影裏の妃と花と蜜
八島清聡
第1話 The last survivor is the winner......?
私が、当時は王子であられたファラオの妃の一人に選ばれたのは十二の時でした。
親兄弟は大変な誉れと喜びましたが、当時何がめでたいのかさっぱりわからなかったことを覚えています。
慣例に従って、妃となった貴族の娘は八人。王は一度に八人の妻を持たれたのです。
妻たちの中にも確固たる序列がありました。第一の妃、つまり正妃は、私より二つ年上のネフェルタリ様でした。天空の女主人、女神ムトに愛されし人。その美貌は光り輝くようで、私もうっとりと見惚れるほどでした。
彼女だけは、王に選ばれた妃でした。王はひと目でネフェルタリ様に夢中になってしまわれ、ネフェルタリ様も王の求愛を受け入れました。私を含めた他の七人の妃は、お二人の栄えある結婚のお飾り、付属品にすぎなかったのです。
私はネフェルタリ様の下位に置かれ、多くの女官や婢と共に後宮で暮らすようになりました。
後宮といえば、王一人を巡って女たちが反目し合うところ……と思われるかもしれませんが、私の場合は少し違いました。ネフェルタリ様とは親戚であり、年下だったこともあって大層かわいがられたのです。私は毎日のようにネフェルタリ様のお部屋にご機嫌伺いに行き、一緒に食事やお菓子をいただき、暑い日中は水浴びをし、疲れると抱き合って昼寝をしました。
ネフェルタリ様は、類まれな美貌に相応しい美しい心の持ち主でした。聡明で慈悲深く、高貴な身の上ながら明るく気さくで、いつも笑顔の絶えないお人柄。王が格別に愛されるのも無理からぬことでした。
私は敬愛の念を込めて、ネフェルタリ様を「お姉さま」と呼びました。私たちは同じ夫を持ちながらも、本当の姉妹のように慈しみ、心から信頼しあっていたのです。
日が暮れると、宦官たちが王のお召しを告げに参ります。ネフェルタリ様が王のお傍へ行ってしまわれると私は急に心細くなり、寂しさから涙をこぼすこともたびたびでした。
侍女たちに促されて自分の部屋に戻るものの、夜が明けるころには贈り物を持ってネフェルタリ様のお部屋へ行き、じっとお戻りを待ちました。
ネフェルタリ様が戻ってこられると、身を清めるべく湯浴みをされます。私もお供をして浴室に入り、おからだを洗うお手伝いをしました。玉のような肌をつたう水滴をなぞり、自らぬか袋を持ってお肌を磨いたのです。
お湯からあがると、冷たいお水に瑞々しい果実をしぼって果実水を作りました。最後にほんの少し蜂蜜を混ぜて溶かし、ネフェルタリ様に差し上げました。
ネフェルタリ様は、当初は美しい眉を顰め、
「イシス、なんとはしたないこと。婢のような振る舞いをするなんて。あなたが仕え、お尽くしするべきは王であって私ではありませんよ」
とたしなめられたのですが、私は頑としてお世話を続けました。
お飲み物を召し上がって少し休まれた後は、寝台に横になっていただき、玉肌に香油をすり込みました。香油を垂らし、なめらかなお背中に頬をすり寄せ、戯れに口づけるとネフェルタリ様はくすぐったいのか声をあげて笑いました。お返しとばかりに私を抱きしめると、額に接吻してくださいました。
「ああ、イシス。イシスネフェルト。女神の名を冠するかわいい妹……」
強く抱きしめられると、私のからだは火がついたように熱くなりました。脳をとろかすような甘美な熱。優しい声、密やかな吐息。伝わってくる心の臓の音。
美しい人。美しい花。何もかもがかぐわしい、この地上でもっとも貴い人。賤しい婢に触れさせるなんてとんでもない。
やがて、ネフェルタリ様は王の寵愛に応えるように、幾人も御子をあげられました。
ですが、ご懐妊されると体調を崩されることが増えてしまい……。お部屋に閉じこもって一日中寝て過ごされることも多く、私は心配で頻繁にお見舞いに伺いました。
そのうちに、私はネフェルタリ様の憂鬱は、体調からくるものだけではないことに気がつきました。それは王を愛するがゆえの悲しみでした。
懐妊するとその妻は御伽の役目からは外されてしまい、王の寝所には別の女人が侍ります。
後宮には、正式な妻だけでも四十人以上、側室を含めれば百人以上の女たちが部屋を賜って暮らし、婢や女奴隷を含めると膨大な数にのぼります。
妻妾の数は、けして王の意志ではないでしょう。けれども大エジプトを統べる者として、王は地上のいかなる勢力にも平等に接しなくてはなりません。隣国の姫、国内の部族長の娘や宰相の妹、大神官の養女を娶り、献上される異国の女奴隷たち……若く美しい娘たちが次々と後宮に入ってきます。
第一の妃で、世継ぎまで産んだネフェルタリ様の地位は盤石です。ですが、私を除く妃たちはネフェルタリ様が懐妊するたびに、これを機会と王に取り入ろうとします。ネフェルタリ様も正妃として、王の振りまく愛には寛大であらねばなりません。
私は、いつもの果実水を作りました。蜂蜜は気鬱の病にも効く薬です。少し多めに入れて差し上げると、ネフェルタリ様は全て飲んでくださいました。
それから私をじいっと見つめ、意を決したように仰いました。
「イシス、これは私からのお願い……いえ、命令です。今夜からはあなたが王のお傍へ行くように。心安い妹が御伽を務めるならば私も安心です。王には私から進言しておきます」
私はその場に両手をつき、後宮の女主人に深く額ずきました。
「仰せの通りにいたします、お姉さま」
私は、その時、本当に嬉しかったのです。王のお傍に行けることが、ではありません。
ネフェルタリ様のお役に立てることが、私を頼ってくれた喜びで胸がはち切れそうでした。
その夜から、私は王に召されるようになりました。閨では、期待にそえるよう懸命に務めを果たしました。その結果、第一王妃に次ぐ寵愛を受ける妃として、第二王妃の地位を与えられたのです。
二人、三人……と御子をあげるたびに王のネフェルタリ様への寵愛は増していかれました。
しかし、あまりにも深く激しい愛に押し潰されるように、ネフェルタリ様の心身は徐々に弱っていかれました。お腹の御子に栄養を持っていかれるのでしょう、出産を経るたびに元々華奢だったおからだは痩せてゆきました。私は親族や家来に言いつけて精のつく食べ物や薬を集め、献上しました。食欲がない時は、果実水を作って飲んでいただきました。果実水に入れる蜂蜜の量は、少しずつ増えていきました。
――私が後宮に入って、十年以上の月日が経ちました。
ネフェルタリ様は数回の懐妊と流産を経て、第五子を出産されました。
御子は無事に産まれて乳母の手に委ねられましたが、母体は体力が尽きてしまい……起き上がることもできない日々が続きました。お顔はすっかり血の気が失せて、美しい瞳の内に青黒い翳りが見えました。私はつきっきりで看病を続けました。
ある日の午後、ネフェルタリ様はお目覚めになると、傍らの私に優しく微笑ました。
「ああ、イシス。優しい人。ずっと傍にいてくれたのね」
「……王をお呼びして参ります」
と立ち上がりかけたのですが、ネフェルタリ様は手を掴んで制止されました。
「いいの。もう、いい。王にお会いしても、この体たらくではあの御方の愛を受け止められない。愛せば愛するほどにあの方は遠くなってゆく……。あとは重なる月日の不安ばかり。あなたも同じ人を愛しているからわかるでしょう?」
私は黙って頷きながらも、心中では首を横に振りました。私は違いました。生ける神であるファラオを畏れ敬ってはいても、愛しているわけではなかった。私は王に抱かれながらも、王の大きな手の先の、彼が唯一愛してやまない柔肌を夢見ていたのです。
ネフェルタリ様は深々と息を吐き、静かに言いました。
「疲れました。もう、笑うことに疲れてしまったわ。少し眠ります。果実水をちょうだい」
私はのろのろと立ち上がり、水差しや果物の入ったカゴが置かれた卓の前に行きました。
金の杯に水を入れ、ナイフで果実を幾つも切って搾り……そして、覚悟を決めて懐に忍ばせていた安眠のための薬を混ぜました。市井の薬師に調達させた薬です。本来は、不治の病に侵されて苦しむ老僕に与えるつもりでしたが……。
最後に蜂蜜をたっぷりと入れると、ネフェルタリ様に恭しく杯を差し出しました。
ネフェルタリ様は、杯を受けとるとひと口飲み、
「今日はやけに甘いのね」
と首を傾げられましたが、時間をかけてゆっくりと飲み干されました。私の最後の忠義が、乾いた唇に吸い込まれていきました。
そして、かの人は全盛の美を保ったまま、安らかな眠りにつかれたのです。
……ご寛恕くださいましね、お姉さま。
この世の何よりも美しい人。美しい花。私は光り輝く至高の花に、蜜を運ぶ蜂でありたかった。
けれど、今は違います。私は死して尚輝くあなたの名誉を守り続ける。残酷な月日に容色衰えてその身を遠ざけられるような、賤しい婢に寵姫の座を奪われるような度し難い屈辱を、あなただけは味わってはならなかった。そのような辱しめは、一切合切私が受ければいい。
私はエジプトの第二王妃・イシスネフェルト。
後宮を統べる永遠の二番手。王の真の伴侶にはなれず、この世でもっとも愛しい人の一番にもなれなかった……。
いずれは、砂漠を舞う砂ぼこりのように忘れ去られるべきもの。
でも、この愛に後悔はありません。真実を知る私を、何ものも傷つけることはできません。
たとえ王であっても、神であっても――。
――ネフェルタリが亡くなった後、イシスネフェルトがラムセス2世の第一王妃となった。
ラムセス2世の長い治世が終わると、イシスネフェルトの産んだ王子が王位を継いだ。
アブ・シンベル小神殿の立像をはじめ、太陽王のネフェルタリに対する深い愛情は疑うべくもないが、イシスネフェルトは現在まで墓すら見つかっていない。
影裏の妃と花と蜜 八島清聡 @y_kiyoaki
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