KAC3 老いとともにある獣

神崎赤珊瑚

老いとともにある獣

 数億年に一度生まれ、数十億年を生きるとされる、木星クジラ。木星の大気圏を泳ぐその一頭の傍らに、一人の人間が寄り添うようになったのは、関係者以外にはほとんど知られていない。

 あるとき二人は、衛星ガニメデの荘厳なオーロラの下で結婚式を行い、木星本星赤道域の雲の中に居を構えた。

 幸せに暮らす二人のもとに、久しぶりの客が訪れる。



 初老の大学教授が、かつての教え子の招待で、遠路木星までやってきている。木星圏は幾度も来たことのある教授も、木星本星は初めてだった。

 現在木星の本星にはヘリウム3の移動型自動採取プラント程度しか存在せず、公式には木星の居住人口は一人ということになっている。

 初老の教授は、玄関の呼び鈴を押す。

 上空を木星大気のジェット気流がすごい勢いで流れてゆく。しかし、空中に浮かぶ一軒家の周囲だけは、嘘のように静寂に包まれていた。

 何らかの空間制御技術を用いているのだろう。

 家の中から人の走る音がしたかと思えば、勢いよく扉が開け放たれた。

「おはようございますアメリアでーす!

 ああ、カルマンチク教授! わざわざお越しいただき恐縮です!

 ご無沙汰してます! お久しぶりです! お元気でしたか!」

 テンションが妙に高い、配慮して言い換えると、快活で歯切れのよい女性が現れた。

「うむ。三年前、惑星開発学会の環境改造分科会以来かな。

 たまたま木星圏にいるときに連絡をくれたんだ。

 恐縮されるほどの話ではない、よ。

 久しいな、イアハート君」

「アメリア、でお願いします。

 学生の頃は、ファーストネームで学生を呼ぶことを先生は絶対しませんでしたが。結婚してわたし、苗字なしのアメリアになりましたので!」

「ああ、そうだった。君の夫の木星クジラ氏とは、個体識別の概念が異なるのだったな。

 君らの結婚の立会人まで努めておきながら失念していた。失礼」

「はい。よろしくおねがいします。

 ではでは。中にお入りください。お茶入れますので。

 夫も仕事に出ていますが、夕方には戻ると思います」

「うむ。正直、ちょっと疲れているので、一息つかせてもらうと助かる」

 彼女は、笑顔で久々の客を自宅に招き入れた。


「このあたりは、治安がとても良くて。

 玄関の鍵を閉めずに出かけても、ここに越してきてから三年間泥棒に入られたことはないんですよ」

「そりゃそうだろうね」

 ここから最も近い人類の居住地は、木星の衛星イオで四十万キロほど離れている。

「それにしても、うまいなこれは」

「はい。木星茶です。

 ここから降りていくと、たまーに見つかるんで。

 私も、大好きです。ほっとする味ですよね」

 降りていく、と軽い調子で言われても、木星大気の超高温とか超高圧とか大丈夫なのだろうか。

 ガラスのティーポッドの中に沈む、光る未知金属の結晶片にしか見えない木星茶(?)を眺めながら、教授は、言いあぐねていたことを聞く。

「それで。私を呼んだ理由なのだが」

 途端にアメリアの表情が暗くなる。

「あのっ。

 あの氷結の衛星ガニメデまでお越しいただき、結婚式の立会人を努めていただいた先生には、最初にお話すべきだと思うんです」

 アメリアは、息を整え、真剣な表情で。

「わたし、夫と別れようと思ってるんです!」


「なるほど。

 木星クジラ氏の浮気が疑われているのか。うむ」

「そうなんです! ヒドいんです!

 わたしに内緒で年上のメスクジラのところに行ってて!

 なにしに行ったのか、全然わからないんです!」

 人類が把握している範囲では、アメリアと結婚したオスの三十メートル級木星クジラが推定五千万歳で最も若く小さく、次に若い個体は確かにメスだったが推定三億歳で五千メートル級だった。

「浮気相手が年上の女といっても二億五千万歳上ってのは迫力が違う」

「先生! 聞いてますか!」

 テーブルの上には、いつの間にか木星ウイスキーや木星バーボン、木星日本酒などの空き瓶が列んでいた。

 教授カルマンチクは、嫌いではないはずだが、酒類に大して手を付けていない。一方のアメリアは手酌でどんどん空けていっている。昼間っからすごいペースだ。

「聞いているよ。

 ――そこまで言うなら、別れてしまえばよい」

「えっ」

「もともと難しい話だったんだよ。

 異種間の婚姻とは、非常に困難が伴う」

「えっ」

「火星の竜族、土星の珪素スライム族、あとはよくわからん金星の機械の塊の連中もそうだが、言葉などによる意思疎通が出来る知的生命体同士でも婚姻というものは中々に難しい。

 我々地球人類からの視点だと、交配可能な程度に近い水星の妖精族とですら、結婚しても互いに抱えている文化的背景の摩擦からうまくいくことは少ない」

「何を、おっしゃりたいのですか」

「木星クジラとは、木星の成層圏を泳ぎ生活圏としているクジラ型生物だ。人類の観測技術が充分進展するまでは、木星の浮遊大陸と思われていた存在だ。

 二十億年ほどで地球のオーストラリア大陸程度の大きさまで育つ。

 我々のもつ『生物の枠組み』すら広げてしまった程の存在だ。

 先の君の名前の話もそうだが、そもそも、認識が違う。言葉が違う。おそらく思考の基本構造アーキテクチャから違う。彼らとは、文化的背景が全く違うんだ。

 残念だが、最初からうまく行くはずがなかったんだよ」

「そんなこと。ありません!」

「木星クジラが、今の所、太陽系の知的生命体の一つと数えられてないのは、我々とは違いすぎるからなのだよ。

 おそらく高い知能を持っているだろうが、我々にはわからない。

 そういう存在だ」

「確かに違いはあるかもしれません。

 でも、でも、わたし達はわかるんです。分かり合ってるんです。

 わたしが木星インフルエンザで寝込んだときも、つきっきりで看病してくれたし。

 結婚の記念にと、六方晶ダイヤモンドロンズデーライトの巨大結晶も危険を顧みず木星深くまで潜って見つけてきてくれました。

 最初から駄目だったなんて、悲しいこと言わないでください!」

「ふむ。そうか。そうなのか。

 正直に言うなら、我々の常識では、木星クジラと意思の疎通が出来るとは思えない。が、ね。

 しかし、君は出来るのだな。そうなのだね。

 そうならば、聞けばいい。真意を正せばいい。

 そうすれば、本当のことが明らかになるだろう。

 聞いてみればいい。なにしに他のメスクジラのところに行ったのか」

「わっかりました。

 そうですね。そうですよ。そのとおりです!

 ぐずぐず考えるばかりじゃなくて! 聞いてきます! 今すぐ!

 今、夫は仕事に出てますけど、すぐに行って聞いてきますっ!」

 アメリアは、眦を決し、ソファに転がっていた透明なヘルメットを被ると、

「しばらく、待っててください!

 飲み物はご自由に!

 戻り次第、ご飯に作りますから!」

 そのまま庭から木星の大気の中へ飛び降りてしまう。

 ……超高温とか超高圧とか大丈夫なのだろうか。

 普通の主婦の服装に見えたが、あれも実は最新の宇宙服だったりするのだろう。腰エプロンも対浮遊塵デブリ装甲かなにかになってるんだろう。おそらく。

「うむ。

 ようやく私も飲めそうだが。これは……」

 木星グサーノ・ロッホの瓶の中に漬けられてる芋虫は、一体どこ由来の芋虫なのだろうか、と訝しみながら、教授は封を切り自分の杯に注いだ。

「……これはうまいな。うますぎる」


「先生!」

「おかえり。アメリア君。

 表情を見るに。いらない誤解は解けたようだね」

「はいっ! 本当に、ありがとうございました。

 本当に、つまらない誤解での行き違いでした!

 わたしへのプレゼントについて、年上の女性の立場からの意見を頂いてただけでした。

 詳しくはご飯のときにでも。

 夫も、おいおい戻ってきますんで!」

「ああ。

 で、それは?」

「木星牡蠣と木星ムラサキウニです。

 美味しいんですけど、とっても、めっずらしいんですよ! 激レアです!

 先生、運が良いです!」

「う、うむ」

 五個ほど紐に繋がれ肩に担がれてるメートル単位オーダーの大きさの巨大牡蠣は、まあ、まだ一応分かる。

 だが、彼女の周りをウィルオーウィスプのようにぼんやり光りながら浮遊している三つの紫色トゲトゲボールは一体なんだろうか。


「うむ。

 うまかったなー。木星ムラサキウニ。

 危険で取れない木星バフンウニは、アレを上回る味との話だったが、一体どれほどのものであろうか」

 昨夜の教授は結局、帰宅した木星クジラ氏と意気投合し痛飲してしまった。

 教授は、地球人平均と比べて酒に弱いわけではなかったが、過ぎた酒量は、軽い宿酔ふつかよいをもたらしている。

「木星牡蠣もすごかった。生食も焼きもフライも隙がない。

 あれだけ巨大なのに、大味とは真逆の味だった。

 うむ。

 太陽系政府が観光業で本星を振興しようとしてた理由がよくわかるよ」

 思えば、アメリアと木星クジラ氏の馴れ初めも、アメリアが大学在学中に、木星の大気圏でクジラガイドのアルバイトをしたことだった。

 しかし、振興開始からたった数年で木星本星の観光は廃れてしまう。

 理由は明白かつ当たり前で、人間の視野だと木星に降りてしまうと巨大過ぎるのだ。木星観光は、仮想現実V Rで五感を再現された木星世界を巨視的に楽しむものとなり、実際に理にも叶っていた。

「しかし、これ食オンリーでいけるんじゃないか。

 うん、いけるいける。帰ったら政府あて意見書書きますかね」

「先生、お目覚めです?」

「うむ。起きてるよ」

「……」

「どうした?」

「先生!

 あの人が! あの人が!

 聞いてください、酷いんですよ!

 もう、別れますっ!!」

 またかよ。

 ここの夫婦は、たぶん、放っておいても大丈夫だろうけど、ね。とも教授は思ったが。


 結局、初老の教授は一週間逗留することになり。

 体重を三キロ増やして、帰っていった。



 数十億という生物でおそらく最大の寿命を持つ木星クジラは、代謝メタボリズムの象徴とされる。

 古いものは古くなり、新しいものと入れ替える必要がある。

 生物だけではない。惑星も社会も、組織をもつ概念ならば、老いからは逃れられない。

 全ての老いを、死を、見続ける存在。それが木星クジラだった。


 億倍も寿命が違う二人が出会い、そして結ばれて共にあることも、なにか重要な意味はあるのだろう。

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