花のつぼみはぽつぽつと開き始め、靖国からの声もそう遠くないのだろう。夕暮れ時とは言え鴉色の学ランを羽織っていると薄く汗が滲んでくるような陽気の中、順位戦最終局は千代の手番で夕食休憩に入り、響はいつものように近所の蕎麦屋に出前を取った。

 かけ蕎麦と納豆巻を胃に押し込みながら以降の展望を巡らせていると、先日の順位戦で残留を勝ち取った銀乃介が表を通り過ぎていき、お互い声はかけずに視線を交わす。

 ――盤石だな。

 苦笑すら籠もったような銀乃介の視線はそう言っていた。

 響は戦型や受け攻めに拘りがなくオールラウンダーに指せる棋風だが、どちらかと言えば受け将棋であると自覚している。相手の手を一つ一つ潰して行くことで確実な死に追い込むその棋風は、鋭利な刃と鮮血で以てその死を彩る断頭台のような、ある種の美しさが溶け込んだ冷酷とは対極に位置し、それは絞首刑のような、首にかけた荒縄がじわじわと引き絞られ肉に食い込み酸素欠乏に肌を黒ずませながらそれでも死にきれずにいつまでものたうち回る、そうした強烈無比のむごたらしさを有している。

 響は成香を自陣側四列まで引いてきており、展開によってはそこから更に下げ、完全に陣に入れる事すら考慮に入れている。これが何を意味するか、多少なりとも将棋を知っている人間であれば成香を自陣で使うという局面の異常性を即座に理解できないはずはない。

 およそ棋史を遡っても類を見ない局面を言葉にするならば【成香冠】とでもするべきであろうか。その形まで見据え、あらゆる可能性を想定した上でかつ考え得る限りの相手の勝ち筋を消していく。相手が攻めを間違えたのならば徹底してその間違えを咎め、自陣に迫る敵の攻め駒を根絶やにして僅かな希望も狩り尽くす。盤上から動かせる駒が無くなるまで追い詰めてやれば、王手をかけずとも将棋は勝てる。

 今日のような戦術を取った日には、響の勝ち方に対して趣味が悪いという批判を向ける人間もいる。優位に立っているのならその上更に相手の手を潰そうとせずとも勝つ方法は幾らでもあるはずだと。

 しかし響はそれらの声をまるで相手にしないどころか、自身の非道を自覚し、その意味を理解した上でなお、唯勝利の為にのみそれを実践する。

 響は敵玉の殺し方に何の美学も持ってはいないのだ。彼の本質は自らの技術を誇りそれを高める事を全とする武芸者ではなく、ただ勝利のみを求める戦餓鬼なのである。


 夕食休憩明けの夜戦に入ると戦局は響の想定を大きく外れることなく進み、成香は自陣深くで自玉に張り付く事となった。

 相手の攻めを完全に枯らせた上で入玉経路まで確保した盤石の状況。最早どのような手を捻り出そうとも響の玉が討ち取られることはない局面だが投了はなく、場は百五十手を超える長手数に足を踏み入れている。

 控室の棋士や観戦記者達はあまりに凄惨なその盤面に絶句している事だろう。

 百九十四手目に件の成香を捌いたところで相手の意地までへし折った。その後はなぶり殺し以外の何物でもなく、以て二百十二手、最後は頭金すら見えている投了図。



 感想戦を終える頃には日付もとうに変わっていた。

 対局室を出た途端にいつもより一段とひどい立ち眩みに襲われて、響は眉間を押さえた。

 一先ず息を吐こうと手近な所にあった自動販売機でなにかを、選ぶ余裕もなくボタンを押し、ロビーの椅子に倒れ込む。

 ボトルを口に含み、どうやらスポーツ飲料らしいと解った瞬間、当たりだ、と漸く頬がわずかに緩んだ。炭酸は飲み辛く緑茶や水は糖分に欠ける。疲れた時は余計に。

 勝利の美酒に酔うという経験をした覚えが、響には一度も無い。対局後はただただ疲れだけが押し寄せ、酷使され熱を持て余した頭部はブレーカーが落ちたように一切の思考が停止し、何も考えないという空白の幸福感に脳を占拠されてしまうのが常だ。或いはその一時こそが棋士にとっての勝利の味であろうか。だとすれば、今日の一段とひどい空白は喜ぶべきものなのだろうか。

「響ちゃん」

 いつものようなキンキン調子ではないのが救いだった。

「お疲れ様。その……おめでとう」

 迷いがちな言葉。

「でも、よかったね、昇級も決定だし、全勝だもんね。すごいよ」

 何を話して良いか迷っているのだろう。

 響は何も返さなかった。

 ただただ疲れていた。言葉が出せない、喋り方を忘れるほどに疲れている。

「響ちゃん……ねえってば」

 返答を求める慈乃をどうしたものかと煩うよりも先に、おめっとさんとこちらはいつも通り脳天気な銀乃介の声が届く。

「流石に始発まで駄弁ってく余裕も無いだろ、タクシー呼んどいたから表で待ってろ」

 頭に乗せられた大きな手で髪をくしゃくしゃに掻き混ぜられる。拒否する思考も残っておらずされるがままだ。

「ってことだから今日は響帰してやれ、多少ほっとく程度じゃ回復しそうにない」

「でも」

「ほっとくのがいいんだよ、今日は……そうだ、反省会明後日やっから、どうせ暇だろうけど一日空けとけな」

 頷くことも振り返ることも忘れ、響はその場を後にした。


 会館を出ようとする響を一人の老齢の棋士が待ち構えていた。

 周囲に人影はなく、深夜耳鳴りのしそうな静けさの中、雲を被った上弦月の薄明かり。

 二藍の着流し長羽織を身に付けた様はさながら江戸から抜け出してきた侠客そのもののようであり、齢七十を超す面に深く刻まれた皺は肉体の老いをではなく将棋指しとしての荒々しい半生を印象づける。二十二世名人をはじめ他に王竜・棋将の二つの永世称号資格を保持しなおも現役として戦い続ける最高齢のA級棋士、六角源太。響を弟子として受け入れ奨励会への渡りを付けた人物だ。

 互いに情を抱いた事が無い、名ばかりの師弟関係である。

「貴様が来るまでに席は取り返しておく……あと三つだ、早く上がってこい」

 祝福の様子など欠片も無く、ただそれだけを伝えると六角源太は去って行った。

 ただその言葉を伝える為に響を待っていたのだ。その一言を伝える為だけに、否や正確には残り三つの壁を乗り越えた響が挑戦者として自身の前に現れる、その時だけを、浅井響という人物が世に生を受けるより遙か以前から、六角源太はひたすらに待ち続けている。

 ――全ては浅井十兵衛という男を乗り越える為に。

 勝負師の業と言うにも深すぎるほどの河が、師弟の間には流れていた。







 昼前から夕方にかけての反省会が終わってしまえば残りは気楽な順位戦終了の打ち上げとなる。勝負の場を離れればさしたる禍根も無く、千代の薄く腫れた目蓋はさすがに隠しようが無かったが、千代はそれすら笑いの種としてみせたし、響も銀乃介もその程度の事を大袈裟に扱う人間ではなかった。

 容赦を無くすことこそが最上の方法であることを、彼らは誰よりも深く理解している。

「しかし、響はもうちょい何とかなんねーのか」

 生のジョッキで喉を鳴らす合間に銀乃介が言う。

「何が」

「お前は、なんつーかさ、もっとテキトーにガーッといってダーッとやってアーッと寄せちまうみたいな、そういうのが足りねーんだよ」

「俺はギンみたいにちゃらんぽらんな性格してないんだよ。勝つべくして勝ちたいの」

「そういう性格してるから棋譜まで根暗なんだっつーの」

「それ言うならギンの棋譜なんてバカ丸出しじゃん、丁半博打みたいな将棋ばっかり指しやがって」

「言いやがったなお前。おい慈乃、俺と響とどっちの棋譜を並べたくなるよ」

「棋譜眺めるなら銀ちゃんのかな、見てて楽しいもん」

「ほれ見ろ」

「でも、実際にするなら響ちゃんとやる方が好き。色々意地悪されるから、面白い」

「おま、中坊にしてドM宣言かよ」

「ちょっと、慈乃に変なこと吹き込まないで……はい、これ焼けてる」

 今日は勝者である響の希望で焼肉となった。肉と網の管理は自然と千代に任せるような形になり、他三人はただただ焼き上がり配膳された肉をほおばるか、下らないことを言い合っているかだ。慈乃もいつまでも引きずっている様子は無く目の前の肉に目を輝かせて食っている。

「そういえば響、六角先生にはちゃんと報告した? 師弟には違いないんだからそういうことはちゃんとしないと駄目よ」

 響の皿に肉を取り分けながら千代が言う。

「っていうかあの日会館来てたみたいで、帰り際に出入口で会ったよ」

「……で、なんつってたんだあの妖怪ジジイ」

「ギン、失礼よ」

「はいはいすみませんでした。で、六角前名人は何と仰せでいらっしゃいましたか」

「席取り返しておくからさっさと来い、だとさ」

 肉を口に放り込む。銀乃介が穴場と紹介しただけあって安い癖に旨い。

「そりゃまた期待されてること……あのジーさんならいつ返り咲いてもおかしくねーけど、年考えればいつポックリ逝ってもおかしくねーんだし、精々急いでやるこったな」

「ギン!」

「はいはい解ったって、お前は俺のカーチャンかよ」

 こういうやりとりを目の前で見せられると、銀乃介はむしろ楽しんでやっているのではないかと響は思わされるのだった。

「一応師匠だし、意を汲むようにはするけど、そしたらギンのことも追い抜いちまうな」

「ヌカせクソガキ」

 銀乃介は面白くなさそうに鼻を鳴らすと煙草を咥えて火を点ける。気付いた千代がそっと灰皿を差し出した。

「でも六角先生、去年名人位陥落してから目に見えて崩してるのよね。棋将位も落としてしまったし、順位戦も今期は残留に絡んで……残留に絡んだの四十年ぶりなんだって」

「あの人は名人以外のタイトルなんて名人戦の調整程度にしか思ってないさ」

「しかし響よ、あの名人オタクのジジイが名人戦に出てこないなんてことは実際ちょっとした事件だぜ。こりゃいよいよお迎えって線も――」

「――さっきから、ちょっとひどいわよ。そろそろいい加減にしておきなさいね」

「わーったよ、怒るなって」

 すぼめた口先で勢いよく煙を吐き出しながら、まるで反省しているそぶりはない。

「何にせよ、余計な心配だろ」

 六角源太は現在将棋界に存在する七大タイトルを通算で八十一度手にしており、中でも名人位には特別な執着を見せている。

 名人以外のタイトルなど棋界の政治と金の為に存在しているだけと公言して憚らず、四十六年前に初戴冠して以降通算二十九期獲得は圧倒的歴代最多記録。棋界未だ一世名人を廃さずとは果たして誰が言い出したか定かでないが、さりとて現代将棋が名人・六角源太の名の下に存在していることは全ての人間が認める事実だ。

「お前から師弟愛を感じるってのは珍しいな」

「そんなんじゃない……違うよ」

 ――響が祖父の十兵衛と六角源太の因縁を知ったのは、祖父の葬式でのことだ。

 祖父の葬式に突然姿を見せた今一世こと六角源太は、悲痛や憐憫ではなく、死者の世界へ逃げていった仇敵を恨む憤怒にその表情を歪ませていた。

 その後、響の存在を、十兵衛の絶局をどこからか聞きつけた源太が家に押し寄せた日の様子を、響は今でも覚えている。

『お前が十兵衛を殺したのか』

 源太はそう言った。深淵の中唯一探し当てた希望に瞳は燦然と輝き、口元は幼子のように唾液を溢れさせながら笑っていた。

 お前は十兵衛を殺せたのだな。

 お前は十兵衛を喰らったのだな。

 そうか、そうだったか。十兵衛は貴様を残したか。

 将棋を好ましく思っていなかった、それどころか、祖父の死以降は年端も行かぬ少年に祖父を殺させた忌まわしい道具であるかのように考えるようになっていた響の両親に対し、当時既に還暦を迎えていた名人は地に頭を擦りつけた。

 およそ現代の常識では考えられぬ近代前の意匠の如く、嗚呼この才能を儂にくれ、と。

 全ては響を喰らう為に、浅井十兵衛という将棋指しを乗り越える為に。――

「引導を渡してやりたい、それだけさ」

 同じ事なのだった。響も源太と変わらないのだ。

 響もまた、あの日燃え尽きていく祖父の生命が垣間見せた神の影、何よりも美しかったあの棋譜を、いずれ来る六角源太との対局に重ねている。




「おう慈乃、ハラにガキでも入ってんのか?」

 銀乃介にからかわれ慈乃は頬を真っ赤に染める。

「うるさいな、良いの。明日になればちゃんとへっこむもん」

 そう言って振り上げた手が銀乃介の背でいい音を立てる。

「でも本当に美味しかったわね、私も食べ過ぎちゃった。響、ご馳走様」

 出ている訳でもない腹をさすりながら千代が言った。

「これくらい良いさ、給料も増えるし」

 口座で眠らせておくばかりになるよりは世の中に回した方が良いだろうとは思っているのだが、いかんせん高校生の身では金の使い道などある訳もない。

「人前で言うもんじゃないわよ、そういうの」

「慈乃に追いつかれないようにな」

「まあ……頑張るしかないわよね」

「何の話してるの?」

 と、いつの間にか慈乃が寄ってきていた。

「ぼやぼやしてたらお前に追いつかれるぞって、千代のこと脅してた」

「何それ」

「三段リーグ、一発で抜けろとも言わないけど、居着いちまうと抜けられなくなるからな。お前なんか特に、普段からボーッとしてんだから、気を付けろよ」

 リーグを勝ち抜けずに停滞している人間の中には、のらりくらりと下級に居座っているプロよりよほどに強い人間も多い。実力はあっても長年の停滞で三段リーグの空気が染みついてしまった人種だ。

 慈乃は一寸考えるような間を見せた。その間こそが慈乃の気迫の足らなさの証明であり、響たちを不安にさせる。

「響ちゃんは私がプロになったら嬉しい?」

 こうした質問ですら平然と口にする。

 何が何でもプロになりたいという意志が慈乃には欠片も無い。響たちも既に何を言っても無駄だということを理解しており諦めていた。むしろ下手なことを言ってやる気を削ぐ方が良くないと。

「お前は、なりたいとか思わないのか?」

「プロとかは良く解らないけど、でも、響ちゃんと名人戦やりたい。家でするのも楽しいから、それが名人戦だったらきっと一番楽しいんでしょう?」

 真剣に将棋と向き合っている人間が聞けば激昂しても不思議ではない発言だが、天才とは得てして不条理な存在なのだろう。

「だったらプロにならないとダメだろ」

「だよねえ。なれるかな?」

「そんなこと、知らねえよ」

 何年付き合ってもやはり苛立ちは感じてしまう。

 乱暴に会話を打ち切った響に慈乃も機嫌を損ねたことを察したのだろう、途端に大人しくなる。

 妙なところで敏感なヤツだと、そういうところがまた気に食わない。

「師匠倒して待っててやるから、お前もさっさとプロになれ」

 それでも無意識のうちに続いた言葉は、将棋指しとしての慈乃に対する評価の大きさが口を動かしたのだろう。

「うん!」

 途端に明るくなる慈乃の存在が、心の底から憎かった。

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