紙とペンと初桜

@muuko

紙とペンと初桜

「陽菜、手つないで歩こ? 危ないから」

「やだ」

 娘はこちらを振り返ってもくれない。転園初日の帰り道、陽菜の機嫌はすこぶる悪い。

「新しい幼稚園、どうだった?」

「……」

「今日はどんなことしたの?」

「……」

「先生優しい?」

「……」

 陽菜は下を向いたまま、私の前を歩く。さっきから何を聞いてもこの調子だ。どすどすと不機嫌な足音を立てて歩こうとしているのだが、陽菜の靴からはぴっぴっと可愛い音が出て、それが余計に陽菜の機嫌を悪くさせる。

 朝綺麗に編み込んであげた陽菜の髪は解かれて、寝起きのようになっていた。


 やっぱり夫に単身赴任してもらえばよかったか。


 俯いたままの小さな背中を見ていると、胸に後悔の念が広がっていく。3月、中途半端な時期の転園だ。前の幼稚園で楽しく過ごしていただけに、陽菜にとっては嫌な転園になってしまったに違いない。

 新しい幼稚園では、陽菜を1人にしないように先生が今日一日気にかけてくれたようだ。それでも、ある男の子に髪をひっぱられたとかでけんかになり、陽菜がその子をぶったらしい。けんかなんて初めての事だ。詳しい話を聞き出そうとしても、ひなはわるくない、の一点張りで何もわからない。帰りのお迎えの時、男の子のお母さんと私は互いにひたすら謝った。陽菜は頬を膨らまして俯いたままだった。


「あ、陽菜見て。大きい公園があるよ。よってみよう」

 気分転換になればと陽菜を促して公園に連れて行く。入り口の所で、カフェの店先によくある立て看板が目に入った。


『あおぞら茶道・書道体験 無料』


「茶道と書道? 公園で?」

「こんにちはー。お姉さん時間ある? ちょっと一杯やっていきません? 無料だし」

「は?」

「お抹茶飲みません?」

 気づくと頭に白いタオルを巻いた青年が看板の横に立っていた。チャラくて怪しい。

「いや、私茶道とか別に……」

「君可愛いねーいくつ? お菓子あげるよ。あんこ好き? おせんべいもあるよ」

 青年はしゃがみ込んで陽菜に声をかけている。ロリコンだ。ますます怪しい。

「ちょっと!」

「ひな、いく」

 人を呼びますよと続けるより先に陽菜が口を開いた。

「なに食べる?」

「おせんべ」

「おっけ。お姉さん俺怪しい者じゃないから。大丈夫だから。ね?」

 青年は顔の前で必死に両手を合わせ、陽菜は真っ直ぐ私を見る。陽菜とにらめっこして、最後は陽菜の目に負けた。

「じゃあ、少しだけ」



 公園に入るとすぐ人工の小さな川が流れている。周りは手入れをされた木々に囲まれていて、中心は芝生の広場になっていた。広場の脇に小高くなっている場所があって、東屋がある。東屋の横に簡易テーブルが設置され、ポットや茶器がつまれている。あそこが会場らしい。


「2名様よろしくー」

 青年が東屋に駆け寄り、女性に声をかける。

「はーい。こんにち……」

 振り向いたのは、陽菜とけんかした男の子のお母さんだった。

「健太くんのお母さん!」

「陽菜ちゃんママ! 陽菜ちゃんも。今日はうちの健太が本当にごめんね。ここには偶然? あれうちの弟なんだけどチャラいでしょ。ごめんね。悪い奴じゃないのよ。ただ怪しいだけで」

 弟さんは、姉ちゃんひでーな、と笑いながら来た道を戻っていった。

「この公園良いなと思って寄ったら入り口で弟さんに声をかけてもらって。茶道も書道も馴染みはないんですけど、陽菜が行きたいっていうので、せっかくだから」

「ひな、おせんべたべたい」

「ありがとう陽菜ちゃん。食べてって! りんごジュースもあるからね」

 陽菜はおせんべいを受け取ってベンチに座る。

「ママもこっち座って。お抹茶飲んでって」

 そう言って健太くんのお母さんはテーブルの前に立って準備を始めた。私も陽菜の横に腰かける。陽菜は足をぷらぷらさせて、ぽりぽりとおせんべいを頬張る。

「美味しい?」

「うん」

 陽菜の機嫌が上向いてきたようだ。

「はい、ママにはこれ」

 健太くんのお母さんから小さなお盆を受け取る。お盆に敷かれた懐紙の上に、丸みを帯びた桜の花びらの形をした和菓子が一つ、ころんとのっている。

「うわぁ、ピンクだ。ママかわいいね」

「そうでしょう。これはね、練り切りって言うお菓子なの」

 健太くんのお母さんはしゃがんで陽菜に優しく話しかけ、私に向き直る。

「手作りなの。初桜っていう名前」

「私、お作法とか全然わからなくて……」

「気にしないで。今日はただお茶とお菓子を楽しんでほしいだけだから、好きに食べてね」

 手前に添えられた名前も知らない木の棒で和菓子を一口サイズに切り、突き刺して口に運ぶ。桜の味がするかと思ったがそうではなかった。餡の甘みが口の中に染み渡り、なんだかほっとする。

 陽菜が初桜と私を交互に見つめている。

「おいしい?」

「うん、甘くて美味しいよ」

 小さく切って陽菜にあーんをしてあげると、嬉しそうにぱくりと食べた。


「おーい。そこのお嬢さーん」

 さっきどこかに行った弟さんが、小さな男の子を連れて戻ってきた。男の子を見て陽菜が口をむっと引き締める。健太くんだ。健太くんは弟さんに握られた手を離して逃げようと必死だが、弟さんはビクともしない。

「あっちで俺らとお絵かきしない?」

「その前に健太、陽菜ちゃんに言うこと言いなさい」

 健太くんにお母さんから厳しい声が飛ぶ。

「はなせよ! はなせ!」

「いてっ!」

 健太くんは暴れまくって弟さんのすねを思いっきり蹴った。弟さんがひるんだ隙をついて健太くんは広場の向こうに走って行ってしまった。

「あのやろー。ま、いいや。後でまた連れてくるから。あ、俺書道教室やってんすよ。お茶は人がくるけど書道は誰もこなくてさ。俺さみしいの陽菜ちゃん。あっちに紙といろんな色の筆ペンあるからさ、一緒にお絵かきしない?」

 陽菜は素直にチャラい弟さんに連いていった。広場の、東屋からしっかり見える位置に敷かれたビニールシートに座って弟さんと楽しげに話し始めた。


 陽だまりの中で遊ぶ陽菜を眺めながら、初桜を頂く。本当は早く食べ終えないといけないのだろうが、ゆっくり時間をかけて味わった。

 ちょうど食べ終わる頃、健太くんのお母さんが綺麗なお抹茶の入った白い器を渡してくれる。浅い知識でなんとなく器を回し、一口飲む。口の甘さが抹茶で中和されて、鼻の奥に香りが抜ける。

「美味しいです」

「よかった」

 にっこり笑うと、健太くんのお母さんも隣に座って、並んで書道教室の様子を眺めた。



 器の中の抹茶を見つめる。綺麗な春の色だ。ほんのりと温かい。

「私、今回の引っ越しが本当によかったのかなっていまだに考えてて」

 自然と私の口から漏れた言葉を、健太くんのお母さんは遮らない。

「夫は転勤族で、これまでも引っ越しは何度かあったんです。私も夫も家族は一緒にいた方が良いって考えだから、引っ越しの度についていってました。今まではそれで良かったんです。陽菜は小さいから基本家の中だし、私は人付き合いが良くないからどこに住んでも周りの人と付かず離れずで、いつ転勤しても平気で。でも陽菜がつかまり立ちして歩くようになって、外で遊ぶ時間が増えてくると、だんだんそうじゃ無くなってきて。あの子、公園で誰とでも楽しそうに遊ぶ子で。幼稚園に入った時はすぐにみんなと打ち解けて、毎日楽しそうにしてて。今回の転勤は大人の都合で陽菜の築いた新しい世界と……お友達と引き離すことになる。それは良くないんじゃないかって思って、何度も何度も夫と話し合ったんですけど、結局ついてきたんです。ここ、夫の地元で。土地勘もあるし、転勤もこれで終わりだって。だからついて行くって決めたんです。だけど、やっぱり陽菜と私は向こうに残るべきだったんじゃないかって思いが消えなくて。残った方が、本当に陽菜のためだったんじゃないかって」

 健太くんのお母さんは、うん、うん、と静かに横で頷いて、最後にそうかぁ、と呟いた。

 私はそのまま言葉の続きを待つ。

「今日会ったばかりだけど、陽菜ちゃん見てると、きっと素敵な家庭で育ってるんだなって思うよ。物怖じしなくて意思表示もしっかりしてて、うちの怪しい弟ともすぐに仲良くなってくれて。上手いこと言えないけどさ、ママもパパも陽菜ちゃんのこと大事にしてるって陽菜ちゃんが1番感じてると思うよ。だってママが陽菜ちゃんのことでこんなにたくさん悩んでるんだもん。それにさ」

 健太くんのお母さんが書道教室の方を指差す。弟さんが木陰に入って行き、健太くんの首根っこを捕まえて戻ってきた。もじもじした様子の健太くんが陽菜に何かを差し出す。それを見た陽菜はにこっと笑って、健太くんと一緒に遊び出した。

「子供はけんかしてもすぐ仲良くなっちゃうんだよね」

 不思議だよねと健太くんのお母さんは笑った。

 私は抹茶の最後の一口を飲み干す。爽やかな苦味の後、胸の奥がすっとして良い香りがした。


「ママ見て! 健太くんにもらった」

 器を片付けて書道教室にいくと、陽菜の機嫌はすっかり直っていた。健太くんにもらったのは絵手紙で、拙いごめんねの文字と見事な初桜の絵が描かれていた。陽菜が東屋にいる間に、ここで弟さんが絵を描いて健太くんが一生懸命手紙を書いたのだ。陽菜の後ろから健太くんが申し訳なさそうに顔をのぞかせる。

「ひなちゃんママ、ごめんなさい」

「ううん。こちらこそごめんね。きっと陽菜も健太くんに嫌なことしちゃったんだよね」

「ちがうの。ひなちゃんのかみがかわいくって、さわったらぐちゃぐちゃにしちゃったの。それでひなちゃんおこったの。ママがやってくれたかみなのにって」

「そうだったんだ」

「ねぇ、またひなちゃんあのかみにしてくれる? すごくかわいいから」

 耳元でそう言われ、思わず笑みがこぼれる。

 それから2人はたくさん絵を描いて遊んだ。



 あおぞら体験の帰り道、陽菜と手を繋いで歩く。

「ねぇママ、あしたもあみこみしてくれる?」

「うん、もちろん」

 陽菜のもう片方の手には、健太くんがくれた初桜の絵手紙がしっかりと握られていた。

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