紙とペンとはらまき
直木和爺
はらまきを巻いた男の日常
その男はいつも誰かに宛てた手紙を書いていた。
それは昨日の夕食のことであったり、昼間に見た猫のことであったり、朝、山から顔を出す太陽のことであったり、さまざまであったが、どれも他愛のないことばかりであった。
そして決まってその手紙の最後には、
『また明日も手紙を書く。おやすみ』
そう書かれていた。
男は毎日決まって夕方に、その日書いた手紙をポストに投函していた。
しかし、次の日の朝、男が家のポストを見ると、昨日書いた手紙が入っているのだった。
ただ機械的に、
『宛先がなかったためお届けできませんでした』
そう添えられて。
男は返ってきた手紙をポストから取り出し、自宅へ放り込む。
そこに一切の感情はない。ただ手紙を取って部屋に放り込む。男の日課だった。
送り主の名前と住所だけがあり、宛先のない手紙は、当然男の元へ返ってくる。
男もそんなことは百も承知だった。宛先のない手紙が返ってくる。極めて一般的なことだ。
それでも男は手紙を書き続けた。
シャツの胸ポケットにペンをさし、腹に巻いたはらまきの中に便箋を潜ませて。
あるとき、男の知人は尋ねた。
「誰に手紙を書いてるんだ?」
「そんな恥ずかしい事、言えるわけないだろ」
「恥ずかしいから宛先を書かないのか?」
「いや、相手の住所を知らないんだ」
「じゃあなんで届かないとわかっている手紙を毎日出すんだ?」
「いつか届くと信じているからさ」
男の知人は不思議そうに首をひねった後、これこそが一番聞きたかったことだと言わんばかりに口を開いた。
「じゃあなんではらまきをしているんだ? 絶望的に似合ってないぞ」
「そりゃ、腹が冷えたらいけないだろ? だからはらまきを巻いているんだ」
そりゃそうだなと、男の知人は言った。
しかしその顔は全く納得していなかった。
しばらくして、その町で、いつもはらまきを巻いた男がいると有名になった。
男はそれが自分のことであることをわかっていたが、特に気にするそぶりも見せていなかった。
男は自分が町の名物になりそうだと、手紙に書いて投函した。
その手紙は翌日戻ってきた。
またしばらくして、男の元に配達員がやって来て、迷惑だからもうやめてくれと言ってきた。
男はすぐに謝ったが、そのことを手紙に書き、ポストに投函した。
手紙は翌日戻ってきた。怒れる配達員と共に。
しばらくすると、もう配達員は怒り疲れたのか来なくなった。
男はこれでまた静かに手紙が書けると喜び、その思いを手紙に綴った。
手紙は翌日戻ってきた。配達員のメッセージと共に。
『もうあんたには根負けしたよ。もしよかったらあんたの手紙、俺たちで読んでもいいかな?』
男はこのメッセージに返事を書いた。便箋の隅に、
『構わないが、汚したりしないで、ちゃんと元に戻してくれよ』
そう書かれていた。
それから配達員の間で、男の手紙は日々の楽しみになっていった。
日々綴られる男の想い。それは男の日常を事細かに描き出していた。
今日は朝部屋にゴキブリが出て、退治するのに1時間かかったとか、泣いている子供に声をかけたら、はらまき怪人だと余計に泣かせてしまったりとか、綺麗な花を見つけたから、今度花屋で買って持って行ってやるとか。
それは本当に他愛ない、ある男の日常。
ただ、宛先のない手紙を毎日出していることと、常にはらまきをしていること以外はどこにでもいる普通の男の日常だった。
そんな男の日常は、配達員の中の人気にとどまらず、町を飛び出して人気を博した。
宛先のない手紙を書き続ける男。はらまきを手放さない不思議な男。男の奇行は、人々を楽しませた。
男の知人は言った。
「そんなに人気なら一儲けできるだろ。どうだ、本でも出してみたら」
「馬鹿を言うな。俺はそんな大したもんのために手紙を書いてるんじゃない。本なんて出せるものか」
それからも男は毎日欠かさず手紙を書き続けた。
この前言っていた花を買った。お墓参りに行った。はらまきを洗濯した。
そろそろ夏が来るからはらまきは暑い。秋になったから肌寒くてちょうどいい。冬のことは考えてなかったからあんまり温かい素材じゃない。春の間は快適だ。
そんな風に手紙を書き続けて、20年が経った。
既にその町の配達員たちは、皆男の手紙の存在を知っていて、その手紙を読むのが日課になっていた。
そしてその手紙を翌日に男に届ける。たまに簡単なメッセージを添えて。
しかし、ある日男からの手紙がぷっつりと途絶えた。
雪の降る、寒い日だった。
配達員たちは男に何かあったんじゃないかと心配になったが、単に風邪をひいただけだろうとその日は様子を見に行かなかった。
しかし、次の日になっても男からの手紙は届かず、さすがに配達員たちにも不安が広がった。
そしてそれから3日が経ち、相変わらず途絶えたままの男の手紙に、心配になった配達員が男の家を訪ねた。
しかし、何度インターホンを鳴らしても誰も出てこない。
不審に思った配達員がドアノブをひねると、あっさりと開いた。
鍵がかかってなかったのだ。
配達員が家に入ると、中からは何の物音もしない。
不審に思った配達員が部屋をのぞいて回ると、男はある部屋にいた。
そこにはうずたかく積まれた便箋の山と、インクの空になったペンでいっぱいになったゴミ箱。男が座っている椅子と、突っ伏している机があるだけの簡素な部屋だった。
「おい、あんた。どうしたんだ? ここのところ手紙も出さないで。俺はあんたが心配で様子を見に来たんだ」
配達員が声をかけても、男はピクリとも動かない。
寝ているのだろうか、配達員はそう思い、男の肩に手をかける。
「なあ、どうし――」
配達員はそこで言葉を失った。
肩に置いた手には、何の温もりも感じられなかったのだ。
まるで、死んでいるかのように。
配達員が驚きその手を引くと、男は引きずられるように椅子から転がり落ちた。
その顔には、もう生気はなかった。
死後、5日。警察はそう言った。
町中の人々は男の死を嘆いた。享年50歳の若さで死んだのだ。
死因は衰弱死だと言われた。
警察の調べで、男が死の間際、書き上げた手紙があると分かった。
それは机の上に置かれていて、綺麗に封までしてあったそうだ。
配達員たちの手元に送られてきた手紙には、こう書かれていた。
『最近はもっぱら冷えてきて、はらまきがあってよかったと心から思うよ。でも、やっぱりこのはらまきは冬用じゃないから、これだけだと腹を冷やしかねないな。
お前が最後にくれたものだから、今まで肌身離さずつけていたけど、それもそろそろ終わりかもしれない。
でも、不思議と俺は寂しくないんだ。町の連中や配達員のやつらがいたし、そのせいかもな。でも、あいつらは俺のことをはらまきを巻いた変な男だと言うんだ。これはお前がよく似合ってると言ったんだ、そんなはずないよな?
最後にと思って墓参りにも行った。この時季だから花は止めようと思ってまんじゅうを買った。お前が好きだったやつだ。
今日は一層冷え込んで、コートの襟を閉めても寒くて仕方がない。どうせならはらまきじゃなくてマフラーにしてくれればよかったのにと、この時季になるといつも思うよ。腹を冷やしたらいけないって、そりゃそうだが、どうせならマフラーの方がよかった。
そんなことを言ったらきっと、お前は怒るかもしれないが。
いつも墓越しに話をしてばかりだったからなぁ。これでようやくお前の顔を見て話せるかもしれないな。それが今は楽しみだよ。
どうか待っててくれ、そろそろ行くから。でも、そっちに逝ったらお前は怒るかな。もうちょい踏ん張れって。
でも俺だって結構頑張ったと思うぞ? その苦労話を聞かせてやるよ。手紙じゃ書ききれなかった分もな。
それじゃあ、もう手紙は書かない。これで最後だ。
おやすみ』
いつもと同じように男の日常が綴られた手紙には、いつもとは違う最後で締められていた。
その後、分かったことがある。
男には妻がいた。男にはもったいないくらいの美しい女で、気立てもよく、親類からも好かれていた。
男は妻を愛していたし、妻も男を愛していた。
二人は誰もが羨む夫婦だった。
しかし、妻は病に伏した。享年30歳だったという。
あまりに急なことで、男は妻と住んでいた家を飛び出した。
妻が最後に贈ってくれたはらまきだけを持って。
それからの20年。男は毎日手紙を書き続けた。亡き妻に向けた手紙を。
来る日も来る日も、妻と一緒に過ごすはずだった日常を、書き続けた。
遠く離れた、宛先も知らない場所にいる妻が、寂しい思いをしなくて済むように。
その手紙が妻に届いていたのか、それは誰にもわからない。
あの男が、再び妻に巡り合えたのかも。
だが、そうであってほしい、そうであるはずだと、誰もが信じていた。
宛先のない手紙は、きっと天にいる妻に届いたのだろうと。
男の家はなくなったが、その跡地には小さなポストが建てられた。
そのポストには毎朝大量の手紙が届き、配達員たちはその日の夜に、朝届けた手紙をすべて回収する。
手紙の内容はすべて、その手紙を送った誰かの日常。
その手紙たちは保管され、訪れる多くの人たちが、日々誰かの日常を覗いていく。
その中で、最も人気の手紙たちがある。
それらの手紙は、送り主の名前と住所だけが書かれた、宛先のない手紙。
送り主がすべて同じことから、総じてこう呼ばれた。
「はらまきを巻いた男の日常」
その手紙は、今日も誰かに、宛先のない手紙を毎日出していたことと、常にはらまきをしていたこと以外はどこにでもいる普通の男の日常を伝えている。
それはきっとこの先も続く。
いつまでも、いつまででも。
紙とペンとはらまき 直木和爺 @naoki_waya
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