KAC4 紙とペンと果てなき望みと

神辺 茉莉花

第1話とある男の物語


 人間に勝者と敗者がいるのならば、俺は後者の方だ。

 小学校からいじめられ、大卒二十三にしてようやく得た内定は売れるはずもない浄水器の営業職。

 今まであまり人付き合いをしてこなかった俺が、飛び込みの営業でいい成績なんて残せるわけがなかった。

 数カ月連続してノルマの未達と上司の罵倒が続いた。

 ……俺の心はいつの間にか荒んでいった。



 終わりかけた梅雨が戻ってきた。そう錯覚するほど蒸し暑い夜だった。

 自らの営業成績に落ち込み、まっすぐ家に帰る気にならなかった俺は、いつもとは違う道順をたどり帰路についていた。

 ――へぇ、珍しいな。こんな時間に空いている店があるなんて。

 店名はフリードリーム。棚の一区画を貸出し、出品者がそれぞれ売りたいものを置くというシステムをとる店のようだ。

 オレンジの光に誘われるように、俺は店の扉を開けてふらりと入りこんだ。ドアベルの澄んだ音と若い女性店員の『いらっしゃいませ』が重なる。

 ――あ……。

 歓迎されているような気になって、ほっと肩の力が抜けた。



 店内を見て回ると、手作りのアクセサリーにまじってどうしても興味を惹かれてやまないものがあった。少しばかり使い込んだ感じのする一本の木製の万年筆だ。

 手に取って握り込む。

 あつらえたようにしっくりとくる一本を前に、俺は唸り声を漏らし、しばし迷った。

 だいぶ高い価格だ。名のあるものかもしれない。

「ここでこういうのに出会うのも何かの縁だ。買ってみるか」

 本当は心のどこかで、いいものを持ってそれを客にさりげなく見せたら『デキる営業』のように思われるのではないか、そんな思いがあったのかもしれない。

 少なくても、妄想にすがるくらいには追いつめられていた。

 本当はもう、貯金も少なくなりつつあるというのに。


「ではこちら、箱にお入れいたしますね」

 店員はよどみのない手つきでペンを細長い箱にしまうと、一緒に手のひら大のノートも添えて袋に入れた。

「あれ、ノートは買ってないんだけど」

「出品者から、この万年筆をご購入のお客様にはお渡しするように頼まれておりますので」

 サービスというわけか。


「ありがとうございました」

 柔らかい声に見送られて少し気をよくした俺は、誰も待っていない家にまっすぐ帰り、そこで改めて購入したものを眺めやった。



「『付属のノートに書くことにより、書いた文字の一部分が消えていきます。一部分を消すことで望みの漢字にし、幸せな人生をお送りください』……?」

 購入者をバカにしているのか、パーティーでよくある面白グッズなのか……細長い箱に同封されていた説明書には大真面目にそんなことが書かれていた。

 途端にむしゃくしゃして、もらったノートを広げ、大きく乱雑に「吐きだしたいこと」と書いた。

  金がほしい!

  嫌な上司はやめちまえ!

  優しくてきれいな彼女がほしい!

  金!

  今日営業で回った高橋の家、バカにしやがって! 死んじまえ!

  死ね! 死ね! 死ね!

「はぁ……もう疲れた」

 手からぽろりとペンが転がってノートの上を走って……「吐」の字のところで止まった。

 じんわりと涙がにじむ。こんなこと書いても意味はないのに。

 ため息が、睡魔に溶けた。



 翌朝、俺は電話の音で叩き起こされた。支店長からだ。なんでも営業部のトップと俺の直属の上司が朝早く電話をかけてきて辞職を願い出たというのだ。話の途中で電話を切られ、その後は何度かけても繋がらないのだという。

「お前は今日部長が回るはずだったお客様のところを回ってくれ。契約の更新ができるかどうか、というところなんだ」

 焦った声。それに急かされた俺は着替えを済ませると、朝食もとらずに会社に駆け込んだ。


 結果として営業は予想以上の成果を上げた。契約の更新に加え、子会社数社への紹介もしてもらった。聞けば俺が会社に訪問してスリッパに履き替えるとき、靴を揃えて脇に寄せるという何げない動作がサマになっていたらしい。それを見て「この人なら」と思ったという。俺としては、みすぼらしい靴を隠したい一心だった。


 入社して初めて褒められた俺は意気揚々と帰りついた。散らかった室内と広げたままのノートに気恥ずかしくなって、少し整頓しようと考えた。

「ん? 何だ、これ?」

 確かに「吐きだしたいこと」と書いたはずだ。それが、その文字の一部、正確に言えば「吐」の一部が消え、「叶」になっている。

 ――まさか、「一部分が消える」ってそういう?

 つまり、「吐」の字を書けば「叶」になって、書いた望みが叶うということなのか。

 推測は今日二回目の電話の音……昨日営業で回った家が火事になり、その家の者が全員死亡したという知らせを受けて確信へと変わった。



 それから数年。俺は取引先の社長に気に入られ、その娘と結婚をした。

 もちろんその頃には俺の営業成績はトップで月給は五十万を超えた。

 会社自体も「本当においしいミネラルウォーターを良心的価格で販売する会社」として急成長をとげている。

 全ては「一部分が消えるペン」と「添えられたノート」のおかげだ。違うペンで添えられたノートに書いても、違うノートに一部分が消えるペンで書いても効力はない。この紙とペンでないと願いは叶わないということは実証済みだ。



 そんな俺の目の前にヤツが現れた。ヤツ……小学校からずっと俺をいじめてきた斉藤拓也だ。

 暴力団員崩れとの噂が絶えないが、表向きは不動産取引に関する会社の社長におさまっている。つまり、俺の営業先だ。

「で、さ……ずいぶん景気がいいみたいだけど、ちょーっと百万位都合してくんないかなぁ?」

「は?」

 通された応接室には二人しかいない。拓也は浄水器の話もそこそこに粘っこい笑みを顔に張り付けた。言葉遣いは丁寧なものの、見下す視線は相変わらずだ。

 そして、何十年たってもやはり素の状態ではびくついてしまうのも変わらない。

 捕食者と被食者の関係だ。

「ずいぶん稼いでるって聞いたよぉ。ね、ちょっとくらい都合してもいいじゃん。何も会社の金を盗って来いって言ってんじゃないんだからさ。ポケットマネーで百万や二百万、ポンと出せるっしょ?」

「いや、そんな……」

 にやつきの質が、変わった。

「それともさ……バラしてもいいわけ? 遠藤修君は万引きの常習犯でした、って。女子生徒の体操服を盗んだこともあります、って」

「だ……だって、それはあんたがやれって……!」

 ぬめりと冷や汗が背を伝った。握りしめた拳に力が入る。

「へえ? 大事な取引先に『あんた』なんていうんだ? 会社に連絡しようかなー? お宅の社員に暴言を吐かれました、ってね」

「……っ!」

 やると言ったらやる男だった。

 殴る、なんて怖くてできない。結局俺は今でも弱いままだった。

「じゃ、そういうことで。次の打ち合わせ、来週の金曜日までに口止め料として二百万、持ってきてね。よろしく」

「……善処、します」

 憎い、憎い、憎い、憎い!

 言葉とは裏腹に俺の心はどす黒いもので満たされた。



 ――斉藤拓也に死を!

  ただし、そのまま殺してしまえば不審がられるだろう。こうして金庫の奥にノートをしまっているとはいえ、家宅捜索でもされたら厄介だ。かと言って、他人に預けるなんて怖くてできない。急にレンタルルームを借りたら怪しまれるはずだ。

 ――では、どう書けばいいか。……そうだ!

 ニィ、と唇を吊り上げてペンをとる。ノートを開いて、つかの間、紙の質感を楽しんだ。

  斉藤拓也に大きな幸せが訪れますように

 そうして俺は、慎重に「幸」の文字にペン先を当てた。



 それからのヤツはやること全てが裏目に出た。経理の不正処理の発覚、会社の倒産から始まって、家族の離散、難病の宣告……。艱難辛苦の連続と言ってもいい。

 あの時俺はヤツの人生の「幸せ」から一部分を消し、「辛い」という意味になることを願った。一番辛いのは死ぬことではない。かすかな希望を抱きながら、地獄の底でもがき続けることだ。



 こうして一時の危機を乗り越えた俺は、妻から待ち望んでいた一言を告げられた。曰く、赤ちゃんができた、と。

「ようやく……!」

 喜びが大きすぎてなかなか言葉にできない。

 人生のどん底でペンを買ってから数十年。ようやくここまで来た。きちんと育てていこう。みじめな思いはさせないようにしよう。

「ど……どっちなんだ? 男の子か、女の子か? どっちでも俺は嬉しいんだけど」

 ふんわりと甘い花の香り。妻の香り。お腹に負担がかからないように、それでも精一杯抱き締めた。

「知りたい?」

「もちろん!」

「女の子よ」

 ――女神が生まれる。

 冗談抜きにそう思った。

「でね、名前なんだけど……あなたの名前の読みをもらいたいの。『シュウコ』って名前。どうかな?」

 一もなく二もなく俺は頷いた。妻の腹部を撫でて、まだ見ぬ新しい命を祝福する。


 それから妻と『シュウコ』の漢字をどうするかについて話し合った。生まれるのはまだ先のことだというのに興奮してなかなか眠りにつくことはできなかった。

 最終的に候補になったのが「秀子」と「終子」だ。

 秀でた子になりますようにという願いと、もめ事や争いを終わらせる子になりますようにという願いと……。

 正直、名前に込めた意味を思うと、どちらも決められなかった。


 部屋に戻って久しぶりにノートを開く。

 ペンを握りしめた。


  遠藤修 終子


 修の……自分の文字を指で隠した。

「遠藤終子か」

 どうしても口の端が持ち上がるのを止められない。いい加減落ち着こうと俺はペンを置き、後ろを向いた。ナイトキャップに、一杯だけ秘蔵のバーボンを飲もう。

 棚の上にある酒だ。さすがに脚立がないと取るのは難しい。

「よ……っと……うわぁぁー!!」

 不意に体のバランスが崩れた。

 落ちる。

 落ちる。

 落ちる。

 全てがスローモーションになる一瞬、ペン先がノートに書いた「子」を指しているのが分かった。

 「子」から「了」へ。一部分が欠ける。

 逃れられない運命が廻る。


 遠藤修 終了


 首から後頭部にかけて響いたグギャという衝撃音と、熱と、痛みが、俺の知覚の最後だった。

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