下座で目をつむり集中していると小寺二冠は対局十分前に現れた。どうもと頭を下げるとよろしゅう頼むと気さくな返答で微笑まれる。

 振り駒の結果先手を得た響は初手7六歩と角道を開ける。対する小寺は時間を使わず3四歩と応じ、響は一呼吸の間を置いた。

 対小寺戦に考えてきたプランの原則は【飛車を振らない事】だ。小寺は居飛車を基調とした変則的な力戦派であり、相居飛車戦において見せるその独特の構想から棋界でも屈指の異才を放つ存在として知られているが、その陰に隠れる形となっている対振り飛車芸にも定評がある。相穴熊などの一般的な対抗形を志向するのではなく振り飛車側に一方的に穴熊に組ませてから盤面全体を制圧して勝つという小寺特有の指し回しこそがそれであり、小寺の対振り飛車穴熊の勝率は七割を超える圧倒的な数字を叩き出している。

 響自身は居飛車振り飛車には拘りがないが、振るならば四間飛車、美濃より穴熊を志向するのが常であり、やり慣れた戦型を選ぼうとすればどうしても小寺流の指し回しに付き合わなければならなくなる。

 経験値に圧倒的な差がある相手の土俵で勝負するべきではない、それが響の結論だった。

 となれば三手目、響は2六歩と突いて居飛車を選択する。

 指してから記録係に出して貰ったお茶を啜っていると、後手の小寺はこれもまた時間を置かずに5四歩と突く。

 中飛車、振り飛車における積極戦法の代表格だ。小寺は居飛車党に分類されるとは言えどちらもある程度指すタイプ、特に近頃は後手番で猛威を振るう中飛車が確立されたことからこの形も良く採用しており、当然響もこれへの対応は決めてある。

 先2五歩に後5二飛からの先5八金右。涼しい顔で右金を上げた響に、小寺は腕を組んで一つ唸った。

 小寺がこの序盤で二十分を使い後5五歩と突いてから、響は間を置く事無く先2四歩と突っかける。その展開へ自信を臭わせながら相手を焚き付けるようなノータイム。

 後同歩に先同飛、そこで更に五分ほどの間を置いてから小寺は5六歩と突いた。3二金と上がる大人の展開は選ばずに、売られた喧嘩は買ってやると言わんばかりの5六歩。

 ――5筋位取り中飛車・5八金右超急戦

 これこそ響が用意した対小寺プランのド本命、超急戦という名の通り短手数での決着になり易く詰みまで一直線になり易い将棋。序中盤の駆け引きや捻じり合いでは経験の劣る自身が圧倒的に不利と見た響は、局地的な事前研究と直線的な読みや終盤力で勝負出来る形に持ち込む為にこれを選んだ。

 想定通りに事が運んでいるとは言え、響の表情に緩みは無い。手元に置いた扇子を固く握りしめ絞るような音を鳴らした。

 ここから先に息を吐く場面は有り得ない。超急戦とは言うなれば無呼吸の乱打戦、どちらかが音を上げるまで息を止めてひたすらインファイトで殴り合う勝負だ。勝負を受けた小寺も当然それを承知して、成算を持っているはずなのである。

 対局室の時計は静かに時を刻み空気を際立たせる。

 やがて覚悟を決めたように、響は突き出された歩を摘まんだ。



「君の将棋は……なんや、すごいなあ」

 感想戦も一段落ついてから、小寺がぽつりと漏らした。

「最近の棋士はつまらんって、一昔前によう言われとってな。勝敗に拘り過ぎて精神的な面が廃れたって。それが当たり前になってからは、もう言われもせんようになったけど」

「それが、何か?」

「なんちゅうかな、将棋をデジタルに捉えるような指し方より、たとえば……それこそ君と仲ええ島津くんみたいに、多少荒っぽくても一本筋の通った自分の精神みたいなもんを棋譜に描き出しとる将棋指しの方が好まれる。僕らがデビューした頃はまだそういう風潮が多少残っとって、年上の先生ら相手にしたときなんかようチクチク言われたわ」

 その手の説教が面倒臭かった、という意図は無いのだろう、語る視線が冷笑で歪むようなことはない。

「ただ、そういう考えも解る気はするんやけど、僕にとっての将棋は徹頭徹尾道具やねん。負ければ悔しいけど、それだけ。多少の美意識はあっても、結局は商売道具に対する愛着程度のもので、そこに人生まで見出そうとは思わん。言うてしまえば、ゲームはゲームや」

 別段と珍しい意見ではなかった。特定の戦術に拘って選択肢を殺すようなことがあっては自らの手で敗北を選ぶようなもの、勝利の為に必要なのは機械的な解析のみであると、現代棋士の多くはそう考えている。

「棋譜だけ眺める分には、道具と割り切って勝ちの為に機械的に指しとるような、こっち側の人間と思ってたんやけどな……面と向かって、目を見ながら指してみたら、昭和大正通り越して明治江戸以前の精神性。危ういまでに、何か思い詰めたような、宗教のような感覚やった。ただ勝ちに拘って指すだけなら他にも幾らでもおるけど、ここまで鬼気迫る印象は、覚えがない。

 香木肉桂銀金玉……この八十一枡は、血生臭い殴り合いとは縁遠い、貴族が戯れに財宝の取り合いしとるっちゅう説があるくらいの平和な世界やのに、君と挟む盤は、野武士が真剣で殺し合いしとるような、自玉の行く末に現実の生死が結びついとる気にさせられる」

 そう言われ、響は祖父のことを思い出していた。小寺が語る響の将棋は、棋風は異なるものの、あの雪の日にただ一度だけ盤を挟んだ、祖父十兵衛の将棋に対する姿勢そのものではないかと。

「九郎義経然り大楠公然り、精神の純粋さは必ずしも美しい作法へ向かうとは限らないと、いつの時代にも通じる事なんやなあ。言葉で語られる精神論より、形だけが残る棋譜より何より、盤前に座った君の空気、相手玉を睨みつける瞳の方が、それだけでよっぽど怖い。ほんまに、今日はええ勉強させてもろた」

 そう言って深々と頭を下げてみせる小寺に演じている空気はまるでない。

「はよ上がってきや、君と順位戦やるの楽しみにしとくで……行きがかり商売道具なんぞと言うてはみたが、将棋のことはアンガイ本気やねん」

「案外、ですか」

「対局中の君の目見てしまったら、アンガイ、としか言えんよ」

 打って変わって飄々と言う小寺にもう一度礼をしてから、響は盤前を去った。

 対局室を一歩出た、その瞬間に奥歯が鳴る。

 初めて負けた訳ではない、プロ通算では二十三度目、しかし、刎ねられた首で息をしているかのような生殺しにされた感覚、自らの生が定かでなくなるこの敗北の不快感だけは到底慣れそうにない。


 ロビーで携帯を確認すると慈乃からのメールが入っていた。大阪土産にビリケンさんのストラップを買って来てくれという。ビリケンさんとやらが何者なのか響には解らないし、中高生の女子に流行っているようなものならば関西の棋士に聞いても解りはしないだろう。何より、そもそも気軽に尋ねられるような相手がいない。

 どうしたものかと思案していると小寺が通りかかった。今しがた別れたばかりの相手と直ぐに再開するのは響にはどことなく味が悪いようにも思われたが、小寺は意識する所でないのだろう、当然のように近づいてきた。

「なんや、難しい顔して。どうかしたんか」

「ビリケンさん……って解ります?」

 ビリケンさんなどといういかにも間抜けなネーミングからして十中八九若者文化の類と思い込んでおり、まさか知っている訳がないだろうと尋ねたのだが、

「何や、ビリケンがどうかしたんか」

小寺は当たり前のように知っていた。

「知ってるんですか」

「いや、そらビリケンは誰でも知っとるやろ」

「大阪土産にその人のストラップ頼まれたんですけど、どこで売ってるか解ります?」

「さあ……新世界行けばあるんちゃうの。けど君、一人で行かれるか?」

「まあ、地図見ればどうとでもなるかと」

「そういうこっちゃのうてな……まあええ、どっちみち明日の朝やろ、一緒に行ったるわ」

「いや、そこまでして頂くつもりは」

「かまへん。今日はウチに泊まって、朝八時頃に出て回れば昼過ぎには東京着くやろ」

 ほんなら行くで、と返答も待たずに響の手を取ってぐいぐいと歩き出す。

「かみさんの実家がこの近所でな、串カツやっとんねん。歩いていける距離や」

「いや、有難いんですけど。ちょっと、今日は一人になりたいんで」

「いーや、連れて行く」

「そもそも先生だって今日は祝勝会とかあるでしょ」

「高々一回勝ったくらいでそんな大仰なもんやるかいな。ええから行くで、どうしても君に聞いときたいことあんねん」

 勝者が敗者を誘うというのはマナー違反ではないのだろうか、あまりにもデリカシーに欠けているのではないか、心中そんなことを思いながらも相手は現在二冠の超大物、口に出して言うこともできずにずるずると引き摺られていった。


 静かな住宅地の一角にある木造の古い建物は、看板が出ていればまた違うのであろうが、時刻は人通りの消えた深夜、一見では店をやっている雰囲気は感じられず、硝子の引き戸の向こうからは小寺の帰りを迎えるように薄明かりが漏れていた。

 小寺が硝子戸を軽く叩くと、小寺の妻はあくびをかみ殺しながらの出迎えで、その視線が早速響に向く。

「あら、その子は?」

「浅井君や、今日の相手の」

「まあ、そう。初めまして、小寺の家内です」

 一瞬見せた戸惑いの表情は、まさか勝負のその日に連れてくるとは想定していなかったのだろう、それでも余計なことを語らない辺りは賢い人のようだった。

 縦に細長く作られた店内は十ほどの丸椅子が置かれているカウンターと座敷の席が一つあるだけの簡素な作りで、大勢が集まって呑むような構えではなく、近所の人間が集まりに使う店のようだった。座敷に上がった小寺に響も続く。

「とりあえず生と、適当に見繕って揚げてんか。浅井君関東の子やから、ここの串カツ食わせたりたいねん」

「解った。浅井さんはジュース何がええかしら、コーラかオレンジくらいしかあらんけど」

「いえ、自分も生でお願いします」

「まあ、未成年やろ」

「ええねんええねん。指してみりゃ解る、浅井君は立派な男や。彼が呑めんで誰が呑める」

「もう、アルコールで脳やられて将棋弱なっても知らんからね」

 呆れた風な溜息を残して小寺の妻はカウンターの中へ入っていく。

「なんや、真面目な子かと思ったらイケる口かい」

「別に……呑んでやりたくなったんですよ」

 皮肉のつもりで言った響に、

「おうおう、負けたら呑め呑め。強くなる悔しさだけ残して余分は酒で流してまえ、そうせんと上じゃやってけんぞ」

小寺は気にした風でもなく、これまた飄々としていた。


「それで、話って何ですか?」

 串カツを頬張りながら、生のジョッキは双方既に空となって焼酎に進んでいる。響は初体験だったが、するりと流れていくような清酒とは異なる、身体の髄に染みてくるような感覚は悪くない。

「ああ、それな……君、浅井十兵衛って名前聞いたことないか?」

 小寺から出てきたのはよく知った名前だった。

「じいちゃんですけど、どうして?」

 プロ棋士、それもまるで世代の違う人間が知っているはずのない名前だ。

「やっぱり。浅井っちゅう名前で、しかもアノ六角先生が弟子に取るんやからなんぞ関係あるか知らんと思っとったけど。そうか、孫なんか」

「何故祖父のことを? 表の人間じゃありませんし、真剣師としても無名でしょう」

「無名なのは、強すぎたからや。強すぎるが故に存在を無かったことにされた真剣師……僕なんかより君の方が詳しいやろ」

「祖父は何も、六角先生と指したことがあるって事も葬式の日に知りましたから。将棋のこと話すの嫌だったみたいで」

「ひけらかす趣味は無かったっちゅう事か。そら益々、伝説にはならんわな」

 伝説、という言葉にもからかいの色は見えない。

「浅井十兵衛の名がチラホラ聞かれるようになるのはまだ戦前の頃でな、食う為か何かは知らんが極道の棋客やっとったみたいで、強いと言われる将棋指しを手当たり次第相手にして連戦連勝したらしい。その後戦争が終わってからも、三〇年と少し前に姿を消すまでの間、連盟で語り継がれとるような大御所が仰山やられとるはずや」

「はず?」

「プロ棋士が極道の棋客やっとった人間にボロ負けするなんて、あったらアカンことやろ。僕が浅井十兵衛の名前知ったのも、師匠の師匠……名人獲った人やけど、家にお邪魔した時に暇潰しの家捜ししとって、偶然棋譜見つけたからや。浅井十兵衛との棋譜だけ、他の棋譜とは違うところに、見られたらアカンものみたいに隠しとってな。

 ふつう、伝説の真剣師なんてもんは、偶然か駒落ちでプロに勝ったことがある、程度のレベルや。そういう経歴を持つ手合いをプロが出ていって倒すから都市伝説として語られるようになる。最終的にはプロが勝つからな。真剣師Aは確かにBというプロ棋士を倒したが、それより格上のプロである私が倒したぞ。こんな具合に語られて初めて物語になる。

 浅井十兵衛の場合、そもそも勝った人間がおらんから、語られんねん。最終的にプロが勝つという物語が成立せんと、語り出す人間がおらんのや」

 調べるのにも苦労したで、と薄く笑いながら。

「何せ直系の弟子ですら浅井十兵衛のことは知らされてないんやから。遺品を管理しとる親族に頭下げたり、連盟のお偉いに浅井十兵衛の名前出してみたら、棋界の存続に関わることやから内密に頼むと脅されたり。そんな具合で、地道に探したわ」

「幾ら祖父が強くても、そんなことを続けていれば連盟だって黙ってなかったはずでは?」

「いや、黙らざるをえなかった。浅井十兵衛は歴代名人を尽く潰しとるからな……当時の構図はむしろ名人が刺客となって浅井十兵衛を狙う側になっとったとしか見えんものでな、順位戦名人戦は実質浅井十兵衛に送り込む連盟の刺客を決定する為のもんやった」

「名人戦が刺客決定戦、ですか……たかが在野の真剣師を相手に?」

「在野の真剣師にプロの頂点が勝てないと知られたら、棋士という職業に何の価値があるって話になるわな。スポンサーが金出さんようになったら棋戦も存続できんっちゅうんで連盟は金積んででも十兵衛の口塞がにゃならん。棋士という職業の権威、棋界そのものを根底からぶっ潰す、そういう恐怖感を抱かせるには、名人を殺してみせるのが一番効果的やろ。そして一度でも名人をやられた連盟は浅井十兵衛を潰さん限り枕を高くして眠れん。

 そんなやから、当然六角先生もやられとる。六角先生だけやない、浅井十兵衛の時代に名人の位を手にした棋士は例外なくやられとる……面白い事に、潰された人間はほぼ全員、浅井十兵衛にやられた棋譜を隠し持っとんねん。よっぽど悔しかったんやろな。

 ただ一人孤立無援の身で、歴代名人いや将棋連盟そのものか、棋界の全てを敵に回してその戦績は生涯不敗。それが棋譜に残された浅井十兵衛という将棋指しや」

「生涯不敗って、いくら何でもそんな話」

 思わず吹き出しそうになった響に、小寺は静かに首を振った。僕の調べた範囲でしかないけれども、間違いはない。

「名人という存在に他の名など要らんなら、棋界で奪い合ってた名人位なんてパチモンの器で、唯一浅井十兵衛という存在こそが名人と呼ばれるに足る本物の器だったんやろう」

 頬を仄かに火照らせていた酔いも、いつの間にか覚めていた。しかしもしも小寺が言うことが真実であるとするならば、確かに全てのことに説明が行くのも事実である。一介の真剣師に過ぎない祖父にあそこまで執着する六角も、家に残されていた、そして同時に家の外では決して同じものを見ることのなかった、対戦相手の記されていなかった、異常なまでに洗練された祖父の棋譜も――もしも祖父がそうであるのなら、全て説明が付いた。

「ただ、解らんことがあんねん」

 響の思考に小寺の声が割り込む。

「浅井十兵衛が名人を倒しまくってたことは方々残っとる棋譜からして間違いの無いことやねんけど、常識的に考えたら名人を実力で倒せる人間がそんな真似をする理由が解らんねや。そこまでいったら表に出て普通に指した方が稼げるはずやろうし、連盟からもそういう話があったはずやのに……ここ、孫としてはどう考える?」

「さあ、孫としては解りませんけど……でも、同じ将棋指しとしてなら、何となく」

「将棋指しとしては?」

「浅井十兵衛は、ただ強く、強いだけでありたかったのだと思います。連盟や制度という存在すら、それが将棋の仇となるならば躊躇うことなく力でねじ伏せる、そういうことを出来る強さが欲しかったのだと……そうか、だから、そういう負い目もあったのかな」

 名人という称号は、名人と呼ばれる存在は、一切において支配されてはならない。祖父は、祖父の信じた八一の枡目を、その裁定を誰より厚く信じていたのだろう。

 その答えは響にとってあまりに明瞭だった。何も語ろうとしなかった、棋譜にすら対局相手の名を残さなかった、最期の一局以外自分と指さなかった、祖父の、あの頑ななまでの態度を思い返せば、そうでしか有り得ない。

 響はそうして祖父の語らなかった理由を悟った。



 通天閣展望台の土産売り場で見つけたビリケンさんという得体の知れない存在は、響にとって不細工なエテ公以外の何物でもなく、何故こんなものが観光名物になっているのか、大阪という所は摩訶不思議なところだと首を傾げながらも、とりあえず目的のストラップは入手できた。

 新今宮から大阪駅まで向かう環状線の車中、新大阪まで見送ると言って聞かない小寺は彼女に買ったのかと繰り返し尋ねてきて、響は、語らなければ現在最強クラスの二冠棋士であるのに思考回路が関西のおっちゃん丸出しでカリスマもへったくれもないこの先輩に呆れにも近い感覚を抱いていた。

「もうほんと、勘弁して下さいよ」

「吐いてしまえば楽になるで。どうや浅井、ほんまのこと言うてみい……ビリケンのストラップ、彼女の為に買うたんやろ? おう、ネタはあがっとるんやで?」

「だから言ってるじゃないですか、ただの後輩ですってば。奨励会の三段ですよ、先生も名前くらいなら知ってるでしょ、C1で指してる立花の妹の方です」

「ああ、碁の立花先生の娘さんで、妹は慈乃ちゃんやったっけ?」

「ええ」

「お姉さんの方は島津君が一人で抜けとる世代やからな、周りが女の棋士と指すって状況に慣れてまったら上目指すのもしんどいやろうけど、妹の方はどうなんや」

「近いうちに先生のタイトルに挑戦するかも知れませんよ。それ位ずば抜けてます」

「惚れた欲目か」

「だから惚れてませんってば。この前の三段リーグの棋譜ありますから、どうぞ」

 携帯を操作して小寺に棋譜を見せる。

「相手大友君か。この前の棋将戦の、第二局やったかな、記録係やってもろたわ……ん、へえー、ふーん……ほう――」

 小寺の表情が三段リーグの棋譜を眺めるそれから徐々に重みを増していくのが良く解る。今まではあまりにムラがありすぎて目を止められなかっただろうが、本来の慈乃の実力はタイトルホルダーすら表情を変えるものなのだと改めて実感すると、それは保護者としての喜びなのだろうか、響は嬉しさのようなものを感じるのだった。

「大したもんでしょ?」

「なんや、そんな嬉しそうな顔初めて見たぞ……やっぱデキてんのとちゃうか」

「しつこい」

「なるほどなあ……超急戦は意外な選択肢やと思っとったけど、身内のこないな将棋見た直後じゃ若い子やったらそら滾るわな」

「それは俺の判断です。慈乃は関係ありません」

「ま、そういうことにしといたる」

 そうこうしているうちに乗り継ぎを経て新大阪に到着。土産物コーナーでクラスメイトへの詫び代わりにたこ焼き煎餅といういかにも大阪的な土産を二箱用意し、いざ新幹線に乗り込もうという間際になっても小寺はまだ棋譜を眺めている。

「後でメールで送りますよ」

「いや、ええわ。惚れた女の会心譜なんて他所の男にホイホイ送ったらイカンで」

 何言ってんだこのオッサンと言いたくなるような、肩の力が抜けてしまうようなボケた発言だ。

「惚れてませんし、地力を考えれば会心譜ってほどでもないですよ」

「……ホンマか?」

「本当に」

 小寺は難しい顔になり、

「島津君やら君やら、挙げ句にこの子か……一人くらい西で生まれろっちゅうねん」

そんな風にぼやく。

 プラットホームに滑り込んできた新幹線を見てようやく、小寺は響に携帯を突き返した。

「メールはホンマに大丈夫や。良い譜やからもう覚えた、自分で並べながら書き写す」

「そうですか。じゃあ、これで。今回は有難うございました」

「こちらこそや……君、棋将の予選も残っとるやろ。タイトルかけてやるのも案外近いか知らんな」

「棋将は仮に予選抜けられても先が長いですから……でもまあ、首洗っておいて下さい」

「ぬかしよる」

 最後にもう一度礼をしてから、響は大阪を後にした。


 学校に到着したのは午後二時を少し回った頃。丁度五限の最中になってしまい、教室に入るのも躊躇われたのでまずは職員室に報告に行くことにした。都合良く空き時間だったらしい担任に挨拶をして昨日今日の授業を軽く確認、クラス用に買ってきた大阪土産の品を預けてから、六限の開始時刻まで図書室を借り昼下がりの心地良い陽を浴びながら範囲の教科書を流し読みする。

 どうやら大したことはなさそうだと納得すると今度は昨日の対局をノートに起こす作業を開始、頭の中で一つ一つ思い起こす度に奥歯を鳴らしながら、書き上げる頃には五限の終わる時間帯、荷物をまとめて教室へ向かう。

 新しいクラスには、学校側の配慮であったのかも知れない、響と近しい面々がある程度集まっており、遠征だからといって特別に困るような事態もなく、先日と五限までの授業ノートを受け取る。新クラスが発表された当初、響はどことなく偏ったクラス編成に申し訳なさを感じ彼らに詫びを入れたが、彼らは高校生特有の物事を難しく捉えない思考からむしろ気の知れた人間が集まれるのなら有難いと笑って流してくれた。

「で、試合はどうだった」

 響にノートを手渡しながら、一年の頃から続けて学級委員を引き受けている原田だ。響が遠征の日の授業ノートをクラスの有志で分担して取ろうと言い出してくれた人物であり、一年の頃響がクラスで浮くことが無かったのは全く彼のお陰だった。響にとって頭の上がらない存在である。

「負けちった、悪いな」

「そっか。つーか、謝るなよ……こっちが勝手に応援してるだけなんだから」

 将棋に対して詳しい訳でもないだろうが、とりあえずプロとして勝負しているという点で応援してくれる。

「あ、あざい帰って来てんじゃん、お土産は?」

 と、これもまた一年の時に同じクラスだった市川という女子。当然将棋に興味を持っているようなタイプではないし、ルールすらも知らないだろう。勝敗に敢えて触れていないのか、それとも本当に土産以外には興味がないのかは解らないが、こういった軽い扱いをしてもらうことでクラスでの居場所を確保できるのだから響にとっては有難い。

「買ってきたよ、たこ焼き煎餅だったかな。先生に預けてあるから帰りの時に」

「あざいと同じクラスになると色々おやつ貰えるから得だよね、やっぱ」

「ロリコンだけどね」

「童貞だし、慈乃ちゃんに優しくないし」

「将棋オタクだし、ネクラだしね」

「男としては最低だよねー」

 姦しく騒ぎ出す女子連中にこめかみが引きつる。この腐れビッチ共がと、響は先程心中に浮かべた感謝を撤回した。

「おう響、負けたのか」

 と、声の方を見れば馴染みの面々。

「放課後どっか行くかって話してたけど、お前どうする?」

「今日はやめとく。昨日今日の分勉強しないとまずいし、実は昨日寝てないから、疲れてんだ。悪いな」

「悔しくて眠れなかったとか?」

「いや、対局終わってから相手の人と呑んでたら朝になってた」

「何だそれ」

「まあ、面白い人だったんだよ」

 話しているうちに六限は日本史の田中教諭が教室に入ってくる。席に戻って教科書とノートを取り出し、範囲は奈良時代の文化史から。チャイムの音を聞きながら、そう言えば将棋が入ってきたのもこの頃なのだろうかなどと、将棋にまつわる一説を思い出した。


 放課後、クラスに残り駄弁っている連中を後にして一年の教室へ向かう。慈乃はクラスに馴染めているだろうかと廊下からそっと覗いてみると、予想は良い方に外れ、どうやら仲の良い友達が出来たらしい、四人ほどの女子と輪を作って談笑している。わざわざ出て行く必要も無いだろうと土産のビリケンさんストラップは下駄箱の中に入れておき、響は一足先に帰宅した。

 ただいま、と、返事のあるはずもない言葉を呟きながら靴を脱ぐ。

 昨日今日で遅れた分の勉強をしておかなければと早速ノートとプリントを取り出して机に向かう。

 室内に音はなく、家の外、カーテン越しに茜の眩しい夕空から、カラスの鳴き声が届く。帰路につく小学生の騒ぐ声、時代に逆行するような豆腐屋のラッパ、一瞬の静寂。国道を走る大型車の騒音、子どもを呼ぶ母親、豆腐屋さん来たよ、豆腐屋の威勢の良い毎度という声。間延びしていくラッパの音。

 勉強は手に付かず、部屋の中心に置かれた盤に駒を並べる。

 先7六歩、後3四歩、先2六歩、後5四歩、先2五歩、後5二飛、先5八金右、後5五歩、先2四歩、後同歩、先同飛、後5六歩、先同歩――

 豆腐屋のラッパはいつの間にか消え、盤は月明かりに蒼く染まっている。
















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名人 尾和次郎 @owatarou

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