心を伝えるには
まじりモコ
雨音
ボサボサの髪の毛を揺らし、原稿用紙の上に絶え間なくインクを落とす。万年筆が紙を削る一定のリズムに合わせてまた頭が揺れる。
先輩が部室に居る時はいつもこの音が鳴っていた。まるで降り続く雨音のような、静かで
僕は大宮先輩が嫌いだった。
僕は作家を目指して文芸部に籍を置いている。書いているのはもちろん長編作品だ。有名なコンテストに応募したりしているが、なかなか受賞まで漕ぎ着かない。
一方の先輩が書いているのは短編ばかり。
先輩は以前、地方のとても小さな文学賞で入選したことがあるらしい。先輩はたったそれだけのことを誇りに思っているようだった。
僕はそんな小さな物で満足できてしまう彼を、悪く言えば見下していた。だって僕はもっともっと多くの人に認められる存在になりたかったから。
「……大宮先輩、どうでした?」
本当は声をかけるのも嫌なのだが、僕は恐る恐るそう先輩に呼び掛ける。
僕は昨日、新作を先輩に渡していた。文芸部の後輩としての義務に過ぎない。
しかし、せっかく読んだのなら感想を教えて欲しいのも事実だった。
先輩はやはり手を止めずに応答する。
「
いつもの古風な喋り方で指摘してくる。
「昨日お渡しした原稿のことです。どうせもう読んでしまったんでしょ。できれば、感想を下さい」
我ながら生意気な言い方になってしまった。しかし先輩は気にした様子もなく、手を止めずに口を開いた。
「あの作品のテーマは『家族愛』。そうだね?」
「そ、そうです」
作品の根幹を一発で言い当てられ、つい
特に今回の小説は我ながら自信作だ。今度こそ褒めてもらえるのではないかと期待してしまう。
しかし先輩は僕の想像のように甘くはなかった。
「テーマがぶれている」
こちらを見ようともせず、先輩はそう言い放った。
「『家族愛』を伝えるのなら、途中の展開は冗長だったよ。正直読むに堪えない。特に後半のヒロインとのラブシーン。あれは物語に必要だったのかい? あそこだけ文体が変わって、作品の一貫性を崩していた」
「そ、それは……」
自分でも薄々感じていたことを先輩は容赦なく突きつけてくる。確かにラブシーンは後から無理に付け加えたものだ。そういう描写のない小説は、内容がどんなに良くても売れない。そうネットで見たせいだ。
「…………」
反論の声は出なかった。先輩の指摘はいつも的を射たものだったから。
意気消沈してしまった僕は読んでいた文庫本を閉じた。そのまま帰ろうと立ち上がった、その時。
「けれど、前回よりは素晴らしいできだった」
「えっ?」
幻聴かと思って動きを止める。声のした方を見ると、先輩は頭を揺らしマスを埋め続けていた。
「あれは、特定の誰かに読んで欲しくて書いたものだね」
「はい。……妹が最近、元気ないから。何か悩みがあるなら家族を、僕を頼っていいんだって、直接言えなくて──」
「代わりに、物語に想いを込めた」
「その通りです」
「もう
「先週、出来上がって一番に見せました」
「感想は?」
「『面白かったよ』って……」
「そうか」
先輩は珍しく口元を微かに
「野島君。精進したまえ」
それが激励だったか、はたまた小馬鹿にされただけなのか。突然の誉め言葉に混乱していた僕には判別できなかった。
◇ ◆ ◇
「あ、お兄ちゃんお帰り」
本屋に寄り道していると、ずいぶん遅い時間になってしまった。けれど誰に
今日も僕を出迎えたのは、三つ年下の妹だけだった。
「ただいま。ん? こんな時間に洗濯か?」
「あっ、えっと。……た、体操着、汚しちゃって」
「ふーん。相変わらず抜けてるな、お前。そうだ、ついでに僕のも洗っておいてくれよ」
「えーやだよー。お駄賃くれるなら、後で洗ってあげるけど」
「お前、兄ちゃんのサイフ事情知ってて言ってるだろ」
リビングを通りすぎ、脱衣場へと向かう妹にふと目を向ける。すると妹の手の中に不自然な色彩を見つけて、僕は声をあげた。
「なぁ」
「……なに、お兄ちゃん」
振り向いた妹の顔には、ありありとした拒絶が貼りついていた。いつもと違う異質な色。僕は妹のそんな雰囲気に気圧されて、言葉を濁した。
「……いや、なんでもない」
その夜、妹は出掛けたまま、朝になっても戻らなかった。
◇ ◆ ◇
必死に走り回った。思いつく限りの場所をまわる。
昼時から日が傾く時間まで。休むことなく走り続け、足がもう動かなくなったとき、僕はなぜか、その場所に来ていた。
古びた扉を押して部屋に入る。
休日だというのに、やはり大宮先輩はそこに居た。
ボサボサの頭を揺らし、絶え間なくインクを原稿用紙に滑らせる。いつもと変わらない光景。聞き慣れた万年筆の音。
息を切らせた後輩が突然入って来たというのに、顔を上げもしない。
僕は後ろ手に扉を閉めて、その場にくずおれた。
「……妹が、家出しました」
そう呟きをこぼす。手をついた床は冷たい筈なのに、温度も感じない。
「すぐに帰って来ると思ってた。けど、朝起きてもどこにもいなくて。あいつの部屋に行ったんです。そしたら、机の上に書き置きが」
しんと静まりかえった部屋の中。聞こえてくるのは先輩が活字を書き連ねる音だけ。
ペースの乱れることのない、終わりのないこの響きを、僕はやっぱり雨の音に似ていると思った。
「妹は、学校でイジメを受けていて。それが辛いと、書いてありました」
なぜあんな時間に妹が洗濯機を回していたのか。なぜ、帰宅部のはずの妹の体操着が絵の具に汚れていたのか。
考えれば分かったはずなのに。僕はどうしても踏み込むことができなかった。
だから妹は居なくなった。助けてくれる人なんていないと、そう絶望して。
「書いたのに……。僕は、小説を……伝えようと、書いたのに。何も……何も伝わってなかったっ」
元気のない妹に、僕は教えたかった。
両親は僕らを育てるために必死に働いていて。時にそれが冷たく感じることもあるけれど、あの人たちなりに、一所懸命に僕らを愛しているのだと。
両親に出来ないことなら僕が代わりを担う。妹の一番近くで、君が頼ってくれるのを待っているって。
想いを小さなピースに変えて、小説に落とし込んだ。
けど、駄目だったのだ。伝わらなかったのだ。
降り積もる雨音を現実に変えるように、僕の瞳からは涙が溢れだした。大粒の水滴は重力に導かれるまま、床に落ちて水溜まりを作る。
己の無力さに絶望しはらはらと涙を流し続ける。そんな僕の耳に、彼の声は届いた。
「ボクらは他の誰よりも恵まれている」
今まで聞いたことのない優しい響きに顔を上げる。
大宮先輩は原稿に視線を落としたままだった。物語を紡ぎながら、先輩は続ける。
「ボクら物書きは、想いを伝えるのに声を必要としない。百本のバラも、給料三ヶ月分の指輪も、大仰な演説も必要ない」
先輩が何を言っているのか、僕には分からなかった。なぜ今そんなことを言うのか。
分からなかったけど、とにかく彼の声が優しさを帯びていて、僕は先輩の言葉に聞き入っていた。
「ボクらにはただ、紙とペンと、想いを
揺れる髪の毛は心なしか、いつもより柔らかい。ふわふわとしたくせっ毛が優雅に踊るように跳ねる。
「小説はね、心を描くものだ。誰かに知って欲しい、理解して欲しい何かを、物書きは物語に込めて送り出す。その何かを誰かが受け取ってくれた時、始めて物書きは作家となるのだよ」
らしくない微笑みを浮かべて、大宮先輩は初めて顔を上げる。いつの間にか、あの雨の音が止んでいた。
原稿用紙を前に先輩が手を止めたのを、僕は初めて見た。
「野島君。君の小説はすぐに脇道にそれて、本当に書くべきことを雑多な出来事に埋もれさせてしまっていたけれど──」
先輩が万年筆を机に置き、両の指を組む。普段は眼鏡に遮られて見えない大きな瞳が、今はこの世を慈しむように細められていた。
「──君の想いは、十分に詰まっていた。
先輩の姿が歪む。瞳の裏側に熱が籠って、鼻の奥がツンと痛む。
さっきとは違う温かな涙が、僕の頬を
「想いは届く。書き続けていれば、いつか読者に伝わる。すぐには理解されなくても、ちゃんと分かってくれる日が来るよ。技術は拙くとも君の書く小説にはその力があった」
先輩は頭を掻いて、ふいに窓の外へ目を向けた。太陽は町に沈もうとしている。風に揺らめく木の葉の隙間から、オレンジ色の光が狭い部屋へと差し込んでいた。
「あの小説だと、主人公が妹と再会するのは日暮れ時の公園だったね。あの細かい描写にはモデルの場所があるのだろう? 行ってみたまえ」
それだけ告げて、大宮先輩は万年筆を取った。また頭を揺らして小説を書き始める。
僕はそんな先輩に一つ、深く頭を下げて
廊下に出て扉を閉める。頭の中にはさっきまでの絶望が嘘のように、新たな世界が広がっていた。
ああ、早くこの物語を書きたくてしょうがない。そうしたら妹に、先輩に、読んでもらおう。
そうすれば、きっと伝わる。
だからその前に僕の読者を迎えに行かなくては。
僕はもう一度、気合いを入れて走り出した。
大宮先輩が、今も誰かに届ける言葉を紡ぎ続けるように。
きっと僕は明日も、作家を目指して小説を書いているだろうと、笑いながら。
心を伝えるには まじりモコ @maziri-moco
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