転校生はゴリラ

ラーさん

転校生はゴリラ

「この話をする前に言っておく。俺はあの日、この世にはどうしようもないヤツってもんが存在するってことを、ほんのちょっぴりだが体験した。

 い、いや……、体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが……。ありのままにあの日、起こったことを話すぜ。

“学校に行ったら転校生のゴリラがいた”

 な、何を言ってるのかわからねーと思うが、俺も何が起きているのかわからなかった……」


 そう未来に述懐することになる男、福原翔太は、教壇の前に立って担任から紹介をされているセーラー服を着た黒い存在――ゴリラを凝視していた。


「――というわけで、今日からみんなと同じ机で学ぶ仲間になるゴリラのかみ璃衣羅りいらさんだ。では、挨拶を」


 ざわめく教室の空気をないもののように話を進める担任の目は完全に死んでいた。オトナになれば目を開けたまま目をつぶることができるようになるというが、なるほど、これは苦い想いなくしては見られない表情だ――などと翔太が現実逃避的な感慨に耽る中、セーラー服を着たゴリラがぺこりと頭を下げて挨拶をした。


「ウホッ」


 時が止まったように静まり返る教室。そこに担任の乾いた拍手が響いた。つられてパチパチ……と生徒のまばらな拍手が鳴る。

 ゴリラが「ウホッ」と挨拶した。人語は話せないらしい。本当にゴリラって「ウホッ」って言うんだぁー、マンガやアニメみたいだなぁーと、翔太は益体もない感想でオトナの仲間入りを果たそうと自分の目を殺しにかかったところで、担任がキラーパスを放った。


「彼女はまだ学校に不慣れだから、クラス委員の福原、面倒を頼むぞ」

「は?」


 級友たちが一足先にオトナの階段を昇って一斉に顔を伏せる中、翔太の間の抜けた声だけが浮いた。



   ***



「なんなんですかゴリラって! ゴリラってなんなんですか! ゴリラの面倒ってなんなんですか!」

「案ずるな福原。彼女は人語は話せないが理解はできる。そして字も書けるそうだ」


 すぐさま担任を廊下に引き出し、猛然と抗議する翔太。しかし担任は欺瞞の海のヘドロに沈んで死んだ魚のような目で、荒ぶる青少年を諭す。


「つまり筆談ができるということだ。先生は成功してないが」

「は? なに言ってんだ、こいつ?」


 と内心思うだけにしようとしたけれど思わず声に出してしまうほど荒ぶっている青少年の肩に、担任はそっと手を置いた。


「悲しいけどな、世の中にはどうしようもないときってヤツが存在するんだ。でもな、そんなときでも……いや、そんなときだからこそな、人は戦わなくちゃいけないんだ」


 担任は穏やかな声でそう言って、翔太を澄んだ瞳で見た。汚物が沈殿した泥水の上澄みのような目だな、と翔太は思った。


「そんな翔太に先生ができることはこれだけだ」


 そして担任は懐から取り出した紙とペンを翔太に手渡す。虚無感に囚われて紙とペンに視線を落とした数秒の間に、担任は姿を消していた。


「これがオトナのやることか……!」


 オトナだからやれんのさ、と脳内担任の反駁はんばくが頭に響く。誰も予想だにしない人生の死角から、突如現れたゴリラという辛酸を舐めて立ち尽くす翔太の後ろで、教室の扉がガラガラ開いた。


「ウホッ」


 振り返ればゴリラ。なんて声に出して言いたい美しい日本語なんだ、と翔太は死んだ目で思った。



   ***



 一限目が始まったが、翔太はゴリラ――かみ璃衣羅りいらと空き教室で机を挟んで対峙していた。

 授業が始まっているのに誰も翔太達を探しに来ない。つまり誰の助けも期待できないということだった。完全に生贄だった。しかしこのことが、逆に翔太の覚悟を固めさせた。


(まずはコミュニケーションを取る……!)


 助けなし。ならば全力で乗り切るだけだ。このゴリラの面倒を見てやろうではないか! そして生き残り、あの汚いオトナと俺を置いてその仲間入りを果たした級友どもをギャフンと言わせてやろうじゃないか!

 この意気込みを果たすには、なにを置いてもこのゴリラとコミュニケーションを果たさなければならない。


「えーと、神さん、俺は福原翔太。気軽に翔太って呼んでいいからね」

「ウホッ」


 自己紹介するとそう返事をするゴリラ。ひとまずこちらの呼び掛けには反応するようだ。よし、と翔太は次のステップに進む。


「こ、言葉は喋れないんだったね。ここに紙とペンがあるから、これでちょっとお話ししよう」


 机に紙とペンを置き、ゴリラこと神璃衣羅に示す。彼女がペンを持つ。


「じゃ、じゃあ、キミの――って、え……?」


 右手にペンを持った璃衣羅は、どこから取り出したか左手にリンゴを持っていた。状況に理解が追い付かない翔太。ペン先をリンゴにむけて、両方を胸の真ん中へと近づけていく璃衣羅。


(まさか……まさか……!?)


 狼狽する翔太にはアッポーとペンが合体するのを、ただ見送ることだけしか――、


 ブシャァァァ!


 その直前にリンゴが璃衣羅の手の中で握り潰された。

 ゴリラの平均握力は五百キロとも言われる。リンゴなどゴリラの手の内では紙風船に等しい。

 璃衣羅の手からボタボタと垂れるリンゴの汁を見て、翔太は戦慄に縮みあがっていた。


(な、なんだ? 俺は今、なにを見ているんだ!? 警告か? 次はお前という警告か!?)


 混乱と恐慌に支配され、身動きの取れなくなった翔太の前で、璃衣羅はリンゴを握り潰した手を下ろし、机の下に置いてある鞄の中へと入れた。そして「まさか」と思う翔太の視線の先に、アレが姿を現す。


(――パイナップル!?)


 カットされていない、葉っぱが付いていて棘のある格子柄の皮に包まれた、収穫されたままの姿のパイナップル。葉の部分を鷲掴みにしてパイナップルを掲げた璃衣羅は、またしてもペン先をパイナップルにむけて、両方を胸の真ん中へと近づけていく。


(や、やめろ……やめろぉぉぉーっ!)


 錯乱のあまりに何故か心の中で制止を呼び掛ける翔太。しかし無情にもパイナッポーとペンが合体――、


 ムシャァァァ!


 その直前にパイナップルが璃衣羅の強靭な顎で噛みちぎられていた。

 ゴリラの噛む力は人間の八倍と言われる。パイナップルの皮などゴリラの咀嚼力の前では、まんじゅうの薄皮程度の用しかなさない。

 璃衣羅の口からダラダラと垂れるパイナップルの汁を見て、翔太は恐怖に竦みあがっていた。


(なんなんだこれは!? わけがわからない上にスッとしない、この、この……言いたい! 著作権とかなかったら大声で叫びたい! 「ペ○パイナッ○ーアッ○ーペ○じゃないんかい!」とか大声で叫びたい!)


 混乱と葛藤に苛まれ、正常な思考のできなくなった翔太の前で、璃衣羅は噛んだ部分がゴッソリ削れたパイナップルを机に置くと、再び机の下に置いてある鞄の中に手を入れた。まだ次があるのかと目を剥いて慄く翔太の視線の先に現れたのは――スマホだった。


「ウホホホホ」


 スマホにむけて璃衣羅がそう言うと、その声が聞こえてきた。


『冗談ですよー、ちょっとしたゴリラジョークですよー』


 小悪魔系の明るくかわいい女の子の声。その声は璃衣羅の手にするスマホから流れてきた。翔太が「えっ」という顔をすると、璃衣羅はスマホにまた話しかける。


「ウホホッホー」

『あ、これゴリラ語を人間の言葉に変換する【ウホリンガル】ってアプリなんですけど、便利な時代になりましたよねー』

「アプリ」


 翔太はぽっかり口を開けて呆然とした。いつの間に時代はそこまで進歩したのか。ゴリラと学校で翻訳アプリを使って会話する時代。翔太はイノベーションの極北に至った気持ちに駆られた。


(しかしこのアプリのかわいい女の子音声、どっかで聞いた覚えのあるような……)


 翔太の困惑など気にする様子もなく、璃衣羅はスマホにむかって饒舌に話す。


「ウホッホッホッホ、ホホー?」

『筆談もできますけど、翔太さん緊張しているみたいだったんで、ジョークで気持ちをほぐそうかと思って。これゴリラ界隈での鉄板ジョークなんですけど、どうでした?』


 どうでしたもこうでしたもない。翔太はここで重大な事実に気付いた。この事実の前にはゴリラ界隈の鉄板ジョークなど、どうでもいいことであった。


(このアプリ音声――CVがあやめるだ!)


 本佐倉綾芽もとさくらあやめ。翔太の一推し声優である。広い演技の幅でミステリアス美少女に小悪魔的あざとヒロイン、幼女から落ち着きのある成人女性、果ては動物、人外キャラまで手広くこなす実力派人気声優である。

 しかし、まさかゴリラ語翻訳アプリの音声モデルまでしているとは、ファンの翔太も知らなかった。不意の邂逅に感動して涙まで流しながら、ここで彼は閃いてしまった。


「ウホッ? ホホホホッホ」

『え、泣くほどよかったですか? でも真似しちゃだめですよ? 歯とか抜けちゃうと大変ですからー』


 目をつぶると、そこにあやめるがいる。


「ウホホ? ウホホッホッホー」

『あれれ? 翔太さん感極まってる? ちょっと翔太さーん。目を開けて下さいよー』


 目を開けると、そこにゴリラがいる。つぶらな黒い瞳で自分を見ている。翔太は再び目をつぶる。


「ウホッホホー」

『もう、あたしが美少女だからって照れないでくださいよー』


 目を閉ざせばあやめる。開けばゴリラ。この難題に翔太は究極の解答を出す。


(オトナになれば目を開けたまま目をつぶることができるようになる――つまり、今この瞬間だ)


 自分の発言に照れて身をよじるセーラー服のゴリラを見て、翔太は欺瞞の海のヘドロに沈んで死んだ魚のような目をしながらニッコリと微笑んだ


「ごめんね。お茶目なキミがまぶしくて、つい目を閉じちゃったんだ」

「ウホホー」

『ヤダー、おだてたってなにもないですからねー』


 心の目を閉ざした翔太には、頬を染めたゴリラがあやめるに感じられた。


(俺は……俺はオトナになったんだな……)


 こうして福原翔太はオトナの階段を昇ったのである。

 こんな出会いの二人が、なんやかんやあって付き合うようになるのは、この一年後のことであった――。

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