第3話 道を学び己を成す 西遊日記3
平戸へ入る
翌14日、晴。目的地である平戸の城下へこの日に入る。
遊学の目的は、兵学の原点ともいうべき山鹿流を学ぶとともに、戦法の研究、新兵器の知識を学習することにあった。しかし、大次郎は、中国大陸で起きたアヘン戦争とその後に締結された不公平な南京条約の事件をわが身、わが国のごとく感じとっていた。むしろ関心はアヘン戦争の状況と条約、アメリカ、フランスの動向にあったはずだ。
19世紀半ば、イギリスと中国は貿易において不均衡が生じていた。対中貿易は輸入超過でイギリスの貿易は赤字であった。ちょうど、トランプ政権が誕生して、中国の輸出超過による貿易黒字が問題視され、累積した赤字を埋めるためアメリカは相次いで中国製品に対して関税をかさ上げする措置をとった。一方、中国もこれに応じて米製品に対して追加関税をかけるなど「米中貿易戦争」と呼ばれる泥仕合の様相を呈している。この問題と似ているが、英中間の貿易摩擦は趣きを違えている。1834年以降、中国の輸出超過が顕著となっていたが、イギリスは自国の貿易赤字を穴埋めするため、インドから中国への輸出超過によって帳消し、利益を出すシステムを構築していた。対中貿易赤字では公的には強面で中国に接し、裏では清朝皇帝の側近や幹部を贈賄で手玉に取っていた。インドから中国へ輸出していた製品がアヘンであった。これを中国人貿易商に高く売りつけ、吸引した中国人はアヘン中毒にかかり、社会は退廃していった。こうなると、人間の持つ狡猾さが発揮される。中国名産の紅茶、さらに銀までアヘンで巻き上げていった。イギリス人貿易商は抱腹絶倒の心地よさであったであろう。有能な官僚である林則徐らがアヘンの輸入を取り締まると、武力をちらつかせて皇帝を脅迫した。権威だけの皇帝がビビる弱点を良く知り尽くしていたので、敵対する官僚を左遷させることなどいとも簡単にできた。自国の国益を守るためには手段を択ばないのが外交の常識とはいえ、アヘンを使うとはイギリスもえげつな過ぎる。
こうして、1840年、イギリスの挑発に乗ってアヘン戦争が勃発する。しかし堕落の極みにあった清朝皇帝は敗北し、南京条約を締結してしまう。中国国内は混乱し、これにアメリカ、フランスが便乗、追随して喰い散らかしたのである。日本も同じようになるのではないかという
大次郎の日記には、野元弁左衛門と会ったとか、葉山左内から本を借りて読んだとか、日常の行動や観察は細かに記録されているが、何を論議したかが抜けている。もっとそれが日記の欠如する部分であり致し方ないのであるが、その裏を読んでいかないと人間大次郎が我々にはわからない。一番関心が高い問題は、アヘン戦争と南京条約の最新の情報であり、欧米の日本に対する動向である。日本として、いかようにすべきか熱い議論が戦わされたに違いない。
平戸では、さっそく陽明学者として名高い平戸藩の葉山左内の塾へ赴き入門を申請し許可されている。左内から王陽明の「伝習録」並びに左内が著した「辺備摘案」、それに佐藤一斎の手紙を借り受け書写している。
翌日15日には、同藩士野元弁左衛門から「聖武記付録」を借りて、それぞれ筆写、耽読している。
ところでこの野元弁左衛門は、平戸藩士で石高50石、御合力米30俵で中級クラスの家臣である。文化5年、家禄を相続したのち、文政2年に近習、同8年小納戸頭、同11年御城方役頭、天保4年壱岐国郡代、同8年藩校維新館御目付、翌年御船奉行などを歴任し、その実績が認められ、天保12年7月に御使番、長崎聞役に任命された。松陰が来崎した際は、野元は御使番兼長崎聞役の職にあり、先に触れたようにオランダ船からもたらされた最新の海外情勢に精通していた。日記を正直に読めば「聖武記付録」だけ借りたこととなるが、とても鵜呑みに出来ない。松陰は先の山縣アヘン戦争が始まった直後に長崎聞役に任命されている。聞役とは世界情勢の情報収集を行い藩主または幕府へ伝達する役目で、特に家格によって任命さるのではなく、中級以下の武士でも能力に応じて登用され、家老、用人に準ずる立場、地位にいた。
18日、晴。山鹿万介(素行の子孫)が主宰する積徳堂に入門する。遊学の目的である山鹿流の兵学を学ぶためで「大いに本源を極め」たいと願書に希望を述べているが、講義は形式ばったもので、日本に突き付けられた外交、軍事問題に直結するような生きた学問、今すぐにでも役に立つ講義はなかったようだ。というより、山鹿流の兵学は古典と化しており時代遅れと実感したようだ。
以降、日記には宿舎である紙屋から積徳堂と葉山邸を往復しながら中国における欧米列強の動向、最新情報を見聞きしたであろう。1840年から42年にかけて勃発したアヘン戦争を詳述した「阿芙蓉彙聞」や「近時海国必読書」を平戸藩砲術師範豊島権平から借り受けて数日間で完読し抄録している。
一時、体調を崩しながらも、平戸滞在中のおよそ一月半は、葉山左内邸を拠点に、日々、平戸藩士や通詞、中国人などと面会してイギリスを筆頭とする欧米列強による中国大陸の侵攻状況の把握と、軍事に関連する書物の閲覧と書写に費やしている。正に短期間で五感をフル回転させ情報を収集、消化していったが、これらの情報や知識の吸収が軍学者吉田大次郎を形成するうえで非常に大きな影響を与えた。おそらく古典となった山鹿流兵学を学ぶよりも、中国で起きている事態が大きく刺激的であったに違いなく、日本の危機をさらに強く持つようになった。
大次郎は、11月5日まで平戸に滞在したあと、6日の午後、早船に乗り、時津から浦上を経由して8日の夕刻に長崎へ戻った。
長崎では大村湾を船で周遊し番所や大砲を備えた台場など見学しているが、一方で「新策」「国姓爺忠義伝」などを読破している。大次郎は、11月いっぱい長崎に滞在しているが、その間、唐通詞の鄭勘助とはたびたび会っており、中国語を習ったり漢訳について質疑を行っている。このときに鄭勘助から中国、満州の状況など海外事情についてつぶさに聞き出したようだ。
12月1日、晴。長崎を出立し、島原では砲術家でカノン砲を鋳造した実績を持つ宮川度右衛門、弓術の兵学者生駒勝助と面会している。熊本では、藩校時習館も砲術師範池部啓太、同じく山鹿流兵学師範宮部鼎蔵と意見を交わし、意気投合し大いに得るところがあったらしい。
旅人 ー吉田松陰・土屋鳳州・河口慧海ー @wada2263
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