旅人 ー吉田松陰・土屋鳳州・河口慧海ー

@wada2263

第1話 道を学び己を成す 西遊日記1

 筑前から肥前へ


 吉田大次郎、のちの松陰は、家族や友人らに見送られて清水口の実家を出立した。

 嘉永3年(1850)8月25日、新暦の9月30日、初秋を漂わせる風がさわやかな朝であった。

 大勢に見送られ颯爽と歩き出したのはいいのだが、気負いすぎた大次郎は翌日、さっそく馬上の人となり、さらには熱を発してダウン。下関の伊藤木工助の家で28日まで養生することになってしまった。気は急くのだが体がついていかないとはこのことで、藩校明倫館の兵学師範としては、いささか準備不足で面目を潰した感がある。しかし、誰よりもこの日本が直面する危機がそこまで来ているこを理解し、それを心で受け止めていたのだから、急くのは致し方ない。

 29日、晴。伊藤家を辞した大次郎は船で関門海峡を渡り門司に上陸した。

 初めて見る土地すべてが新鮮に感じたのであろう、兵学師範らしく、停泊する薩摩船の様子、また外敵の侵攻を阻害した地形になっているとか、侍屋敷や商家など城下町、河川や橋の状況、街道に建つ道標、田畑、土壌の良し悪しなどに至るまで、なんでも目に留まったものは詳しく観察して記録した。

 9月2日、雨天の中、佐賀城下へ入った大次郎は、書物を読む童子らを見て「実に文武兼備の邦とみゆ」と称賛している。「ひそかに人気を察するに、筑前人は便佞べんねいにして精神凝定せいしんぎじょうせず、肥前人は剛直にして精神凝定」しているとし、福岡の人は口が上手いが、佐賀の人間は信念を曲げないがんこさがあり精神力で優っていると評している。

 3日、雨のなかを田原坂を上り下った。

 晴天になった4日は、大村湾の海岸沿いを彼杵の千綿にでる。山手には茶畑が望めた。ここで水車を見た大次郎はその造りに関心を抱いたのだろう。「其の制を塾観す。水車三用あり、一はすりうすなり、二はふるいなり、三はつきうすなり。磨を主用とす。一日の間、小麦10俵計りを粉すと云う」と生産量まで聞き出している。そして大村へ入るが、農家は畑が多く一年のうち半分はサツマイモを主食としているということまで書き留めている。


 

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