COME HERE

宇部 松清

『カム』という名の

 小学3年生の頃、犬を飼ってた。

 名前は『カム』。


 学校から帰って「カムー! ただいまー!」って叫ぶと、風のように駆けてきて、飛び付いてくる。犬種はたぶん雑種。いまなら『ミックス』なんていうのかもしれない。狼みたいな顔の犬で、じいちゃんが山で倒れているのを保護したのだという。その当時で既に結構な大きさだった。


 だから、あんまり長く一緒にはいられなかった。そんなにたくさん散歩をした記憶もないし、ただ学校から帰ってきて名前を呼ぶと嬉しそうに飛びついてくるから、とにかく庭でじゃれ合ってただけ、というか。でも、大好きだった。家族というより、親友みたいな。


 カムがいなくなってから家は良くないことばかり起こった。ほんとに、こう、何て言うんだろ、坂道を転げ落ちるように――って言葉がぴったりなんじゃないかってくらいに。コロコロと、コロコロと。

 まぁ、財布を落としたとか、行事の前日にインフルエンザや盲腸とか、それくらいのは毎月ペースであったけど、極めつけは――、


 じいちゃんが飲酒運転の車に跳ねられて大怪我をしたこと。


 それで母さんがつきっきりで世話をしなくちゃいけなくなって、父さんとしょっちゅう喧嘩をするようになった。

 自分のせいで息子夫婦が喧嘩ばかりになってしまったとじいちゃんは元気がなくなってしまって、あっという間に呆けてしまった。

 それから何年か経ってじいちゃんは亡くなってしまったけど、父さんと母さんの仲は直らなかった。


 直らなくて――、


 別々に暮らすことになった。

 いや、ただ単に別々に暮らすってだけじゃないっていうか……その……つまり……離婚したんだ。


 わかってる。

 別にカムがいなくなったからってわけじゃない。

 だけど、タイミングっていうのかな、ほんとにカムがいなくなった直後だったから、カムはもしかしてウチの守り神っていうか……そこまでじゃなくても、悪いものを追っ払ってくれる番犬とかだったんじゃないのかなって。


 父さんと二人っきりになって、冗談でそんなことを言ったら、「じゃあ新しい番犬を飼わなくちゃなぁ」なんて寂しそうに笑うんだよ。ウチにはそんな余裕ないのにさ。だってお金ないんだよ、慰謝料だっていって、貯金ぜーんぶ持っていかれちゃったんだ。何でか仕事もね、辞めちゃって。だからいま思えば、父さん、浮気とかしてたのかも。でもさ、何でだろ、あんまり責められないっていうか。それくらい酷かったんだよ、家の中。外に安らぎを求めるのもちょっとわかるかなーって。

 いや、悪いことだってのはわかるけどさ。

 それでも母さんについていかなかった、ってところから察してほしい。

 まぁ、本当のところはわからないけど。

 

 で、新しい仕事見つけてきてくれたのは良いんだけど、まぁバイトだよね。

 だからさ、そりゃこっちも働かないと、ですよ。いやぁ公立の高校で良かったよ。私立だったらソッコー辞めてたね。朝は新聞配達でさ、学校が終わったらコンビニバイト。それが終わったら、留年しない程度に勉強して、さっさと寝る。朝早いからね。どうにか卒業だけはしたよ。


 そんで、働いて、働いて、働いて……。


 でもさ、稼いだ分はほとんど父さんの酒代に消えるんだ。

 仕方ないよ、飲まないとやってられないんだもん。別に欲しいものもないしさ、それで父さんが少しでも楽しい気持ちになれるなら……って思って。いや、違うな、怖かったんだ。素面の父さんと対峙するのが。ネガティブなことしか言わないから。あの時あの車が飛び出して来なけりゃ、ってそればかり。もうその頃にはカムの話だって笑って聞いてくれなくなってた。

 だけど、飲んでる時はさ、楽しい父さんなんだ。ずーっと笑ってる。笑って笑って、そのうち寝ちゃうんだ。


 そんな生活をしててさ。

 ある日、父さんは帰って来なかった。

 仕事の帰りにさ、交通事故で。ひき逃げだよ。犯人はまだ捕まってない。


 何だろうね。

 どうしてこんなことになるんだろう。

 何もなくなっちゃった。

 家族も、何も。

 ねぇ、カム。

 何もないんだ、もう。

 

 それでも生きていかなくちゃいけないんだ。

 自分の身内が一人いなくなっても世界は当たり前のように動いていて、朝も来るし夜も来る。だけどさ、こんなのってないと思わない?


 さぁ、これからは自分のためだけに働くんだ。

 自分の欲しいものを買ってさ、食べたいものを食べるぞ、なんて思っても。

 でも、欲しいものなんかないんだ。

 食べるものだって何だって良いんだよ。


 もう、一人なのが嫌だ。それだけが。


 カム。

 ねぇ、カム。

 君がいてくれたら寂しくないのに。

 別に神様じゃなくても番犬じゃなくても良い。

 君と一緒なら、ちょっとくらい悪いことがあったって良いんだ。


 なんて考えていた時だった。


 とりあえずこれだけはお情けで――ほんと『お情け』って言葉がぴったりだよ――奪われなかった自宅の前に、はいたんだ。


 小さなフクロウだった。

 倒れてた。

 死んでるのかな、って思った。

 勘弁してよ。

 ここウチの敷地内なんだから、片付けなくちゃいけないじゃん。虫ならまだしも鳥とかちょっと嫌だよ。


 でも、生きてた。

 ふかふかの羽毛がさ、上下に動いてたんだ。


 ちょっと待って。生きてるなら話は別。

 とにかく、保護!

 あ、あと、手当!?

 それから? それからどうしたら良い? じゃなくて、とりあえず獣医さんに連れて行かないと!! でしょう?


 ……で。


 まさかこんなに元気になるなんてね。

 本当に良かったよ。

 エサはちょっと高いけどさ。大丈夫、父さんの酒代に比べたらね、よっぽど建設的っていうか……建設的、で合ってるかな?


 名前はね、カムにしたんだ。

 だってカムのこと考えてる時に出会ったからさ。もしかしてカムの生まれ変わり、なんて思ったりして。

 

「カム、おいで!」


 そう言うと、やっぱり、ぴゅう、って飛んでくるんだ。頭を撫でさせてくれるんだよ。まん丸の目を細めて気持ち良さそうな顔をする。そんなところまで似てたりして。


 

 一人だけどね、もう寂しくない。

 働いてくたくたになって帰っても、カムが出迎えてくれる。


 嬉しいなぁって何日か過ごして、ある夜、眠る前にふと考えた。


 どうしてじいちゃんは『カム』って名前を付けたんだろうって。

 聞いたことがあるような、でも、思い出せない。いや、やっぱり聞いたことなかったかも……。


 

「久しぶりだね、久世ひさよ


 もやもやとした霧の中で、そんな声が聞こえた。


「久しぶりって、誰?」


 まぁ当然の返しだと思う。

 あ、久世って私の名前。


 するとね、そのもやもやの奥の方からまた声がするんだ。


「カムだよ」


 ってね、そう言うわけ。

 そりゃ信じ難いけどさ。

 でも何でだろうね、ああそうだねって思った。聞いたこともない声なのに、懐かしい感じがするんだよ、不思議。


「天に戻ってしばらく過ごしてたんだけど、久世が大変なことになっているのが見えてさ」

「見てたんだ」

「ずっと見てたよ。だけど私は神だから、そう簡単には下りられなくてね」

「カム、本当に神様だったの」

「そうだよ。あの時は、犬の肉と毛皮を纏って下りて来てたんだ。久世の家は悪いものが集まりやすいから」

「カムは番犬しに来てくれてたの?」


 まさか神様でも番犬でもどっちでもあったとは。


「そう。地上にいる間は神の力は使えないけど、睨みをきかせるくらいは出来るから。だけど身体の寿命が来て、帰らなくちゃいけなくなってさ。そしたら、途端にあれでしょ? あまりにも久世が可哀想って思ってさ。何度も私の名を呼んでくれたし」

「名前……うん、呼んだ。呼んだよ、カム。だって会いたかったもん」


 そうか、カムは『神様カムイ』のカムだ。

 じいちゃんはきっと知ってたんだ。

 

「それで、今度はフクロウの肉と羽毛を纏って下りてきた。この身体の寿命が尽きるまで、必ず久世を守るよ」

「ありがとう、カム」


 カムが戻って来てくれたから、これからはきっと悪いことは起こらないんだろう。いまはただのフクロウでも、カムは神様だから。


 だけど。


「だけどさ、カム。無理に守ってくれなくても良いんだ。カムが普通のフクロウでもね、私は心強いよ。カムがいるなら悪いことがあったってきっと乗り越えていける。だって私達、親友でしょ」


 もやもやに手を伸ばして、そう言う。


 悲しいのは、

 寂しいのは、

 悪いことばかりが起こったからじゃない。

 一人になったからだ。


 悲しいね、

 寂しいね、って

 一緒に泣ける人がいなかったからだ。


 だけどもしカムがいてくれるなら、大丈夫。

 

「カム、今度は長生きしてよね」

「大丈夫。そのために雛の姿で下りたんだから。案外長いんだ、フクロウの寿命は」

「そっか。それじゃ、しばらくは一緒にいられるね」


 もやもやが、ぎゅう、と集まって形になる。

 丸い、ふくふくのフクロウの形に。


 その形を捕まえて、そぅっと撫でる。

 ふかふかの羽毛を、ゆっくりと。


 するとやっぱりカムはまん丸の目を細めるのだ。

 

 ありがとう、私の親友。

 これからは君とたくさん笑おう。


 

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