった。
庁舎の広葉樹は色付いた葉を落とし、市長の提案で芋や野菜を焼く小宴会が行われたが、庭の掃除は追いつかない。各部署交代の掃除当番に就き、掃き掃除をしながら庭の裸の枝を見ていると、随分時間が経ったのだな――と、フォルテは感慨深い気持ちになった。
夏の終わりのカロキアとの戦いは、結局海戦の決着を以て終了した。
カロキア側は先頭に立った重鎮の首切りで責任を逃れようとしたが、市長はこの機会にと抜け目なく、今後の交易に役立つ幾つかの事柄を相手に取り付けさせたらしい。
一方怪物召喚のことははぐらかされ、偶々海の底の化け物に襲われた――の一点張りだった。魔法を行使したアレニアの船が藻屑と消えた以上、フォルテが魔力を感知しただけでは証拠にもならず、ロランにとっては今後の調査課題がひとつ残る形となった。
そして、フォルテとシャーリーは戦いの前の約束通り、正式にロラン市の保護を受け、ダレンのもと市庁舎で暮らしていた。
といってもただ守られて暮らすのではなく、二人には申し出通りに役割が与えられた。フォルテは警備隊の見習いとなったが、実質ほとんどの時間はエディスのそばについて回り、仕事の合間に武術を仕込まれる日々が続いている。シャーリーは市長の秘書見習いとして、リタや他の側近を手伝いつつ、政治について学んでいた。それに加え、教養も大事にして欲しいという市長の意向で、二人共に仕事以外の勉強に裂く時間も与えられている。
別々の大人に見守られての数ヶ月は、二人に新鮮な刺激を与えた。フォルテはふとした時に、シャーリーの印象が随分大人びた――と感じるようになったが、向こうも同じようで、やけに逞しくなったと、感慨深く、また妙に悔しげに言われたことが、何回かある。
「ふう……」
箒を動かす手を止め、フォルテはかじかむ手に息を吹きかける。
風は肌寒く、シャーリーから借りた厚手のストールが有り難い。訓練にかまけて忘れていたが、そろそろちゃんと冬用の衣類を揃えるべきだろうか――などとぼんやり考えていると、視界の先、庁舎の渡り廊下から、見慣れた人影がひょっこり姿を現した。
「フォルテ」
「シャル? あれ、もう休みか?」
手を振り、笑いながら小走りにやってくるシャーリーに、フォルテは問う。
纏う垢抜けたロラン流の衣服は、大分馴染んでいた。相変わらず襟元はスカーフなどで隠していたが、最近はそれを選ぶこと自体を割り切って楽しみ出した印象がある。銀の髪は一度整えた後、今は再度伸ばし始め、項で細いリボンで括っていた。
「ああ。市長は午後の外出の支度をするから、私は昼食を食堂でとるようにと。だから、お前と一緒に行ければと思って来てみた」
「もうそんな時間か……。正直朝からずっとこれだと、時間の感覚なくなってくるよ」
フォルテは両手を挙げて伸びをする。するとシャーリーは意地の悪い笑みを浮かべた。
「それは本当に掃除のせいか? お前最近、ぼうっとしていることが多いじゃないか。冬眠の時期でも近づいてるのかと思ったぞ。さてはそのうち手に蜂蜜でも溜める気だろう」
「せめてそこは「何か悩みがあるなら相談してくれないか?」とか言ってみろよ……」
言いたい放題にされ、フォルテは微妙な顔で溜息をつく。
シャーリーはそんな姿にくすくすと笑い、それから庭の木々を見回した。
「まあ、掃除は葉が落ちきるまでの辛抱だな。市長はその前にまた芋を焼きたいようだが」
「忙しいのか暇なのか分からない人だな、ほんと……」
「……忙しいぞ」
シャーリーの表情が、ふっと窘めの色を交え真剣なものになる。
「あれだけの業務、本当によく捌いているよ。……特に今は、東方の戦のこともある」
東方の戦――シャーリーが直接名を出すことを憚ったそれは、ラングとアレニアの戦争に他ならない。
夏の終わり、国境で戦端が開かれたそれは、思う以上に長期化した。
ようやく半月余り前に休戦となったが、それは農繁期の到来、また北方で本格的な積雪が始まり、どちらも軍を出すことが難しくなったためで、勝敗が決したわけではなかった。しかもこの戦に刺激され、他の地域でも不穏な動きが相次いでいる。そもそも以前カロキアがロランを攻撃したこと自体、その一環といえる。
「情報の限り、あちらは春までは休戦だろう。だがこちらは向こうより暖かい。そこまでの積雪があるかも分からないし、どうなるだろうな。何事もなく過ぎて欲しいが……」
「……そうだな」
静かに同意し、フォルテは高い秋空を見上げる。
その遠く澄んだ色がどう変わるのかは、いまだ誰にも分からない。
二人がダレンに呼ばれたのは、そんな薄い不安の降り積もる日々が、さらにひと月余りほど続いた、ある日のことだった。
この日は午前の仕事が休みとなり、だが午後には手伝いを頼むから極力庁舎内に待機して欲しい、と言い置かれ、二人はフォルテの部屋に集まり寛ぎつつ、シャーリーがフォルテのクロゼットを開け、揃えた衣服に難癖をつけるという方法で時間を過ごしていた。
そんな中、リタが呼び出しに訪れたのは、昼食も終えた昼下がり。
来客の接待の手伝いをして欲しいから、できる限りの格好で来いと言われ、シャーリーが露骨にフォルテの顔を見て絶望的な表情をするという出来事もあったが、小物の融通をきかせて何とかよそ行きの格好を整えると、二人はリタに連れられ市長室へと向かう。
扉の前に立った時、二人は、中で談笑する男性の声を聞いた。
一人は当然、部屋の主であるダレン市長。
そしてもう一人の声を認識した時――二人は揃って顔を見合わせる。
フォルテが見たシャーリーの顔は、あらゆる感情が信じられない出来事の前に全て吹き飛んでしまった、といった完全な硬直の態で、恐らくフォルテも同じような顔をしていたに違いない。だがそれが揺らいで別の感情が表面化するより先に、リタが室内に声をかけ、すぐに返った市長の相槌を受けて扉を開けていた。
部屋の中は、あの夏の日程の強さではなかったが、明るい陽光に満たされていた。
すぐ目に付く場所には見慣れたソファセットがあり、まずダレンが三人を見て、やあ、と軽く手を掲げる。
そして――市長の対面に座り、談笑をしていた人物が、すっとこちらを振り返った。
「……あ…………」
隣から聞こえた、ほとんど息を飲む音に等しいそれは、シャーリーの喉の震えだった。本来なら気遣ってすぐ振り返るところだが――正直、フォルテもそれどころではない。
その人物は入室した三人を認め、フォルテとシャーリーの二人を視界の中心に据えると、あまりに懐かしい、だがもう二度と見ることもないと思っていた顔で、柔らかく微笑んだ。
「やあ。……久しぶりだ、二人とも。暫く見ないうちに、大きくなったな」
「……リン…………」
愕然と、シャーリーが震え掠れる声で、その名を口にする。
――もし、再び兄に会う日が来たら。
きっと自分は、彼に殴りかかりかねないだろうとフォルテは思っていた。
どうしてあんな真似をした、とか、シャーリーがどんなに傷ついたか、とか、言いたいことは山ほどあった。自分は、兄を糾弾するものと信じていたのだ。
だが、実際その時を迎えた今、フォルテは何もできなかった。
時間の経過による僅かな変化こそあれ、ほとんど記憶の中と変わらない兄の姿をただ呆然と見つめ――隣のシャーリーが混乱の末に声を上げて泣き崩れるその時まで、ひたすら馬鹿のように立ち尽くしていた、それだけだった。
「……まあ、君たちとしては、何でお兄さんがここに――ってとこだろうけど」
ダレンは嗚咽が止まらなくなったシャーリーを、宥めながら自分の隣に座らせた。
必然的にフォルテは余った場所――兄の隣に座ることになった。微妙な距離を置き、酷く落ち着かない気分で、正面で世話を焼かれるシャーリーをぼんやりと視界に入れる。
「実は東方の戦が落ち着いてから、侯爵とは手紙の遣り取りをさせて貰ってた。それで、何とかこちらに来られないか、ってお誘いしたんだ。周囲に怪しまれないように出てくるのは大変だったそうだよ。そもそも手紙だってこんな暗号文での遣り取りだしね」
ダレンは卓上の便箋を一枚ぺらりと掲げ、肩を竦めてから、一同を順に見回す。
「……多分、お互い言いたいことは沢山あると思う。僕の方はそれぞれの事情は大体知っているから、ここにいてもいいし、外した方がいいならそうするけど。どう?」
「……あの……ここに、いてください」
まだ涙に息を引き攣らせるシャーリーを前に、フォルテは抑揚の出ない声で言う。
「誰かいてくれた方が……冷静に話せると思うんです」
「侯爵、それとシャル君は、それで構わない?」
ダレンは二人に視線を向けると、双方から首肯を得て、一同に了解の頷きを返した。
――高揚感と冷静さ。二つの真逆の感情が、フォルテの全身を支配する。
こうしているだけで、海で怪物と退治した以上の勇気が必要だった。フォルテは兄の顔を見上げ、いまだ乱れる感情の中から、もし彼に会うことがあれば一番に言うべきだと信じていた言葉を掬い上げ、はっきりと唇に乗せる。
「……なんで、シャルを泣かせた」
言ったと同時に、胸を苛立ちが刺した。両手を膝の上に握り、さらに気を張る。
「シャルはあんたを誰より信じてた。裏切られたと思って、どれだけ傷ついたと思う」
「フォルテ……いい、もういいから……」
「いや、良くない。……良くないんだよ、シャル」
声を震わせかぶりを振るシャーリーに、フォルテは信念を持ってきっぱりと言い返す。
文句すら言えずただ俯く銀の頭を見て、ああ、こいつは心底兄を慕っているんだな――と妙に納得しながら、フォルテは弟の言葉を黙って受け止めている兄を、再度見据える。
「兄上。もし弁明があるならして欲しい。俺じゃなくて、シャルに。でなきゃ俺は、本当にあんたを……ぶん殴らなきゃならなくなる」
殴る――と断定の形で言おうとして、できなかった。
「ここに来れたってことは、言い訳ぐらい持ってきたんだよな。……俺があれこれ想像してシャルに言ってやることなんてできない。あんたが自分で言わなきゃ意味がないんだ」
「……そうだな」
穏やかな、慈しむような気配を滲ませた微笑で、リンは頷く。
それが胸の中の柔らかい場所を妙に刺激し、フォルテは一瞬視線を泳がせた。
「ということは……お前には分かっていたか」
「分かってない。ていうか、大体確信したのは最近だよ」
「え……?」
兄弟の遣り取りに、シャーリーが泣きはらした目を不思議そうに丸くする。
それを一瞥し、少し逡巡の間を置いてから、フォルテは続けた。
「あの日、あんたが俺たちを襲った時のこと。後になって思えば、妙なことが多かった。最初は頭来るばかりだったけど、時間が経ってから色々気になって。それで考えたんだ。……正直、あんたのやり方いつも滅茶苦茶だから、今も確信が持てないんだけど――」
無言で次の言葉を待つ兄に、フォルテは一度息を吸い、止めて、意を決して言った。
「兄上。……あんたは何としても、俺とシャルを国外に出したかったんだろ」
部屋の中から、音が消える。
愕然としたシャーリーがしゃくりあげるのを止め、こちらを凝視していた。
その表情を見て、彼はやはりそこまでは考えることができなかったのだと、フォルテは確信した。だが無理もない。盲目的に敬愛した相手の裏切りが問題である以上、思考停止を責めるのは酷というものだ。
だからこそ、このことは全てフォルテが考え、答えに辿り着かねばならなかった。
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