最高傑作
枕木きのこ
最高傑作
頭がぼんやりとする。
室内にはエアコンの唸り声がごうごうと響いている。
カーテンの揺らめき。淹れたばかりのコーヒーがくるくると湯気を上らせている。
外では雨がひどい音を立てて降っている。
ガタン、と窓が怒鳴った。
遠くで犬が吠えている。
電波時計はすでに二時を指しており、秒針は十二時の位置で休憩中だ。
額が汗ばんでいるのがわかる。
たらりと滴り、目が痛む。
テーブルの下に転がったお気に入りのボールペン。
執筆作業はいまだに原稿用紙を使っていた。丸めたそれが、床のそこかしこに点在し、うごうごと羽化しようと蠢いている。
何とかそのボールペンを手に取ったものの、果たして、何を書けばいいのかと、迷い始めってしまった。
物語はもうすでに始まっていて、ことは終わりに向かってさえいるのに、だ。
伝えたいことは多くある。紡ぐべき思いは間もなく糸になれるはずなのに。
それがうまく言葉にならない。手に乗らない。
思えばここまで必死に誰かに何かを伝えようという意思をもってペンを握ったのは初めてかもしれない。
こんなに追い詰められてようやく——なのだから、笑える話だし、笑ってもらえたほうが救われる。
私の創作は、思い返せば中学生の頃に始まった。やり場のない恋心を、妄想に落ち着けてしまうのが癪で、気取って話を書いてみた。私と、彼女の、私だけの物語。
ひどいマスターベーションだった。ただ、握っていたのがペンだった、というだけだ。それでも私は満足し、誇らしく思い、手当たり次第にネット世界に放っては、批判を食らうどころか読まれもせず、時には泣きそうになるほど唇をかみしめていた。
社会人になって三年目に新人賞に応募した作品を気に入ってくれた編集者がいた。
それが鮎川だ。
何の変哲もないありきたりなラブストーリーを、むしろ彼のほうが作家に向いていると思わせる程度の言葉づかいでほめちぎってくれた。賞には引っかからなかったが、何とか書籍化までこじつけてくれた。
多大なる感謝をしている。
それは間違いない。
絶対に間違えてはいけないし、間違えたつもりもない。
ないのに。
間違っていたのかもしれない。
もう正解はわからない。
頭上でその鮎川が何か言っているが、うまく聞き取れなかった。
怒声のような、悲痛の叫びのような、そう聞こえるだけで、本当は小さなささやきのような。
今はとにかく身体が火照って熱く、血管の膨張と、鼓動を強く感じる。
世界がずっと遠くにあるような感覚だ。
興奮状態にある——という自覚があった。
クライマーズハイに似たようなものだろうか。
目は爛々と、あるいは血走っていることだろう。
今なら確実にいい作品が書けるという自負だけはあったが、思うように手は進まない。
書かなければいけない。
作家として生きた一年余り。次回作を期待されているなどといった傲慢も、あるいはそういった風のうわささえありはしなかったが、今なら最高傑作が書ける気にさえなっている——なっているのに。
鮎川はそっと扉を開いて部屋を出ていった。
後ろ姿には焦りと落胆が見えた。
私に、失望したのだろう。
いや、順番が逆かもしれない。
失望した故に。
私はもはや、絶命寸前なのだ。
鮎川。鮎川。鮎川。鮎川。
頭の中ではいろいろな言葉が濁流のごとく渦巻いているのに——。
私は悔しい思いと、情けない思いと、苦しい思いの中、ようやく紙にペンを滑らせる。
あの、中学時代のマスターベーションを思い出しながら、ただ無邪気に。ただただ思い浮かぶままに。へたくそな字でもいい。構うものか。
妄想を、妄想のまま終わらせない。終わらせてたまるものかと。
鮎川も、きっとそうだったに違いない。
実現したかったのだ。手につかみたかったのだ。
己の目指した完璧な形を。
最上の人生を。
——ああ。
——あゆかわ。
いまだに原稿用紙を使っているくせに、担当編集者の名前すら漢字で書けないのだから、文字通り、首を切られても仕方あるまい。
でも、これは私の最高傑作に違いあるまい。
ここまで完璧なダイイングメッセージは、きっとほかにないのだから——。
最高傑作 枕木きのこ @orange344
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