紙とペンと印鑑

村中 順

第1話 紙とペンと印鑑

 あなたと初めて会ったのは、52年前の花火大会の時ね。

あの時、大学の女友達と浴衣を着て行ったの。


 ねえ、私の浴衣覚えてる?


 そして最後のナイヤガラの滝が終わった時、一斉に皆んなが帰るので、物凄い人だった。

 その時、私の鼻緒が切れて、友達とはぐれちゃった。

あの頃は、携帯電話なんて便利なものはなくて、友達も仕方なく帰宅したみたい。


 その時、あなたが来てくれたのよ。

 私が人混みを避けて、壁に手をついて、片足で立っていると、


「どうしたの? 」って、言ってくれたの。


 私、最初、警戒しちゃって、

「大丈夫です。友達が来ますから」って、嘘ついちゃった。


 それでも、あなたは、

「じゃ、お友達が来るまで、一緒にいて良い? 」って言ってくれたわね。


 それで、あなたと付き合うようになって、色々なところに行ったわね。楽しかったわ。


 それからお互い就職して、ちょっと合わない時期があったでしょ。でもね、ふとあなたを思い出す事があったわ。その時は、胸がキュってして、寂しかったわ。


 それから、しばらくして、貴方から電話があって、


「忘れられないだ。一緒にいても良い? 」

って言ってくれたわね。覚えてる?


 それで、森の教会で式を挙げたけど、私一番覚えているのは、婚姻届の紙にペンで名前を書いて、印鑑を押した時なの。

”妻になる人” の欄に名前を書いた時が一番忘れられないわ。


 それから、私たち、まだお金がなくて安いアパートを借りたわね。賃貸契約書という紙にペンで名前を書いて印鑑を押したわ。

 その時、喫茶店で書いたけど、あなた、コーヒーをひっくり返して、書き直したのよ。


 ねえ、覚えてる?


 それから、たかしが生まれた時も、私、よく覚えてるわ。

 あなた、何日も前から男の子の名前と女の子の名前を、いくつも考えてたわね。

 画数がどうだとか、日頃、あまりそう言った事を気にしないのに、あの時は沢山の本を買ってきて、紙にペンで何個も書いていたわ。書き順が如何とか、見た目が如何とか、変なあだ名にならないようにとか、果ては、サイン会で書いた時の見栄えまで、何枚もの紙にペンで書いていたわ。


 私、お腹の隆に

「お父さん、ちゃんと考えてくれてるわよ」

って、話していたのよ。


 それで、出生届の紙にペンで『隆』って書いたのよ。


 でも、あなた、

「うーん、いまいちだなぁ」とか言って、印鑑を押すまで5枚書き直したわね。隆の1文字にあんなに真剣に書いているのを見て、微笑ましく思ったわ。


 その頃から、あなた、少し偉くなって、仕事が忙しくなって、午前様が増えてきたわね。隆は、夜泣きがひどくて、あなたの短い睡眠を邪魔しないように結構気をつけたのよ。


 これはあなたは、知らないかしら。


 理子みちこが生まれるころは、あなたは海外単身赴任だったわね。

 男の子の名前と女の子の名前『理子』を出生届の紙にペンで書いて、郵便で送ってきたわね。どちらかに印鑑を押して出しといて、電話で言っていたでしょう。

 奇妙なところにこだわる、あなただったけど、私、なんか嬉しかったの。でもね、鉛筆で下書きして書いていたでしょう?


  私、消しゴムで下書きは消しておいたわよ。


 2人の人生で一番大きな買い物って、やっぱり、この家を買った時よね。

 印鑑も昔より、ずっと良いものにして、契約書という紙にペンで名前を書いて印鑑を押したの。


 あなた、ちょっと震えていたでしょう。


 隆が横でボール遊びをしていたのを怒って、部屋から追い出したわね。


 なんか可笑しかった。


 隆も理子も結婚したけど、やっぱり、理子の時は可笑しかった。ごめんなさいね。


 よくあるドラマの花嫁の父親みたいに、

「お父さん、会って欲しい人がいるの」って、理子が言った時の慌てようは、今でも思い出すと、笑っちゃう。ごめなさいね。


 それで、結婚式の時、あなた あんなに泣いちゃって、ビックリしたのよ。


 それからは、少し夫婦の時間が戻ってきたわね。

 新婚の頃の様に濃密ではないけど、お互いが感じられる距離にいて、それも良かったわ。

 時々は、2人で旅行に行って、大学の頃とは違って楽しかった。


 私、人生で一番良かったと思うのは、離婚届っていう紙に名前を書くことが無かった事だと思うわ。喧嘩もしたけど、あの紙にだけは、書く様な事は、なかったわね。


 今、私は、冷たくなった、あなたの横で、死亡届って紙に、ペンで名前を書いてるの。それで印鑑を押すわ。


 あなたが、

「一緒にいて良い? 」って言ってくれた、あの言葉、それを貫いてくれて、本当にありがとう。


 紙にペンで書いたものより、その言葉の方が、ずっと嬉しかったわ。


 もう一度言うわ、一緒にいてくれて、本当にありがとう。




 紙とペンと印鑑 − 完 ー

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紙とペンと印鑑 村中 順 @JIC1011

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