一番のライバル

かみたか さち

奴の背中は いつだって俺の少し前

 スパイクが土を蹴る。隣のレーンに響く足音。ラインまであとわずかのところで、肩先を風が過ぎた。

 ストップウォッチが止まる電子音が二回。


「くっそぉ。あと少しだったのに」


 息を荒げて唸る俺の前で、隼人は涼しげな顔をして笑った。


「甘いな、勇哉。俺に勝とうなんて、十年早い」

「言ったな。最後の連陸までに、絶対お前を抜かしてやる」


 ビシッと指差した先に、奴はもういない。すでにスタートラインへジョグしている。まだ何本だって走れる余裕ぶりだ。


 やっぱり、奴には勝てねぇ。


 苦々しく思う目の端に、俺たちの走り込みをフェンスにかじりついて凝視している女子生徒が見えた。


「誰が目当てだ?」


 隼人に追いついて、肘で突く。奴は彼女を一瞥し、興味なさげに肩を回した。クールだな。


「お前、そういうの興味ないの」


 俺は、落ち着かないんですけど。


「ないわけじゃないけど」

「あ、もしかして」


 先月の大会で、奴が目で追っていた他校の女子を思い出す。


「第三中の……とか」


 途端に、奴の頬がカッと赤くなる。


「んなんじゃなくて」

「図星だな」

「彼女のことは、選手として認めてるだけで」

「いいねぇ。青春してて。まったくこれだからリア充は」

「違うって」


 突きまわしすぎて、二人一緒に顧問に叱られる羽目になったのは、言うまでも無いだろう。

 再び、奴と並んでスタートラインにつく。

 笛が鳴った。

 今度はスタートから引き離される。

 ったく。走りながらじゃ、舌打ちすらできねぇ。

 俺はずっと、奴の細い背中を見ながら走っていた。




 笛が鳴る。スパイクが土を蹴り、足音が迫る。

 中学と違って、高校の部活は厳しい。タイムが伸び悩む中、我武者羅に走る。

 ゴールラインを越え、電子音が鳴った。


「おー。今回はいいよ、勇哉」


 手の内のストップウォッチを見て、隼人が笑った。クリップボードに挟んだ記録票に書き込む。


「この調子なら、部内一位は確定だな」


 よかったなと叩かれる背中に、違う痛みが走る。


「いや、俺は、二番手でいい」

「何言ってんだよ。うちは実力主義だろ。一年でも先輩に遠慮することないって」


 そういう、ことじゃない。

 曖昧に笑って、スタートへ向かった。

 奴が言うように、百メートルでは先輩にも負けないタイムが出せるようになった。ずっと、中学時代に地区大会で大会新記録をとった瀬尾隼人と走ってきたから獲得できた座だ。

 だけど、嬉しくない。奴と対等に勝負して勝ち取った一位でなければ、喜べない。

 むしゃくしゃする。

 隼人は、次の部員の計測、フォームの確認、アドバイスに忙しい。マネジメントの正確さに、コーチも奴に信頼をよせている。

 奴がそれでよくても、俺の気持ちは収まらなかった。


「隼人」


 部活が終わり、耐え切れなくなった俺は、傷つけることを承知で奴を呼び止めた。


「一回でいい。勝負してくれ」

「いや、俺は」

「事故の後も、ずっと走ってはいるんだろ?」


 案の定、奴は一瞬険しい顔つきになった。

 中学生最後の大会直前。奴は交通事故に遭い、肩を負傷。思うように腕が振れなくなり、選手として走ることを諦めた。


「頼む」


 深く、頭を下げた。頭上から、大きなため息が降ってくる。


「いいよ」




 用意が整うまで、奴はグラウンドを二周ほどジョグした。話を聞きつけた部員たちが、垣を作る。


 笛が鳴る。

 スタートから中盤までどうにか食いついた。俺のほうが頭一つ分背が高い。その分足だって長いはずなのに、どんなに速く動かしても並ぶのが精一杯だ。

 思うように腕が振れなくても、奴が満足できる走りが出来ないだけで、俺たちと比べりゃ十分速い。

 だけど、負けてたまるかっての。

 歯を食いしばり、全力を出す。

 フッと、隣の気配が消えた。耳を掠める悲鳴に、数メートル駆け抜けて振り返る。

 右半身土にまみれた隼人へ、先輩が駆け寄っていた。


「まさか」

「わざとじゃないって。やっぱ、いきなり勝負とか、足がもつれるや」


 苦笑し、埃を払い立ち上がった奴は、軽くその場で足踏みをした。


「ん。安心しろ。捻挫とかしていないし。なんて顔してんだよ」


 あっけらかんと背中を叩かれ、自分が硬直していたことに気付かされた。もう一度、さっきより軽く叩かれる。


「悪いな。勝負できなくて」


 もう、いい。


 擦り傷を洗うのを手伝いながら、ずっと靴底の溝に嵌った小石のような問いをぶつけた。


「お前、ほんとうにもう、走らねぇのか。腕振れなくったって、それなりにタイム出せるのに」


 隼人は、困ったような、悲しいような顔をした。酷な問いかけだよな。事故の直後は相当荒れていたらしく、ようやく落ち着きを取り戻した時だっていうのに。


「自分が納得できないと、走ることも嫌いになりそうだからね。ごめん、トップの重圧、押し付けて」


 言われて、気がついた。

 俺のタイムを押さえつけていたのは、そいつだ。

 周りの期待。

 自分との闘い。

 ずっと二番手で奴の背中を追いかけてばかりいた俺は、ひとりぼっちでだだっ広いグラウンドに放り出されたみたいに不安だった。


「ったく。そんなことまでお見通しかぃ。立派なマネに育ったな」

「どうも。けど、中学で入部したての時は、勇哉の方が速かったんだぞ?」


 そんなこともあったな。


 蛇口が、キュと締まった。

 湿った隼人の拳に、胸を突かれた。


「とりあえず、新人戦だな。俺も、ベストが出せるようにサポートするから」


 やっぱ、こいつと走りたい。

 湧き上がる願望を押さえつけ、俺はサムズアップで答えた。




「On Your Mark」

 真っ青なコースに手をつく。目を閉じた。

 観客のざわめきが遠ざかる。


「Get set」

 腰を上げ、号砲を待つ。


 鼓膜を震わせる炸裂音で開いた目の前に、細い背中の幻像が浮かんだ。

 今でも奴は、一番のライバルだ。今日こそ抜いてやる。


 膝を伸ばす。

 耳元で風が鳴った。いいスタートだ。

 わずか先を行く幻の背中を追う。


 少なくとも、自己ベストは出せそうだ。


〈了〉




 

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一番のライバル かみたか さち @kamitakasachi

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