生きること

新座遊

地震発生

出勤途中の地下鉄。隣の若者の耳から雑音のような音楽が漏れてくる。

イヤホンのコードをチョン切りたい気分だが、あいにく、もともとブルートゥース製らしく切るべき物も見当たらない。電波をジャミングする機器があれば絶対に使うんだがなあ、と忌々しく思う。我ながら我慢が足りない。

目の前の座席に座っている女性を見ると、膝の上に抱える大きな籠を覗き込みながら、「もうちょっとだから我慢してね」と囁いている。どうやらペットか何かを連れているのだろう。我慢をしろという言葉を我がことのように感じて、一人苦笑いをしてみる。


と、突然、人々のスマホが緊急地震速報を奏で始めた。ほぼ同時に電車はスピードを落とし、駅と駅の中間あたりで停止した。急停車というには優しい止まり方だなあと感じた瞬間、横揺れを感じ、眩暈のような感覚から始まって、徐々に強い物理的な振動に育っていく。警報音は止まらず、どこかの女性の悲鳴が不協和音のオーケストラを演じる。


この揺れは直下型ではないから大丈夫、と思った矢先に、車内の電灯が仕事を放棄した。停電である。非常灯もつかない。完全な暗闇になるかと覚悟したが、スマホから零れる僅かな光が、そこここで星明りの夜空のような淡い灯を揺らせる。


しばらくは揺れに任せて様子をうかがう。今逃げまどってもパニックになるだけだ。日本人の性格のおかげか、周りの人々もそれほど焦った雰囲気にはなっていない。いや、たぶんそれなりの割合で外国人も乗っていると思うが、誰も叫んだり狼狽えたりしていない。悲鳴を上げていた女性も、すでに落ち着いて次の行動に備えているようだ。正常性バイアスという言葉を思い出すが、それの何が悪いのか。

ニュースサイトを見てみる。速報として、地震発生の文字が見える。情報源が確保できれば、心理的な安心感がある。


 落ち着いている人々の態度を誇りに思う、などと心の日記に書き込もうとした瞬間、どこからか声が聞こえた。

「まじかよ、圏外になってるじゃねえか。どうなってるんだよ」


それをきっかけにして、人々は慌て始めた。「ニュースが見えなくなった」「とにかく外にでろ、早くドアを開けろ」などとどなり声があちこちで上がり始め、スマホの僅かな明かりを使ってドアコックを探り当て、車両からなだれ落ちるようにして飛び出ていく。悲鳴が上がり、パニックになった。

 第三軌条方式の地下鉄で迂闊に飛び出るのは危険極まりない。いや、どうせ停電しているのだから感電することはないのか。しかし線路に降りたところで解決する話でもないだろう。まずは停電が復旧するまでは車内に居たほうが安全のはずだ。

 だがいつ復旧するのか定かではないのでスマホの電池を照明で消費するのが得策とも思えないため、自分のスマホは電源をオフにしようかとポケットから取り出したその瞬間。


「トンネルの壁がないぞ。どうなってるんだこれ」

 という声が外から聞こえてきた。人間は危機的状況になると、ちょっとした違和感を過大に捉えることがある。たぶん勘違いだろう。この声に従って一緒になって騒いでもよいことはない。とはいえ、窓の外を見てみる。

暗黒のトンネルの全容は把握できないが、人々の点灯させる蛍の光のような淡い光は見える。壁の近くに寄れば壁は見えるはずである。しかし、光は闇に吸い込まれていき、光を反射させるべき何物も見当たらない。

まあ集団心理による錯覚であろう。そうに違いない。

いや、待てよ。そもそも携帯の基地局は停電に備えてバッテリーでも動作するはずで、そんな簡単には機能停止はしないだろう。なぜ圏外になったんだ。基地局への回線が途切れたのか。しかしそれならしばらく圏外にならなかったのは何故だ。


人々の多くは車外に出て、それぞれの方向に歩いていく。それぞれの方向。列車の前方や後方だけではなく、トンネルの壁があるはずの方向にも、四方八方。

トンネルが崩れたのか。しかしそこまで壊滅的な揺れではなかったと思うが。


目の前の女性が、話しかけてきた。

「落ち着いていますね。みんな慌てているのに」

「落ち着いているように見えますか。いや、この暗闇で見えますか」

「見えますよ。私、暗闇に強いんです」

「あなたこそ落ち着いていますね。暗闇に強いってのは本当なんでしょうね」と返答しつつ、相手の顔をよく見るために、自分のスマホの懐中電灯アプリを起動した。


目の前にフクロウがいた。


「わっ、フクロウが喋ってたのか。地震をきっかけに異世界に飛ばされたのか」

ちょっと混乱して変なことを口走ってみる。

クスクスと笑い声がフクロウの奥から聞こえてきた。

「フクロウは私のペットです。籠から出しただけです」

「なるほど、少し混乱したようでお恥ずかしい。しかしなぜフクロウをペットに?」

「暗闇の中で生き抜くために決まってますよ。わかりませんか」


わかるわけがない。しかし、地震で暗闇になり、停電になり電波も止まった状況であれば、何もないよりフクロウが居たほうが良いような気もしてくる。いやいや、そんなわけあるか。

「まさかとは思いますが、この地震の原因はあなたですか」

何を言っているのか訳が分からないが、この非現実的状況は何を言っても許されるような気もする。「いや、すみません、混乱して失礼なことを言いました」


「原因はともかく、この事態を収束させるには、フクロウが必要なんですよ」

「どういうことです」

「フクロウが切り札なんです」

女性は立ち上がり、フクロウとともに車外に降りて行った。

俺は慌てて彼女の後をついていく。そして、暗闇の世界の冒険が始まったのであった。もちろん生きるために。





 


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生きること 新座遊 @niiza

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