どんなに強く握ってもいいよ

梧桐 彰

どんなに強く握ってもいいよ

「ね、邦彦、もう一回いいかな」

「えっ、まだやるの?」


「うん。お願い。したいの……」

「うーん、はぁい……」


 この欲しがりさんめ……


 向かい合う。目の前に立つ武道着姿の女子が、両手をすっと前に伸ばした。僕はその右手首を左手で、左手首を右手で上から握った。女の子に触れると思うと、まだどうしてもぎこちなくなる。恥ずかしい気持ちを隠して力を込めた。


 僕は邦彦。この弓子の一応、彼氏。なのだが、僕たちは遊園地や水族館へデートに行ったことはない。ほとんど毎回ここだ。


 裸足である。そして畳の上だ。僕は柔道着に白帯。弓子は柔道着に加えて黒の袴をはいている。この武道場が僕たちのデートスポットだ。ちなみに今は僕たち二人しかいない。道場主のおじいさん先生は「ケガしないようにね」と言って、さっき晩御飯を食べに行った。


 大東流合気柔術。


 それが僕たちがやっている武術で、これはその稽古の一つだ。大東流は合気道を作った人もやっていた、ずーっと昔からある格闘術らしい。パンチされたりつかまれたりした力を利用して投げ飛ばす技が多いけど、柔道や合気道とは違っていて、打ち返しながら倒す感じだ。


「つかんだら遠慮しちゃダメだからね! 押し倒してめちゃくちゃにするつもりで頼むよ!」

「う、うん……」


 毎回毎回、この指示にドキドキする。これ、本当に天然なんだろうか。ねらってるなら演技力高すぎだ。


 僕がこの道場に通うようになったのは、つい二か月前の年始からだった。中学に入って、弓子と帰宅部どうしだねって話してて、一緒に帰るようになって、去年のクリスマスに告白して、いいよって言ってもらって、彼女ができたって舞い上ろうとした直前、唐突な条件を出されてしまった。


「一緒の道場に通って、一緒に練習してもらいたいの」


 スポーツは得意じゃないよって言ったけど、そんなに運動神経はいらないよって、聞いたこともないこの道場に連れてこられた。狭い部屋で畳はぼろぼろ、門下生はおじいさんと小学生ばっかり。友達はみんなバスケやバレーに行っちゃって、中学で残ったのは弓子だけだったらしい。


 そしてその初日に、そのセリフを最初に言われた。


「全力で、あたしの手首握りしめて」

「なんで?」


「投げるから。邦彦のこと」

「なんで?? やだよ!!」


「大丈夫、頭打たないように投げるから。授業の柔道で受け身習ってるでしょ?」

「同じでいいの?」


「違うけどいいの! つかんで!」


 おずおずと両方の手首を握りしめる。と、瞬間。


「わっ?」


 両足が浮かされたみたいになって天井が見える。僕はころんと転がされた。


「うーん」


 弓子がつまらなそうな顔でつぶやいた。


「すごいな」

「ダメだな」


 綺麗に投げられたと思ったのに。不思議そうに弓子を見た。


「全力で握って。絶対にあたしが動かないように」

「こ、こう?」


「もっと強く!」

「強くやってるよ!」


「もっと強く! 身動きできないように無理やり押さえつけて!」


 なんかやらしい事してるみたいな気分になってきた。力が抜けて、真っ赤になって手を離した。


「それで全力? 顔赤いけど」

「いや、その……」


「もう一度してくれる?」

「う、うん」


 深呼吸した。おちつけ、おちつけ、これはこういうスポーツなんだ。興奮してちゃ変態だ。思って、わけがわからないまま弓子の手をつかんだ。ぐっと抑え込んで下へ。


「うーん……っ!」


 弓子がさっきと同じように技をかけようとしたけれど、体重をぐっと乗せてあって今度は動かない。十秒くらいお互いに動きながらこらえた。


「くっ……んふっ……ああっ……」


 落ち着け。落ち着くんだ僕。


「くっ……殺せっ……!」

「僕はブタか」


「へんたい! さいてえっ! あたしのことそういう目で見てたの?」

「ひどくない??」


 とにかくあれこれ工夫していたようだけれど、結局僕は転ばなかった。


「やっぱりダメかぁ」

「いやでも男子と女子だよ。弓子、僕より小さいし。本気で力入れたら無理で当たり前じゃない?」


「それができなきゃ武術じゃないんだよー。ねえ、邦彦おねがい。彼女になるからここ通ってよ。中学生も高校生もいないんだもん!」


 こんな告白の返事、聞いたことがない。僕は弓子が好き。弓子は大東流合気柔術という、クラスの誰も知らない武術が好き。その日から僕は連日、この天然羞恥プレイに付き合うハメになった。


 そんな感じでそろそろ三月。


 先生に習うようになって、弓子のやっている技が合気揚あいきあげっていう基本で極意だっていうことも、空手みたいな打ち技や柔道みたいな組み技などなど、いろんな技術があるのもわかった。


 そして練習していくうちに、やっぱり弓子が僕を投げるのは難しいような気がしてきた。先生はたしかに僕が全力でつかんでも軽々と投げたけれど、それはやっぱり先生が男で、筋肉もしっかりついているからのように思う。弓子の細い手と全然違う。


 結局、今日まで弓子は全力の僕を投げることはできなかった。道場の床に足を投げ出して座り、弓子がはーっと天井を向いた。


「ダメだぁ。袴、似合うようになりたいのにな」

「え、似合うよ。可愛いのに」


「そうじゃなくて! 上手になりたいってこと!」

「あ、ごめん」


 大東流は殿中武芸っていうお侍さんの武術なので、始めてすぐ袴をはいてもいい。けど、ほとんどの人は初段になってから買う。弓子は一級で袴をはいていて、それを早かったって思ってるらしい。どこの世界にも、その中でしかわからない空気がある。


「あーもう、なんでできないかなー」

「どうしてもやりたいの?」


「やりたいの! やりたいやりたいやりたい!」


 くりかえすが、誤解を招きそうな表現はつつしんでいただきたい。


「もう終わりにしようよ」

「やだ、ラスト一回!」


 勢いよく弓子が立ち上がった。僕も姿勢を正して向かい合う。


「じゃ、最後まで手加減はしないからね」

「よーし」


 ぐっと弓子の両腕を握りしめる。もういいや。そろそろ慣れたし、もう恥ずかしくない。弓子の好きなことなんだ。僕も好きになろう。


 思って力を込めた。ふっと顔を前に向けると、正面に弓子の目。真剣な、集中した表情だ。そうだ、僕は、この弓子の目が好きだったんだ。思った瞬間、ふわっとかかとが浮いた。脇に差し込んだ両手の指が自然に体を崩していく。僕は大きく一回転させられた。バン、と畳が遅れて響く。


「あれ、今のできてたんじゃ」

「おおー」


 立ち上がる僕の両手へ、ぱーんとハイタッチ。うまく力が抜けて綺麗にできたみたいだ。自主練習を終えて、僕たちはめでたく外へ出た。暗い街路を、僕たちは制服で家にむかった。そこで、ぎゅっと弓子が僕の手を握った。初めてだった。


「ん? いいの?」

「いいよ。彼氏でしょ」


 うん、と素直に首を縦に振った。自分で言ってるのに恥ずかしくなったみたいで、弓子はぷいっと前を向いた。


「ね、邦彦。どんなに強く握ってもいいよ」

「投げない?」


 渋い目をされた。ゴメンって苦笑い。ぎゅーっと握って少し力を弱めると、今度は弓子がぎゅっぎゅって握ってきた。


「どんなに強く握ってもいいよ」


 今度は僕が言った。弓子が目を大きくした。


「投げない?」

「投げないよ」


 答えると、弓子がきししっと歯を見せた。


 ほんのりと植物の香りが鼻の奥に届いてきた。もうすぐ春が来る。


 梅が終わって桜の季節が来る。弓子と大東流合気柔術と付きあって、初めての春だ。


【了】

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