黒き嵐の子

久遠マリ

いつまでも、ついていきたいお年頃


「帰りたいですねえ」

 左側から聞こえてくる声。おれは、左隣を行軍する男を見やった。

 黒毛の馬の背に騎乗するのは、鴉の羽根のような色をした艶のある髪を長く伸ばし、後頭部で纏めて晩秋の風にさらりと流す美丈夫。闇に溶けそうな目がこちらを見ていた。目が合う。そうして、彼は欠伸を一つ。

「そう思いませんか、レム。貧弱な南の者など、千の昼隠居が蹴散らしてくれるでしょう。私は眠いです」

「……滅多なことは口にするものではない、慎め」

 取り敢えず形だけの諫めを返して、おれはこっそり嘆息する。仮にも第一騎馬隊一千人を率いる将軍をつとめる身として、士気を下げるような部下の物言いを咎めるのは当然の行いであるが、実のところ、心の底から同意していた。苦い言葉だけでは足らぬかと思い、付け加えるのも忘れずに。

「おう、それよりもお前ら、帰ったら雪待亭で火酒の酌に付き合え。おれの奢りでな」

 おれの声はよく通るから、こっそり喋る時は腹も喉も使ってはいけない。抑えた声で囁けば、いつだって、何歳だって、他人の金で酒を飲みたいお年頃なのだろう、部下たちの顔は喜色で満ちた。

「いいですねえ」

「身体の芯から温まりそうだ!」

「夜番の後の火酒は最高だよなあ、つまみに岩魚の炙りと塩をかけて、一口食って、そのあとでちびっと、な」

「うーん、考えただけで唾が湧いてくる」

「まあ、これ、夜番どころか実戦だけどな!」

「羚羊の炙り蒸しの薄切りとかもいいぞ」

「それか、ごろっごろした野菜のたんまり入った煮込み」

「やめろよ、腹が減ってきた」

「さみいなあ、雪待亭であったまりてえ」

「貸し切りですかねえ、私、全部終わったら雪待亭までさくっと走ってきますね」

「さすが、おれらの野兎、ヒュンメちゃん」

「取り敢えず生きて還るぞ」

 おう。むくつけき戦士どもは、男も女も老いも若きも、皆、こっそりと剣を掲げた。

 昼隠居と名高い白梟の部隊に続いて、おれたちは、月のないこの夜に、強襲をかける。とろりと濃い漆黒に紛れて、蹄の音を消す特別な蹄鉄を装備した騎馬隊は、既に敵陣の灯りを見付けていた。

「でも、ハリエンジ様、それ、まずいやつじゃないですか。おれ、この戦争が終わったら結婚するんだ、みたいな……故郷で女房が待っている、腹に子がいてもうすぐ産まれそうなんだ、とかもそうですよね。帰ったらおれの奢りで酒、って……」

「おい、やめろよ」

「大丈夫だ、レムロク・ハリエンジ様は将軍様だ。暴風なんて言われるタリマータ・アント=ライデン様を部下にする将軍様だぞ。しかも、軍師のラムハト・シーヴィ様とも軍議にて対等にやり合えるお方だ」

 どうにも背中がむず痒い。鞍の上でもぞもぞと尻を動かすと、隣から、追い打ち。

「ですって、レム」

 左隣のタリマータ・アント=ライデンは、おれに向かって片目を瞑ってみせた。かなりの色男である。

「……おれは、マータの方が強いと思うんだがな」

「まあでも、私は将軍様には敵いませんからねえ」

 嘘だろ。

 つい数日前に模擬戦でやりあったが、タリマータは非常にやる気がなさそうな顔で、部下の騎士どもをしなやかな身体が有するばねで薙ぎ払い、欠伸をしながらおれと打ち合った。手加減されていたかどうかはわからないが、何回も落とした欠伸のせいで滲んだ視界がおれに有利に働いたのだろう。タリマータは足元の小石を踏みつけて、少しだけよろけた。その隙をつくことが出来たのは、とてもよかった。おれは負けそうだったからだ。

「戦場なら死んでいました」

 彼はそう言ってにやっと笑っていた。その後で、こうも言った。

「将軍なんて面倒です。私、指揮するの、気が向きません。重圧じゃないですか。大体ね、力が強いから、実戦に向いているからって、一番上に据えるの、間違っていると思いませんか、レム。こういうのは、レムみたいな、皆に好かれる人がやるべきなのですよ」

 ねえ、そうでしょう、昔から。彼はそう言って笑った。

 おれとタリマータは幼馴染だ。おれはただの平民で、タリマータはこの国の皇子であるナランジュ・レルテ=ライデン様のいとこ。ただ、屋敷の敷地がおれの家の隣だっただけで、どうしてここまで一緒に来てしまったのかは、未だに謎である。

 二十年以上前のタリマータは、おれと遊び仲間の――平民の子供たちの後を、上品な振る舞いをしながらも興味津々で追いかけ回してきて、何でもかんでもおれたちの真似をする子供だった。すごく邪魔だったが、邪険にすることも出来ず。最初に、お前も来いよ、と声を掛けたのは、他の誰でもないおれだったから、せめて責任を取って面倒を見なければと思ったのだ。おれが地下水路に潜ればついてきて下水に落ち、学び小屋へ通えばついてきて逆に教師に学問を教え、騎士学校へ通うと言えば皇族の許可を得て騎士となる。何でも真似をしたがった。だが、全てにおいて誰よりも実力を伸ばしていた癖に、タリマータは決して、おれよりも先に行きたがらなかった。賢いのか馬鹿なのかよくわからない子供だった。が、嫌いなわけではなかった。

 寧ろ、どこまでもついてくるあたり、平民に付き合うくらい根性のある面白い存在だ、と思っていた気がする。

 何となく、そんなことを思い出した。


 白梟は南の軍隊が備蓄していた糧食を筏に括りつけて大河に流し、河口に建設されているおれたちの都市まで流してしまった。水を使う為に築かれた水路は、白梟の運ぶ籠に乗った土術師が全部崩した。その土術師はたった五名しかいなかったのに、編み出された力は、森から切り出された山毛欅の丸太を動かして、脚を生えさせ、軍陣を蹂躙した。音もなく白梟の鋭い鉤爪に攫われる兵士たち。さながら悪夢。

 そのせいで油断していたのかもしれない。

 或いは、おれの中に驕りがあったのかもしれない。

 白梟から逃げているように思えた敵軍兵士たちが、一斉に槍を構えて、騎馬に応戦してきたのだ。

 敗走を追って後は適当に戦果を上げるのみと思っていたおれたちは、突然の反撃に面食らった。

 馬上だであるからと安堵していた仲間たちが次々と引き倒されていくのを助けているうちに、おれも落馬した。幸い馬に蹴られることはなかった。蹄が腹を蹴破ることもなかった。

 だが、起き上がった時におれを囲んでいたのは、何十本もの槍の穂先。

「アルクナウ=ライデン皇国将軍、レムロク・ハリエンジ殿とお見受けする」

 迂闊だった。部下たちに言ったことが嘘になってしまうのは心苦しかった。

「恨みはないが、我らが民と国の為、皇国の武を削ぎ、我らが未来への布石とさせていただく……恨め」

 しかし、国への想いが滲み出るその言葉は潔く、酷く哀しく、どこか心地好かった。おれは笑った。

「よい。存分に獲れ」

 その瞬間だ。

 音なき嵐が、踊る黒髪と白き翼を連れて、おれの戦場に到来する。その風の強さに思わず目を窄めた。狭い視界の向こうで、向けられていた槍が中程で全て落ちた。あちこちで上がる叫び声。飛び回っているのは白梟の一族の群れだ。

 将軍に続け、と、それらしく武勲を得られそうな掛け声。お前たちは動揺したのではない、と、誰かが軍の意識を変えた。

 そうして、すたん、と、地に穿たれる着地の音。すらり、と金属の擦れる音を残し、抜かれるは白銀の刃。

「――マータ」

「奢って頂ける機会をみすみす逃すわけにはいきませんからね」

 にやり。美貌の笑みは凄惨に、圧。敵、味方、関係なく。

 おれは、背中越しにこちらを振り返ったその美しいかんばせに、つい、見惚れた。

「……私が長らく二番目でいるのは、こういう時に、二番目だと油断させて、憧れの人を守る為ですよ」


お題「2番目」

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黒き嵐の子 久遠マリ @barkies

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