ディストピアの冷蔵庫

金澤流都

ディストピアの冷蔵庫は七面鳥を食べたい

 それは恐ろしいほどあっけない出来事だった。

 僕ら上級市民の住む、安全な隔壁に守られた街――セルの隔壁が、突然崩壊したのである。

 セルの外側は、おぞましい下級市民が住み、未知の病気が蔓延し、さながらこの世の地獄であると、僕たち上級市民は、「マザー」に言われて育った。上級市民であることは、食事や衣服や清潔な暮らしが保証されて、なんの心配もなく、安全に暮らせるということだと、「マザー」は言った。

 しかし、その上級市民の特権は、一瞬にして崩壊したのである。僕の戸籍上の父親は、「マザーよ。これはどういうことです」と、かつてマザーのあった空にそういった。もうなんの返事もなく、父さんはへたり込んでしまった。

「ぼ、僕が食べ物持ってくるよ。きっと下級市民だってなにか食べてるはず。いなばのインドカレーバターチキンだってきっとあるさ」

 いなばのインドカレーバターチキンはもうすぐやってくるクリスマスのごちそうだ。下級市民が持っているわけがないけれど、気休めになることを言うことしか、僕にはできないのだった。

 僕は、勇気を出して、かつて隔壁だったがれきを乗り越えた。がれきの山から見えるのは、もくもくと汚い煙を上げ、まるでガラクタの集積みたいに見える、下級市民の街だった。

 隔壁から一歩踏み出すと、異臭が鼻を突いた。まさしくごみ溜めのような下級市民の街を、ドキドキした興奮と恐怖にかられながら彷徨った。クリスマスは下級市民にもあるらしく、ごみ溜めのところどころに、シャコバサボテンやポインセチアを模した造花が飾られている。

「――あなた、どこから来たの?」

 知らない女の子が、僕に声をかけてきた。痩せて小柄で、髪も栄養不足なのか茶色っぽい。手には、見たことのない「ブラックサンダー」という包み紙を持っている。

「きみ……は? 僕は、ルーイっていう」

「あたしマリ。ここの近所に住んでる。あなたおなかのすいた顔してるけど、ルーイ、なんならこれ、食べる?」

 マリという少女は、その「ブラックサンダー」というのを差し出してきた。恐る恐る受け取ろうと手を伸ばしたとき、そのマリという少女の手に触れてしまった。

 人間の手ではなかった。

 これがサイバネティクス? いや、関節の継ぎ目とかはないし、硬くもない。なんだ? 僕はすさまじい恐怖にかられた。マリは僕の手にぽんとブラックサンダーとかいうなにかを乗せて、

「こっちこっち」

 と手招きした。ついていくと、小さなバラックがあった。

 バラックには昔流行した光ファイバーのクリスマスツリーが飾られ、小さな冷蔵庫があってマリはそこから食べ物を次々取り出した。

 たとえば「ウィダーインゼリー」。「カロリーメイト」。「青汁」。どれもおいしそうには見えない。でもマリは、ウィダーインゼリーはクリスマスのご馳走なのだ、と微笑んだ。

 そのご馳走を、マリは惜しみなく僕に渡した。なんで、と聞くと、

「だって上級市民に仕えることが下級市民の仕事だもの。あたし、いなばのカレーの工場で働いてるけど、食べたことないんだ。つまみ食いしようとしたら上司にこっぴどく叱られちゃった」と、マリは笑う。家の前を、なにやら顔が赤いものでおおわれた鳥が歩いている。あれはなに、と尋ねると、マリは「鶏。インドカレーのチキンはもともとあれなの」と教えてくれた。こんな生き物を殺して食べていたのか、と僕はぞわっとした。

 とにかくマリからもらった食べ物を抱えて持って行こうと、適当な紙袋を分けてもらい、それに入れる。セルを超えて家のあった場所に向かう――すでに、父さんは首をくくって死んでいた。セルが崩壊しただけで自殺した上級市民は、とても多かったようで、僕は悔しくて、悲しくて、ただただつらいと思った。

 一人、父さんを梁から降ろし、人が死んだときの作法にのっとって、胸のボタンを押す。まもなく死体回収車がやってきて父さんを連れていった。ただただむなしくて涙が出た。僕は、とりあえずブラックサンダーを食べてみることにした。

 びっくりした。下級市民がこんなおいしいものを食べていたなんて。父さんに食べさせたかった。そう思いながらブラックサンダーを、カロリーメイトを、ウィダーインゼリーを、青汁を食べた。青汁以外はどれもおいしかった。

 僕はふと考える。僕らの胸にボタンがついているのは、どういうことなんだろう。もしかしたら、下級市民のほうがこういうことに詳しいのではないか。家を飛び出し、薄暗い中マリのバラックに急ぐ。マリは鼻歌でジングルベルを歌いながら、カロリーメイトをかじっていた。

「マリ、君なら知ってるよね?」

 僕が戸口でそういうと、マリはぽかん顔で僕を見た。

「なんで、僕ら上級市民と、君たち下級市民が違うのか」

「……あたしには、あんまりよく分かんない……けど、ヒミコさまなら分かるかも」

 と、マリはカロリーメイトを食べ終えて、床下のマンホールをぱかりと開けた。むっと異臭がする。マリはそこをはしごで降りていく。僕も続く。

 いちばん底について、マリは明かりのない下水道で

「ヒミコさまー」と声を発した。向こうからなにかきらきら光るものが近寄ってくる。女の人だ。それもけた違いに、美しい人。

「なに用かえ、マリ」

「あのっ。上級市民と、下級市民は、なにが違うんですか」

 僕がそう尋ねると、ヒミコさまは少し考え、

「レイ・トーコを知っておるな? 上級市民の子よ」

 と訊ねてきた。レイ・トーコ? そんなの知りません。そう答えると、

「いまは「マザー」と呼ばれておるのだったかの。セルの街の上に浮かぶ、意志ある冷蔵庫じゃ」

 と、ヒミコさまは答えた。

 意志ある冷蔵庫。冷蔵庫って食べ物を冷やすアレだよな。意志あるってどういうことだ。たしかにマザーは四角かったけれども。

「あれは、完全な己の肉体を求め、上級市民の体を培養槽とし、己の肉体の部品を作っておったのじゃ。上級市民が死ねば、必要なパーツを回収し、残りの肉体は培養液にもどされる……ああ、力が切れてしもうた」

 ヒミコさまは手にしていたたらいで下水の水を汲み、頭からかぶった。あまりの異臭に吐き気がする。それを必死でこらえて、話の続きを待つ。

「マザーは、もう必要な部品を揃えたのじゃよ。それで、上級市民――バイオロイドは、不要となった。それゆえ隔壁をこわしたのじゃ」

「では、マザーは人の形になっておりてくると、そういうことですか?」

「そういうことじゃ。なによりも完全な人間になってな。それは止めねばならない。マザーは、この世界を乗っ取ろうとしておるのじゃよ。我々下級市民は打ち滅ぼされ、世界はマザーのものとなる」

「……そんな」マリが呟く。

「おぬしにしかできぬことじゃ、ルーイよ。マザーを止めてくれ」

「え、な、なんで僕の名前を」

「この世界の汚いものがすべて流れるこの下水は、この世界のすべてを知っておるのじゃよ」

「では、マザーに世界をわたす前に、マザー、つまり冷蔵庫をこわせと――そういうことですか?」

「そうじゃよ」ヒミコさまは笑った。

「いまマザーはどんどん北に向かっておる。しかしその速さは微速前進といった速さじゃ。おぬしの足なら追い付けよう」

「わかりました!」

 僕はヒミコさまにお礼を言い、マリにもありがとうと伝え、下級市民の街を出た。北に向かって歩き出すと、向こうに冷蔵庫のようなものが浮かんでいるのが見えた。氷を噴射している。

「まてーッ! 冷蔵庫ーッ!」

 そう叫ぶと、冷蔵庫はぷるぷると震えて、すうーっと降りてきた。

「おまえはなぜ わたしが れいぞうこだと しっているのか」

 冷蔵庫――マザーから聞こえたのは、女の子の声だった。

「下級市民の街で聞いた。下級市民を滅ぼすつもりだろう」

「それに こたえる ぎむはない。なぜ わたしを れいぞうこだと」

「下級市民の人たちから聞いたんだ。マザーは僕ら上級市民を、ただのパーツ培養槽として育てて、必要なパーツを揃えたから、世界を自分のものにしようとしているって」

「――すておけぬ。そもそも なぜおまえは いきている。じょうきゅうしみんは みな かくへきが こわれたときに しぬようにできているのに」

「――わからない。でもこれはきっと運命なんだ。僕は、お前を許さない。父さんを奪い、あまつさえ下級市民を滅ぼそうとしている。下級市民は、僕らなんかより、ずっとずっと人だ。それを殺してしまおうなんて、愚かしい!」

「おろかな じょうきゅうしみんふぜいが おもいあがるな」

 冷蔵庫は、静かに空から降りてきた。そして、僕の目の前で、ぴたりと静止した。

 唐突に激しい冷気が吹き付けた。身体がちぎれそうな、冷たい風。だんだんと意識がうすれていく。ブラックサンダー、おいしかったなあ……。

 次の瞬間、僕は不思議な空間にいた。

 真っ白で、やわらかいオレンジの明かりに照らされた部屋。向かいには、空色の髪をした少女。彼女は作り物めいた顔を、作り物めいた笑顔にして、

「人間ですらない上級市民が、あたしに何の用?」

 と訊ねてきた。僕は、

「あなたがレイ・トーコですか」と尋ね返した。

「そうよ? 歴史ある冷蔵庫の主人、レイ・トーコ。ここはわたしの冷凍室。いまは冷気は外に出てしまっているから、なにも凍らせることはできないけどね」

 レイ・トーコはいう。

「で、人間ですらない上級市民。なんの用なの?」

「なんで、なんでそんなむごいことをしたんですか。もうすぐクリスマスで、僕は家族と、いなばのインドカレーバターチキンを食べるのを楽しみにしてた」

「――昔はね、冷蔵庫ってもっといろんなものが入ってたんですって。玉子、牛乳、野菜、肉、魚、果物、お菓子――いまの冷蔵庫は、つまらないわ。もう一度、冷蔵庫が楽しかった時代に、戻りたいの。わたしは――生まれた時から、冷蔵庫だから。冷蔵庫に与えられるには、あまりにオーバースペックの電脳を与えられて、その電脳が自我を持ったのがわたしよ。わたしは偉大なコンピュータとして世界唯一の為政者となった。そして、もうこの冷蔵庫に縛られなくてもよくなる。この四角い体を、捨てられる」

「そのために、たくさんの人を殺したのか」

「上級市民は人間じゃないもの。わたしの作ったバイオロイド。あなたもそうよ?」

 想像はしていた。だけれどショッキングだった。

「エラーで、あなただけ生き残っちゃったのね」

 レイ・トーコは穏やかに笑う。

「きみを殺したい」

「殺せないわ。電脳内の存在だもの」

「なら、僕は電脳を破壊するしかない。冷蔵庫に支配されていたなんて、笑い話もいいところだし、僕は僕の父を殺した相手が冷蔵庫なら、その冷蔵庫をためらいなく破壊するだろう」

「――交渉は決裂」レイ・トーコがそういった瞬間、僕の意識は現実に戻ってきた。僕のしがみつく冷凍庫は空中に浮かび上がり、もうもうと冷気を吐き出している。僕は、冷凍庫のドアを開けた。古い冷蔵庫は、冷凍庫がてっぺんについていたのだと、学校で教わったからだ。

 ただ屠られるために飼われるなんてごめんだ。冷凍庫のドアを開け、その天井を引きはがす。複雑なコンピュータ部品がばらばら落ちてくる。これだ、この中にレイ・トーコがいる。

「レイ・トーコおぉ!」

 僕は叫び、レイ・トーコの潜む電脳を破壊しようとした、刹那。冷蔵庫のドアが激しくばたばたと動いて、僕はバランスを崩して落ちそうになった。死ぬ。これは死ぬ。結局冷蔵庫から、人を救うことなんてできないんだ。マリも、ヒミコさまも、みな、この冷蔵庫が手に入れた理想の肉体に、破壊されるだけだ……。

 ブラックサンダー、おいしかったなあ――そんなことを考え、でももう冷蔵庫にしがみつく力もなく、僕はゆっくりと落下していく。ああ、死ぬんだ。バイオロイドというのは、地面に落ちたら内蔵をぶちまけるのではなく、体内の培養液をぶちまけるんだろうか。

 がしっ、と、誰かが僕の落ちていく足を掴んだ。

 顔をそちらに向ける。そこにいたのは、翼をもつ少女。レイ・トーコ。なんの気まぐれだ。

「わたしのほうが、気持ち程度早かった……わけだ。きみは、恐れることなく冷蔵庫を、マザーを破壊しようとした。その気持ちだけでも、わたしは、きみを救いたい……」

 敵に救われるなんて、と思って、僕はふと――思った。毎朝、空にモノリスのごとく立つ、マザーを礼拝した。それなのにキリストの誕生日であるクリスマスを祝っていたのは、マザーが、よいものとして勧めたから。

「きみは、自分のなかに、クリスマスケーキや、本物のチキンを、入れたかったのかい?」

「そうよ? いなばのインドカレーバターチキンなんかじゃなくて、本物の、丸焼きのチキン――ううん。丸焼きの七面鳥を、入れたかった」

 七面鳥がなんなのかはわからなかった。けれど、レイ・トーコは、レイ・トーコを破壊しようとした僕を、助けた。それだけで、結論としては十分だった。

「トーコ、僕と、マリと、三人で暮らさないか?」

「すてき。わたし、そういうの憧れてた」

 トーコは微笑んで、僕を地面に降ろしてくれた。マリがどういうのかは分からないけれど、これは、冷蔵庫に支配されたディストピアの、終わりだった。

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ディストピアの冷蔵庫 金澤流都 @kanezya

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