紙とペンとラプラスの神

湫川 仰角

紙とペンとラプラスの神

 かつてある地域では、数百数千の文字を紙に書き写すことでホトケの教えを深く理解し、ライセに至るまでのトクなるものを積んだらしい。

『キョウテン』と呼ばれたそれらの文字列は、はるか古から伝わる口説が書かれていたそうだ。


 統合カリキュレーター『La-placeラプラス』。

 大層な名前をしているが、ラプラスは狭義の計算機に過ぎない。数値をインプットすれば、数値がアウトプットされるだけの代物。

 従来の計算機と異なる点は2つ。地球上の全てのネットワークと量子的に繋がり情報を参照し続けるせいで、途中計算が完全なブラックボックスであること。そして、入出力が無制限であること。


 一般的には2つ目の恩恵が大きいとされている。ごく身近な例で言えば、風速、温湿度、標高など、ベクトル量スカラー量問わずあらゆる地球上の情報を放り込み続けることで、地球規模での気象予知が可能となった。今では秒単位で天気の変動が把握できる。

 他にも、状況証拠、過去ログ、地域傾向を統合した犯罪判定機能にも着目されている。

 1つ目については、見て見ぬ振りをされていた。人が持つデータ量はすでに人の手には収まりきらず、制御しようにも参照データは無尽蔵に増加し続ける。読んだ端からどんどん項目が追加される事典のようなものだ。いつしか人はこの事典を読み終えることを諦め、利用方法についてのみ頭を捻るようになった。何が行われているかわからないが、とにかく有用だから使っている。そんな状態が続いた。


 男はその便利な箱の稼働メンテナンス要員だった。

 メンテナンスといっても大した技術は必要ない。不正利用、違法アクセスがないかを確認するくらいだ。当然給与は低く、男は不満を抱いていた。

 ある日、稼働しっぱなしのラプラスを見て男は考えた。

「俺の生活を向上させたい」

 ラプラスの入力コンソールに素朴な願望を入力すると−−もちろん不正利用にあたるが−−即座に反応が返ってきた。

『来世に期待』

「ガラクタめ!」

 男は憤慨した。画面を叩き割りそうになったが、やけくそにもう一つだけ入力した。

「来世の人生を良いものにしたい」

 果たして、結果は出力された。

『写経』

 短い一文が表示された後、見たこともない文字で綴られた、信じられない量のアウトプットが続いた。



 178兆7400億字。

 そのを、ただひたすらに紙へ書き落とす。

 1文字書くのにたっぷり5分。


 男は愚直に写経の意味を調べ、愚鈍に行動に移した。

 やがて手は朽ち記憶は薄れた。

 その都度義手に換装し、外部メモリーに換装した。作り物の手は迷いなく、己の記憶領域に刻まれた文字列を出力していく。紙というあまりに脆弱な媒体へ、ペンという非効率的なデバイスを使って。男は不合理を感じながらも、その手は淀むことなく文字を表す。

 男はとっくに正気を失っていた。


 完成するまで1億7千万年。

 やがて男は書き上げた。

 インクは蒸発し紙は黄ばみ、書いた全ては無に帰っていた。


 男は書く姿勢のまま、涅槃を伴っていた。

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紙とペンとラプラスの神 湫川 仰角 @gyoukaku37do

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