第2話 道を学び己を成す 西遊日記2

 長崎に至る


 翌日の5日は晴。西の箱根と言われる日見峠の七曲りの急坂を喘ぎながら越えて長崎へ入る。出立から2週間を経てようやく長州藩の長崎屋敷へ到着した。

 6日、晴。長州藩士で砲術を習いに来ていた郡司覚之進ぐんじかくのしんの案内で高島邸を訪問する。高島流砲術家の始祖として名高い高島秋帆たかしましゅはんの屋敷であるが、天保13年に長崎会所の経営を巡り、鳥居耀蔵の讒言ざんげんによって捕られ岡部藩預かりとなっていた。大次郎は跡を継いだ息子の浅五郎と面会した。午後は船を借り出しオランダ船や唐船などを見て回り、帰港後、崇福寺そうふくじで清人の墓地、晧台寺こうたいじに荻野流砲術家坂本天山の墓に詣でている。

 7日、晴。平戸聞役の山縣三郎太夫やまがたさぶろうたゆうより、朱子学の三宅観瀾みやけかんらん著「中興鑑言ちゅうこうかんげん」を借りて読んだと日記にある。

 平戸聞役とは平戸藩の長崎聞役のことで、長崎に来航するオランダ船などから海外情勢を収集し藩主に伝える重要な職務を担っていた。長崎聞役は平戸を初め、薩摩、熊本、佐賀、対馬、大村などの各藩に置かれ、山縣は前年の12月から、のちに触れる野元と交替し長崎に出向いていた。長州藩では山縣某が長崎聞役を担っていたが山縣三郎太夫と同族であろう。聞役の家格は家老、用人に次ぐ使番に相当する。大次郎が山縣から本を借りたのは事実であるが、長崎聞役として、中国とイギリスとの関係を中心に最新の海外情勢を収集していた山縣から何も聞かなかったとは到底思えない。大次郎は、日記には残せない極秘情報を山縣から聞き出していたはずだ。

 8日、晴。平戸藩御用達の商人吉川俊蔵宅に至り、砲術師範豊島権平と面会した。積徳堂への入門をすでに打診していた大次郎は、権平から平戸での滞在先や訪問先などのアドバイスを得たようである。この日、同行してきた従者新介を実家へ帰宅させている。

 9日、晴。中国人居住地(唐人屋敷)へ行く。オランダ人居住区にも立ち入り、薬園や砂糖の倉庫などを見学した。大木藤十郎を訪問する。藤十郎は天山から伝習した荻野流砲術と高島流の西洋砲術を極めたことで著名な人物である。

 10日、晴。佐賀藩儒者古賀侗庵こがどうあん著「海防説階」を書写。武井茂四郎、大木藤十郎、中村儀三郎、高島浅五郎、吉村年三郎らを訪ねる。

 11日、晴。藤十郎を再び訪れ、福田耕作、オランダ通詞らの案内で長崎湾に係留されていたオランダの貿易船に乗船し船室や大砲などを視察。オランダ人からぶどう酒ともち菓子をふるまわれている。船腹に設置された18段の梯子が気になったのか記録にとどめている。夕刻、覚之進らに見送られ平戸へ向かう。

 13日、雨。佐世保へ入る。険しい道の連続で兵学師範の大次郎も音を上げた。

 「是の日の艱難かんなん実に遺忘いぼうすべからず。一には、八里の間、皆山坂険阻の地なり。二は、雨に依りて途中傘を買い煩を添う。三は独行踽々どっこうくく、呼びて応うるものなし。唱えて和するものなし。四は、新泥滑々しんでいかつかつ行歩遅渋ぎょうほちじゅうす。五は、夜に入り宿に至り、宿すべき家なく、徘徊周章はいかいしゅうしょうし、終に庄屋の家に宿す。その他の艱難枚挙にえず」と記している。その上、佐世保に杖を忘れたことに気が付き取りに帰り、道を尋ねた医僧から間違った道のりを教えられたりと、踏んだり蹴ったりの一日であった。日が暮れて困っていたところ、偶然に平戸の人と出会いようやく江向の庄屋の宿へ入れた。

 杖といえども忘れ物とは兵学師範としてはいかがなものかと思われるが、山縣や大木の最新情報を聞いて、より一層に、この眼で見て、耳で聴き、嗅覚で、肌で感じ取ってきたい、武器の威力と製造技術を、欧米の戦法をという思いを強く持ったのであろう。欧米列強は台風のように日本の鼻っ先まで来ているのだから。


 

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