順位戦に区切りがついても棋戦は続く。

 王竜ランキング戦五組三回戦、相手は神保氏張七段。C級一組順位戦で昨年八月に対局して以来二度目の組み合わせは神保七段の先手となり、響は3四歩と突いてからのオーソドックスな四間飛車を採用した。神保七段の積極的な棋風から持久戦調とはならず5七銀左からの棒銀というレトロな戦型を受けて立ち、勢いに飲まれることなく堅く対応、相手の息切れを見てからじわじわと絞め上げ確実に仕留めた。

 続いては新人王戦トーナメント、順位戦による昇段でこれが最後の機会となる棋戦での相手はプロとしては初顔合わせの波多野秀長四段。響から二期遅れて四段へ上がったプロ一年目、七年十四期ものリーグを粘り強く戦い続けて年齢制限を間近に控えた二十五歳でプロとなった遅咲きの才能だ。響は三段リーグ時代に勝ち星をもぎ取っているが、波多野四段にしてみればその時のリベンジという事だろう、新人王戦には珍しい並外れた闘志と共に徹底した研究将棋をぶつけられ序盤の優位を奪われる。しかし結果はかつてのリーグ戦と変わることなく、終盤の腕力で逆転勝利を収めた。

 以上を以て年度内の対局は終了、年間五十二戦四十勝十二敗は勝率にして七割六分九厘という破格の数字を叩き出し、響は新年度を迎えることとなった。




 春休みのとある日、響がベッドの上に寝転がりながら詰将棋の本を眺めていると携帯が震えた。銀乃介からの通話だ。嫌な予感に眉が寄ったが、無視すれば後が面倒だからと渋々通話に応じる。

「何だよ」

『花見すんぞ。五分以内に来なかったら酒代お前持ちだから、じゃな』

「待てよおい! もしもし!」

 受話器に向けて何を言っても既に通話は切れていた。十年近い付き合いだが、この男の傍若無人ぶりには最早吐く溜息も尽きている。

 響の暮らすアパートから立花家までは目と鼻の先と言っても良い距離であり、銀乃介の言っていた五分という時間も特別無茶な話では無いのだが素直に従ってやるのも癪に障る。急いで向かうような事はせず、紫色の宵の薄明を見上げながらのんびりと向かう。

「悪かったわね、急になっちゃって」

 出迎えてくれた千代は呆れた風に詫びた。

「私も朝から色々忙しかったから、ギンに連絡任せちゃったのよ。そしたら直前になって忘れてたとか言い出して」

「そんなことだろうと思ったよ。で、俺に電話する前に散々怒っただろ?」

「良く解ったわね」

「ふて腐れたガキみたいな電話だったからさ……で、アイツどこいんの?」

「花見ながら父さんと指してる」

「本因坊からの刺客か、金取れるカードじゃん」

「父さんに本因坊の看板背負わせるんじゃ、算砂もあの世で泣いてるわね」

 立花家家長の鑑連(あきつら)は碁打ちとしてその頂点を極めた人物であり、最盛期は過ぎたとは言え現在も大きなタイトルに絡みながら一線級の活躍をしている。碁打ちとは何かと因縁深い将棋指しとしては負けられない戦いのはずだが、相手が鑑連では話も別だろうと、顔を出してみれば案の定、どちらも猪口を片手に姿勢を崩して談笑しながら指しており、鑑連の脇からは慈乃が公然と口を出している。

「響ちゃん遅いよ」

 やはりというか、真っ先に声を上げたのは慈乃だった。

「銀のせいだ」

「ようやくお出ましか、お前がいないと慈乃がうるさくてかなわん」

 碁打ちとしては勝負の鬼とまで言われる人物も家の中では柔和な父親であり、響も古くから良く面倒を見て貰った。将棋の世界に深入りするようになってからというもの肉親とは何となく距離を感じるようになっていたが、そんな響にとって立花家の空気は心底から落ち着けるものだった。

「おばさんはどこ?」

「わざわざ構わんでも良いさ、そのうちここに顔を出す。それよりこの局面をどう見るか一つ御指導願いたい、慈乃の言うことは感覚的すぎてどうも解らん」

「私は間違ったこと言ってないもん、お父さんが弱いだけじゃん」

 やり合い始めた親子はひとまず放置し銀乃介を一睨みしてみると、よう、と何の負い目も感じていないような表情で返された。

「何か言うことあるんじゃないのか?」

「まあまあ、細かいこと気にしてないでまずは呑めや、駆けつけ三杯ってな」

「未成年だっつーの」

「そりゃいいや、この機会に慣れておけ。なあ、おやっさんもそう思うだろ?」

 話を振られた鑑連は、

「吐くのも経験だからなあ、無理は良くないが、慣れておくのも大事なことだ」

ニヤリと笑みを浮かべながら、良すぎる程の段取りで用意してあったらしいお猪口を一つ取り出すと響へ差し出した。

「まあまあ一献、昇級祝いさ」

 徳利を手に持ち受けろと言う。

「呑ませる気だったでしょ」

「女所帯だからね、男の子と呑むのが夢だったんだ」

 そう言われてしまっては断る訳にもいかず、腹を決め、頂きますと盃を受けた。


「今年度、玉座戦の本戦トーナメントからだっけ?」

 縁側から足を垂らし夜闇に舞う花を眺めていると、隣に現れた慈乃はオレンジジュースのコップを持っていた。響はちびりちびりやる分にはひどく酔う事もなさそうだと結局酒を呑み続けている。祖父も父も酒飲みだったらしいから遺伝かも知れない。

「だな」

「十二日の大阪だよね、いつ行くの?」

「十一日の学校終わってから入れば良いだろ……土産欲しけりゃメール入れとけ」

 タイトルの一つである玉座戦は一次二次の予選を勝ち抜いた八名にシードの八名を加えたトーナメントで挑戦者を決定する。響は一次予選からの勝ち上がりで本戦トーナメントまで駒を進めていた。

「相手小寺先生だっけ、格上だね」

 一回戦であたる相手は小寺孝高(よしたか)二冠。プロ十四年目通算でタイトルを六期保持しているA級棋士、いかにも関西風といったような力戦を基調とした居飛車党の棋士である。先日の棋将戦ではタイトル保持者の六角を三タテで下して奪取など勢いに乗っており、棋界では六角天下を終わらせる新世代の一人と目されている。玉座戦ではシード権を与えられており挑戦者決定トーナメントから参加、正しく棋界の頂点に数えられる一人であり響にとっては格上も格上の相手だ。

「まあそうだけど、格で将棋指すワケじゃねえし」

「おお、頼もしい。銀ちゃんより先にタイトル獲っちゃいそうだね」

 はしゃぐ慈乃の声が届いたのだろう、

「あんまり響のこと調子のせてんなよ、バカ慈乃」

と、面白く無さそうな声の銀乃介は二次予選で敗退している。

「俺が先に獲ったら敬語使えよな」

「クソガキが、ボロクソに負けて泣いてこい」

 ただの嫉妬ではなく、それは銀乃介自身の経験、予選と本選の空気の違いを身に染みて叩き込まれたからこそ出た発言だったろう。

 銀乃介自身、本戦までは何度も上がっているがタイトルへの挑戦はまだ無かった。予選までは相手が格上であっても油断や時の運で勝てることもある、しかし上へ登れば上る程相手もタイトルを意識してくるのだからそのようなことは有り得ない。完全に実力だけがモノを言う勝負になる。

 響も余裕を見せてはいるが格上相手の実力勝負など初めてのこと、考えれば考えるだけ頭が痛くなる思いであり、そして痛くなる分だけ胸の鼓動が高鳴るのもまた事実だった。

「負けねえよ」

 呟きが漏れるほどに勝ち気を崩さないのはタイトルの為ばかりでなく、むしろその目的からすればタイトルなどおまけ程度に過ぎない。

 トーナメントの別山、決勝でなければ当たらない位置には、前回四傑のシード枠として六角源太の名がある。六角は名人戦以外の対局など数に入れないのだろうが、響はどのような形でもこの怪物棋士と一度は盤を挟んでみたいのだった。

 師弟という関係にも関わらず、響と源太は盤を挟んだ事がない。指導はおろか練習将棋もただの一度も無い。形として残っている棋譜から六角の強さは十二分に明らかだが、直に感じなければ信じられないこともまた自然だろう。六角と一局を交えてみたいという響の心中に滾る熱には未だ遠い名人戦を待つだけのゆとりなど無かった。

「いいなあ、私も応援行こっかな」

「何言ってんだお前、普通に学校行けよ」

「えー、いいじゃん」

「入学早々そんなふざけた理由で抜けようとすんな、クラスで浮くぞ」

「ちぇっ、けち」

「大体、お前自分のリーグ戦始まるだろ、他人構ってないでそっちに集中しろ。初戦まで一週間切ってんだぞ」

 リーグ一回戦は六日後の土曜日のはずだった。

「相手大友さんだろ、対策は?」

 大友三段は今回でリーグ八回目となる人物で、響もリーグ時代に一度当たっている。

「ちゃんと棋譜並べたよ」

 自信満々にそう答えるのだから、響でなければ愛想を尽かすだろう。

「ちゃんと作戦考えてるのか? 居飛車も振り飛車もあるぞ」

「確かにどっちも指してたけど、どっちもつまらない棋譜ばっかりだったよ」

 天才とは恐ろしいもので、こういう事も平然と口にする。

「お前、絶対によそでそういうこと口に出すなよ、本当に」

「でも、居飛車でも銀ちゃんみたいに怖くないし、振っても響ちゃんみたいにネチネチしてないし」

「油断し過ぎだ」

「だって多分勝てるもん」

「ここまで言って負けたら承知しねえかんな、本当に、負けたらマジで縁切るからな」

 半ば言い争いのようになりながら、響としてはここまで適当な態度で対局に臨むことが信じられないし、慈乃は慈乃で真剣に棋譜を検討した末の結論を述べているつもりだからかみ合うはずもなかった。

「だって、本当だもん」

 小さく震えるような声の慈乃に、ようやく響は言い過ぎたと気が付いた。このままでは下手をしたら泣き出すかも知れない。

「一々ウジウジすんなよ……クラスでそんなんやってたらいじめられるぞ、周り知らない奴ばっかなんだから」

「響ちゃんがいるもん」

「あのな――」

 言いかけたところで言葉を飲み込む。これ以上この話題を続けても話が将棋に戻る事は無いだろう、ならば無駄な会話はここで打ち切った方が精神的には幾らかマシだ。万が一にも負けるような事があればその時こそ本気で折檻してやれば良い。

「そういや、制服はちゃんと用意してあるか?」

「それくらいちゃんとしてるよ。お姉ちゃんが一緒に行ってくれたもん。バカにしないで」

 結局千代に頼りきっているじゃないかと言いたいところだったが、反応は悪く無かったので言葉を飲み込んで話を続ける。

「じゃ、一足先にちょっと着て見せてくれよ」

「え……何で?」

「別に、何となくだけど」

 相手をするのが面倒臭いから話題を変えたいだけだ、とは流石に言わない。

「見たいの? 響ちゃん私の制服姿見たいの?」

「ああ、はいはい、見たい見たい」

「うん、いいよ、とくべつね。特別だからね。ちょっと待ってて、すぐ着替えてくる!」

 風を巻くように立ち上がりドタドタと廊下を鳴らして走り去った慈乃の後ろ姿を見送りながら、女は新しい服が手に入るととかく他人に見せたがるというのは本当らしいと、響は世間一般で語られる常識論の意外な正確性に関心した。

 十分と経たないうちに、慈乃は着替えを済ませて戻ってくる。

「着替えるの早いな」

 呆れから思わずそう漏らしてしまうほどだった。

「どう? ねえ、どう?」

「ああ、良いんじゃないの。普通に馴染んでる」

 学校にいる女子と同じような感覚で見る慈乃というのはどこか新鮮だ。

「一枚撮ってやろうか?」

 慈乃があまりに喜んでいるものだから、何となく携帯電話のカメラを向けてみる。

「撮るの? 撮りたいの?」

 予想通り、先程までの機嫌の悪さはどこへやらとすっ飛んでくれたようだった。

「とくべつだからね、特別だよ」

 と、慈乃は裸足のまま庭先に降りていく。

「何で下降りんだよ、裸足じゃ足汚れるぞ」

「良いよ、どうせお風呂入るから。それより折角桜綺麗だし、ね、撮って」

「はいはい、解ったよ」

 元気がなくても困りはするが、やかましすぎるのも困りものだ。心中呟きながらパチリと鳴った電子のシャッター音、画面に映った慈乃と桜は庭の電気灯籠の灯りで良い具合に照らされている。

「どんな感じ、綺麗に撮れた?」

 脇からのぞき込もうとする慈乃に携帯を渡してからふと口許に寄せた猪口が空と気付き、他の人間が揃っている居間へ戻ると一斉に視線が集まった。千代と母は二人で微笑ましいものを眺めるような視線を向けてくるのに対し鑑連はどこか暗い表情、銀乃介に至っては腹を抱えているというてんでまとまりのない空間になっている。

「何だよ、気持ち悪いな」

 酒の入った徳利を探し当て手酌をしながらぼやくと、鑑連が、

「響のことは信じているが、まだ高校生なのだから節度を守った付き合い方をするように」

と、いかにも堅い風に言うので、

「そんなに神妙な顔して心配しなくても、潰れるほど呑まないって」

返すと、銀乃介が堪え切れんといった具合に声を上げて馬鹿笑いを始めた。

「響くんだから安心してるんだけどなあ、私は」

 と今度は母が言う。

「いい加減おやっさんも諦めろって、何年同じ事ぼやいてんだよ。もう宴会芸の域だぜ」

 銀乃介は笑いすぎて声が震えている。

「マジで何言ってんのさ、大丈夫?」

「大丈夫、みんな本当のこと知った上で肴にしてるだけだから、相手にしないのが吉よ」

「だから肴って何だよ」

「まあ何て言うか、将来そうなったら良いかもね、みたいなお話かな」

「はあ?」

「いいから、早く慈乃のところ行ってあげてよ。響が離れるとあの子うるさいんだから、戻ってこられたら静かに呑めなくなっちゃうでしょ」

「ひでえ言い草だな、仮にも妹だろ……っても、まあいいか」

 謎は解けないままだったがどうせ大した事では無いのだろうと納得し縁側へ戻った。






 入学式など本来なら響の学年は無関係なはずであるからとその日は一日家で対小寺戦へ向けた作戦の洗い直しと棋譜の再検討でもするつもりだったが、朝一番で家へ押し寄せて来た慈乃に予定は脆くも崩れ去った。

 家族はどうしたと尋ねれば勝負師一家の業というものか、鑑連が対局で遠征し母はその世話に付き添わなければならず、千代に関してはタイトルの予選が被さっているから出られないだろうと既に把握していたが、家族総出で家を空けるのならせめて前もって連絡をしておけと思う。

「今日なら響ちゃんが空いてるから大丈夫だってみんな言ってたよ?」

 なるほど響が断らない事を織り込んでのことらしい。親しく付き合いすぎるのも考えものだろうかとも思ってしまう。

「まあ、良いか」

 無人の教室ならば家でやるのと同じ事、案外気分転換になってはかどるかも知れないと制服に着替える。

「流石に式典までは付き合えないけど、付き添いくらいならしてやるよ。教室で待ってるから終わったらメールしろ」

「ごめんね、ありがとう」

「別に……行き詰まってたし、気分転換だよ」

 一年を過ごした教室も進級を終えれば白紙に戻り何事も無かったかのように新しい学生を迎え入れようとしている。窓際の席を一つ借り、校庭で咲き誇る開校来の百年桜を眺めてみれば、一人で家に籠もっていたときのいきづまりの感覚も花と同じく散らされたかと、対局へ向けて明るい兆しも見えてくるようで、感謝すべきはこちらかも知れないと考えていると丁度式も終わったらしく連絡が来た。

 待ち合わせをした昇降口へ向かうと新入生の大群の中で一人キョドキョドと不安そうにしている姿が目に入り、これから大丈夫だろうかという不安も湧いたが、クラスが定まれば気の合う人間も見つかるだろうと余計な心配はしないことにする。

 それでもあの状況で長く放っておくのも酷と、手刀を切り切り人混みを掻き分け慈乃の手を取ると、化粧臭い保護者の集団を避けるようにして校門を出た。

「飯でも行くか、入学祝いに奢ってやるよ。何食いたい?」

「響ちゃんの食べたいので良いよ」

「俺もなあ、別に何でも良いんだけど」

 頭の中に詰まった店の情報を引っかき回していると、駅前で新しくオープンしたロシア料理の店が浮かんだ。確かランチもやっているはずだ。

「じゃ、ロシア料理食うか」

「ボルシチとかだっけ」

「俺もそれしか知らねえや」

 ロシア料理って何だろうなどと語り合いながら歩き出す。

 通い慣れた川沿いの歩道は桜の色に染め上げられ、水上をたゆたう花の流れの優雅さにこのような棋譜を一度は描いてみたいものと、うちに思うと7六歩が声に出た。

「8四歩」

 間を置かず背から届いた声に更に重ねて6八銀――




 新幹線の中で、響は携帯に映し出された棋譜を眺めていた。

 土曜日の三段リーグ戦、慈乃は宣言通りに圧勝した。周囲には静かな立ち上がりと見えていた序盤も最後まで見てみれば詰みに向けた一直線の道を作り上げており、それを相手が悟る頃には全てが終わっていた。或いは慈乃には、対局が始まる前から、駒に触れる前から、全てが鮮明に見えていたのではないかと疑われるほどの棋譜だった。

 美しいと思う。大友三段への非礼と承知していても、相手が自分であればもっと素晴らしいものができたのにと、その考えを止めることができない。

 全てを見通したような透明な棋譜は、これ一枚に万物の真理が記されているのではないかと考えたくなるような、間違いなく天才のものだ。

 見惚れているうちに新大阪へと到着、画面から視線を外す一時にも僅かな切なさを感じながら、響は静かに席を立った。





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