紙とペンと四日目の貴方へ

小山ヤモリ

『今日の私から』

 淀んだ空気の中を独特の生臭さが漂っている。

 わずか四畳程のコンクリートの壁に囲まれたこの部屋は、牢獄、と表現するのが相応しい。四角柱の部屋、高い壁の上では豆電球がひとつぶら下がり淡い光を放っている。部屋の中にあるのはトイレ代わりなのだろう小さなゴミバケツが一個。吐き気がした。



 目が覚めた時、私はすでにここにいた。たったひとり。しかも裸ときたものだ。

 壁が厚いのか周りの音は聞こえない。しかし扉の向こうには人がいるはずだ。私をここに閉じ込めた犯人が。

 ここでは一日に一度、重い鉄扉の下にある投函口のような箇所から食パンが一枚放り込まれる。向こうは私を餓死させるつもりはないらしい。ならば目的はなんだろうか。金目当ての人質というならとんだ人選ミスだ。はっきりいって私は金も地位も何もない貧乏人で、実家だって同様だ。

 なら人身売買? これから海外に売られてしまうのだろうか……今のところそれが一番可能性が高い。



 投函口が開く。今日の分の食パンだろう。今日で四枚目。つまりここに入れられて四日目だった。

「ん……」

 しかし今日はいつもとは違った。

 投函口から差し入れられたのは食パンだけではなかった。一冊のノートと、ペン。

 私はおそるおそるそれも手に取る。

 なんだろう、というよりはなんでだろうという疑問。

 何のために扉の向こうの人物は私にこんな物を渡したのか。表紙は黒いシミでかなり汚れていたが、日記帳であるとわかった。

 まさか、私に日記を書けと言っているのか?

 馬鹿馬鹿しい。こんな所でどう日記を書けと言うんだ。恨み辛みでも書いていけばいいのか?

 私は顔を顰めながらも表紙をめくる。

 するとそこには、すでに誰かの日記が書いてあった。さらにページをめくっていくとどのページにも日記が書いてある。これはすでに誰かの日記帳だったらしい。

 ならなおさらにどうして人の日記帳を渡されたのかと私は首を傾げ、ひとまず一ページ目から読んでいく。



『今日が何日目かわからない。何の為かはわからないけど何かしてないとおかしくなりそうだ。涙が止まらない。怖い。もう嫌だ。誰か助けて』



 書かれた言葉に私は目を疑った。

 状況が今の私と同じだったからだ。もしかすると捕まっているのは私だけではなく、ここには同じような牢獄が少なくとももうひとつあって、他にも人がいるのか。



 ページをめくる。



『家に帰してください。ここのことは誰にも言いません。お願いします家に帰してください。子供がいるんです』



 扉の向こうの人物に向けて書いているのだろう。おそらく筆者は子持ちの……たぶん女性だ。



 ページをめくる。



『助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて』



 ページ一面書き殴ったような文字で埋め尽くされている。精神がすでに限界なのだと見てわかった。



 ページをめくる。



『落ち着いて考えでみることにした。ここで泣いても仕方ないからだ。でも決して諦めたわけじゃない。お前が俺をどうしたいのかは知らんが絶対に許さない。覚えておけ』



「え……」



 突然筆者の雰囲気が変わった。いやよく見れば、筆跡も違う。

「まさか」

 ページを戻し、戻し、まためくる。

 そこで私は一ページごとに筆跡が変わっている事に気づいた。書かれた言葉の雰囲気が変わっていたのは精神的な問題ではなく、筆者が一ページごとに違ったのだ。

 私はごくりと喉を鳴らし、さらにページをめくった。



『このノートを手にした人へ。もし私がこのまま助からなかったら、どうか家族に私の事を伝えてください。私の名前は××××』



 その下にどこかの電話番号が書かれている。この人の実家だろうか。



 しかし私は確信した。捕まっているのは私だけではないのだと。何人もの人が別の牢獄にいて、今の私と同じようにこのノートを渡されて、それを回しているのだ。ならば、どうするか。

 扉の向こうの人物がどうして私達にノートを書かせているのかわからないが、おそらく私もコレを書けば同じように回収され次の人へ回されるはずだ。



 ページをめくる。



『彼氏に会いたい。友達に会いたい』



 ページをめくる。



『どうしてこんなことをするんですか? まだやり直せます。お願いします助けてください。お願いします』



 ページをめくる。



『警察の人へ。たぶん僕は死ぬと思います。お母さんにごめんなさいと伝えてください。僕の名前は××です』



 ページをめくる。



『今日で四日目。いきなりこんなノートを渡された。いつまで続くんだろう。家に帰りたい』



 四日目……私と同じだ。

 ページをめくる。



『四日目。電球が切れそうです。新しいものに変えてください。私は暗い所が怖くてどうにかなりそうです。お願いします。せめて電気だけでも、お願いします。助けて』



 また四日目だ。

 ページをめくる。



『爪が剥がれて痛い。怖い。怖い。助けて。お願い助けて』



 ページをめくる。



 そこは白紙だった。



 私は小さく息を吐いた。

 かなりの人数だ。ここは相当な広さのある牢獄、もしかするとどこかの元刑務所かもしれない。中からでは互いの声が聞こえない以上、このノートで連絡を取り合うしかないか……いや、扉の向こうの人物だってノートに目は通すだろう。余計なことは書けない。

 ならどうする。



 天井からぶら下がっている豆電球がキイ、と揺れる。私は何気なく見上げて



「……新しい」



 気づいた。豆電球だけが、この牢獄の中で異質なほど真新しいことに。

 バッとノートのページを戻す。



『電球が切れそうです。新しいものに変えてください。私は暗い所が怖くてどうにかなりそうです。お願いします。せめて電気だけでも、お願いします。助けて』



ページをめくる。


『爪が剥がれて痛い。怖い。怖い。助けて。お願い助けて』


 ページをめくる。



 白紙。



 ジジ……と豆電球が不吉な音を出す。

 背中を氷のように冷たい汗が伝っていく。



 まさか。



 まさか。



 私は牢獄の中をよく観察する。

 コンクリートの壁、壁、壁。

 ふと、正面の鉄扉の一部に何かで引っかいたような跡が見えた。うっすらと残っている血の混じったその線は……爪の跡だ。



『爪が剥がれて痛い。怖い。怖い。助けて。お願い助けて』



「…………この場所だ」



 ノートの筆者達は、今私のいる牢獄に居た。



『今日で四日目。いきなりこんなノートを渡された。いつまで続くんだろう。家に帰りたい』



『四日目。電球が切れそうです。新しいものに変えてください。私は暗い所が怖くてどうにかなりそうです。お願いします。せめて電気だけでも、お願いします。助けて』



「四日目……ノート……」



「ノートを書けば、次の人へ回す」



「あああ……」



 そんな。まさか。



 直感した。

 これは今ここに捕まっている何人かが書いたものではない。

 だ。

 四日目に渡され、おそらくその後には。五日目にはいなくなる。

 ノートの表紙にあった黒いシミは……血だ。



「あああああ……」



 そして今日、私がこのノートを渡された。



「あああああああああっ」



 扉の向こうの人物が、その口元に笑みを浮かべているような気がした。こいつは殺す前の人間たちに、交換日記をさせていたのか? 決して繋がることのない日記帳を……回し続けて……!



「おかあ、さん……」



 きっと今も田舎で平穏に暮らしているだろう家族を思い出す。貧乏だが、それなりに楽しかった。



 こんなことなら無理に都会へ出てくるんじゃなかった。深夜に一人で出歩くんじゃなかった。近いからといつもと違う道を通るんじゃなかった。

 後悔しても遅い。結果論だ。すべては結果論でしかないのだ。



 私はページをめくる。

 白紙のページだ。



 ここを埋めれば、またこのノートは回収され次の人へと渡されるのだろうか。その人もまたこの場所で四日間を過ごし、五日目に殺されるのだろうか。

 わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。



 それでも私は、震える手でペンをとった。





『四日目の貴方へ』

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