夢に墜ちる
比良野春太
夢に墜ちる
振り返ると、
戦友の顎から上は吹っ飛ばされているが、
これは夢だ。
何故なら梟がいるから。
同士の――同士だった屍に埋もれながら銃弾飛び交う戦地を這いずり、私は息も絶え絶えに灌木に身を埋める、枝にびっしりと生えた棘が私の頬を切り裂き、それを掴んでいた手のひらから血が滴り落ちるが、私の顔から笑みが消えることはない。
何故ならこれは夢だから。
梟は灌木を覆うように葉を広げる大木の枝に止まり、私を見下ろしている。ときおり首を百八十度回転させて羽繕いをしながら、まるで地上で行われている惨たらしい殺し合いについては興味がないらしい、死肉を啄む烏をただ観察している。
この梟は私の夢の証拠だった。
私の夢には決まって梟が現れた。幼いころからいわゆる明晰夢を見続けた私は、昔は現実と夢の区別がほとんど付かず、言葉を覚えるのも遅く、カンが強い、忌むべき子供として親族から忌避されていたが、ある日、駄目元で両親に連行された精神科医の下でこの『梟』を授けられたのだった。
医師はにこやかに笑って私に言った。
「いいかい、ぼっちゃん。
梟がいるのが、夢だ。分かるかな?」
幼い私にとってこれほど簡易に夢現を判別出来る方法はなかった。夢か現か分からぬ時は辺りをぐるりと見回してみると、橋の欄干や鏡に反射する己の肩や青空に梟が居り、それでこれは夢だと分かるのだった。
両親は私が大人になれば夢と現実の区別が付かぬ症状も治るものと考えていたようで、実際のところ、夢と現実の判別が付くようにはなったが、夢はより詳細に、現実に近付いていて、望めばどのような夢も精確に見ることが出来た。
そして、今日は戦争の夢を見ていた。
「『フクロウ』……フクロウ、私だ」
ふと、私の潜む灌木の茂みの向うから掠れ声で私のコードネームを呼ばれたので銃を構えたまま茂みを恐る恐る払いのけると、そこには瀕死の軍曹が俯せに倒れていた。私が無事であることに安どしたか、軍曹は訓練所時代には一度も笑ったことがないのに私に優しく微笑みかけ、それから大きな血の塊を吐いた。
軍曹は肺を撃たれたのか背中と胸から夥しく出血しており、呼吸すらままならないのか、ひたすら血を吐き続けて、もう吐く血もないのか、渇いた弱弱しい呼吸音だけが残った。実際には大砲の轟音が大気を震わせと小銃の小気味良い発砲音が絶えず響いて鼓膜を激しく揺さぶっているはずなのに、軍曹のかすかな呼吸音だけがやけにはっきりと聴こえるのはこれが夢だからか。
「軍曹殿!」
「私は………もう、肺をやられた、ご、も、死ぬだろう、……」
「そんな、軍曹、」
「軍曹じゃなくていい、もういいんだ……。
本当に、すまない、お前に、父親らしいことを、ご、ごふ、何もして、……やれ、なく、……」
そうだ。
そうだった!
この夢では軍曹は私の父なのだ!
父の背中を抱き抱え、お父さん、と声を掛けようとしたとき、父は既に息絶えていた。冷たくなった父をそっと地に置き、父の瞼を閉じてやってから、私はピクリとも動かぬ梟を確認して安堵する。大丈夫、これは夢で、私の本当の父親は定年を控えたエンジニアで、マラソンを趣味としているおかげかピンピンしているし、そもそも現実では戦争はもう長らく起きていないのだ。しかし、夢とは言えど父親が死ぬことは悲しいことに違いなく、気付くと私は涙を流していた。訓練所時代、教官でもあった父は私たちに「戦場では涙を見せるな」と言った。「敵国の猿どもは涙の匂いに敏感で、それを嗅ぎ付けられたら間違いなく死ぬ」と父は説明したが、誰もそれを真に受けてはいなかったし、実際それは父の嘘だったのだろう。
涙は枯れ、いつしか陽が沈むと銃声も疎らになった。
朝。
灌木の茂みに潜んでいた方が安全だと判断してここで一夜を明かした。こういう時、訓練所では「夜を徹して身を守れ」と睡眠を禁じられていたが、ここが夢だと知っている私は死ぬことを恐れずぐっすりと眠った。
戦況がこちらが不利だ。
見かける屍の山には圧倒的にわが軍の死者が多かった。
ふと、梟の止まっていた枝を見上げる。
梟がいない。
銃声が森の向うから疎らに聞こえた。
辺りの安全を確認してから茂みから這い出で、慌てて辺りを見回す。
すると――――居た。
灌木の茂みの隙間から、向うの小川で水を啄んでいる梟の姿を認めた。
小川は死体で溢れ、屍から流れる血が川の水を薄い赤に染めている。烏がやかましく鳴きながら死骸を突き、その間を縫うように白い梟が歩いている。
良かった、これは、夢だ。
安心して胸を撫で下ろした瞬間、大きな銃声。
撃たれた。
どこから?
そう思ったときにはもう遅い――てっきり私が撃たれたのかと思い、反射的に銃を手放して立ち竦んだが、大きな外国語での意味不明な叫び声がして、これは敵兵のものに違いない、その後、小川のほうから「『フクロウ』!」と私のコードネームを呼ぶ声。
銃を持ち直して小川に向かうと、
そこにはコードネーム『カラス』が居た。
「『カラス』! 無事だったか」
「『フクロウ』! お互い無事でよかった」
息が上がっているカラスの足元には、二人の敵兵の死体があった。
「お前がやったのか」
「ああ、あいつら、梟を見つけて――あ、これは鳥のほうの梟だぜ、物珍しさに小川に下って来たからよ、あっち川の岸の茂みからまず一人目の脳天をカチ割ってやったら、もう一人が発狂したのかな、たぶん羽をやった中毒者だったんだろう。
その場で梟を捕まえて喰い始めたんだよ、羽の上から、こう、がぶっと、だから一しきり笑わせてもらった後、そいつの眉間を一撃で貫いてやった」
どんなもんだ、と胸を張る『カラス』。
そんな馬鹿な、何してくれるんだ、何をしてくれているんだ、慌てて敵兵の屍をひっくり返す、すると、そこには真っ赤に染まった梟の死骸がある。梟、の、死骸、があって、梟の死骸があって、え、で、それで、梟の死骸が、あった。羽は千切れていた。首も食いちぎられた跡がある。死んでいた。梟は死んだ。辺りを見回す。青ざめた顔を心配してか『カラス』が何かを言った気がするがよく聞こえない。他に梟は。他に梟は。
いない。
じゃあ、これは、現実?
「どうした、『フクロウ』」
――『カラス』の声が遠い。
「良かった、それにしても、最期に二人も殺せたんだから」
――最期?
掠れた声で私は尋ねた、気がする。
「そうだ、お前には届いてなかったか。突撃だとよ。さっき命令が来た。ああ、こりゃ、負けるんだろうな。うすうす感づいてはいたけどさ、まあ、しゃあないんだよな? 俺たち。進めば敵兵に銃殺、引けば背信行為で幹部に銃殺なんだから、まあ、もう、な。あーあ、酒、酒、飲みたかったな。どうせなら、死ぬほど酒、飲みたかった」
『カラス』は泣いていた。
私も怖くなって、立ち竦んで、その場で泣いてしまう。
「おい、珍しいな、いつだってへらへらしてたお前がガキみてぇにわんわん泣きやがって、なあ。おらぁ、てっきり、お前は死ぬのなんてなんともないと思ってやがると思ってたぜ。前だって、戦場の真っただ中でフクロウが見えるとか言いやがってふらついてたりよ、それがどうだ、どうしてそんなに泣いてるんだ」
――死ぬのが、怖いからだ。
――もう夢じゃないのかもしれないからだ。
私は泣きじゃくって鼻水を垂らし、そう言った気がする。
左手に持った梟の死骸は血を流し続けて軽くなる。
「『フクロウ』、お前――――」
『カラス』は何かを言いかけて、止めた。
それから慌てたように彼は涙を拭って、表情を引き締める。
「邪魔だよ、『フクロウ』。見損なったぜ、お前。
覚悟がない奴は戦争に行くなって、軍曹が、てめぇの親父が言ってただろ。お前には覚悟がねえ。どうしちまったんだ、本当? いいか、本当ならお前を殴って正気に戻したい。だか、俺はそれをしねえ。お前には幾度となく、お前の、その、蛮勇に命を救われてきたからだ。最期の、情けだ。
好きにしろ。
俺は行く」
――待ってくれ!
涙で霞んだ視界に『カラス』は離れてゆく黒点として映った。
私は手を伸ばして気がする。
それで、待ってくれ、と言ったのだ。
いや、そうではないのかもしれない。
私は彼と反対方向に駆けだしていた。
私と彼は、死肉を覆う烏たちを蹴散らして、走った。
それから、彼の走り去った方向から、銃声と、爆発音だって聞こえたのだ、あれはきっと、最終手段として用いるように指示されたダイナマイトを『カラス』が起爆させた音に違いない。音はだんだん遠ざかる。
そして、
「『フクロウ』! 貴様、何をしている!」
ついに私は本部の野営地まで戻っていた。
上官にいきなり腹と耳の辺りを殴りつけられ、胃液を吐き、それでもなお、両手両足の震えは消えなかった。
怖かったのだ。
怖い。
死ぬのが。
もしこれが、夢でなかったら? と、考えると。
「突撃の命令が出ただろう! 突撃せんと、背信行為として銃殺刑だぞ!」
「すいまぜん、ずいまぜぇん、でも、でも、怖くて、こわ、ひ、ひっく」
「『フクロウ』! どうしたんだ、お前!」
仰向けに転がされ、上から上官に唾を吐かれ、
そしてその先の青空には戦闘機がせわしなく行き交っている。
そして、
「……梟だ」
そこには、
夥しい数の白い梟が飛び立っていた。
「『フクロウ』、あの白い梟の群れを見ろ! 果敢に敵地に突っ込んでくぞ。見習え! あの梟はな、現地語で『夢』というんだが、どうやら羽に幻覚作用があるらしくてな、敵兵は羽をやっている奴が後を絶たず発狂して壊滅状態だ、あと一息だ、お前の力が必要なんだ、出来るな、なあ、出来るな! 『フクロウ』!」
――やった。
――梟だ!
駆けだす。
夢だ。
夢だ。
これは、夢だ!
ついつい嬉しくなって、鼻歌混じりにそう叫ぶ。
直ぐに敵兵の集団を見つけて、
私は大笑いするだろう。
梟の羽をキメたのかと思われるに違いない、
そして爆弾のピンを外しながら、私はこう思うのだ、
――ああ、スリルがあって、悪くない夢だった。
夢に墜ちる 比良野春太 @superhypergigaspring
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