或る憂鬱な季節の終わり

鹽夜亮

第1話 或る憂鬱な季節の終わり


 真っ黒の空間の中に人が閉じ込められたのなら、その人は周囲は視認できるのだろうか。人の視覚は光を得て初めてその機能を発揮する。ならば、黒を黒として認識するのは、光があるからだろうか?それとも光のない状態で視覚が何かを捉えようとすると、それが黒として認識されるのだろうか?


 私は黒い海を漂う。光は届かない。故に、周囲には黒しか存在しない。私のこの視覚が機能していると信じているが、黒以外は何一つとして認識できない以上、瞼の奥に眼球が据えられているかさえ疑わしく思える。

 光の無い空間で、私は私を認識できないで、それでも確かにここに私が存在すると私は信じる。

 視覚以外の嗅覚、聴覚は正常に機能し、それは確かに周囲の情報を集めようと躍起になっているが、集まるものなど微々たるものだ。所詮、それは視覚が伴わない情報でしかない。

 例えば、この暗闇の果てのどこかから声が聞こえても、それがどれほどに甘く優しい言葉だったとしても、私が安心することは決してない。それを発した生き物が、どんな表情をしているのか、今の私にはまったくもって理解することができないからだ。嘘や上辺だけの言葉ならば、五感を駆使して聞き分けることができるだろう。しかし、今の私にその表情をうかがい知るための視覚はなく、雰囲気を汲み取るための五感も満足にそろっていない。声だけで人の善悪を識別できるほどに、私は成熟した覚えはない。また、それほどに第六感とでも呼ばれるであろう直感などというものが発達した憶えもない。

 視界が何も捉えないということがこれほどに苦痛だとは、思わなかった。

 皮膚から伝わる冷たい感触が、私の両足が何かの上に存在していることを主張してくるが、そこから音はしない。欠片ほどの匂いもしない。無論、地面だと確認する視覚はない。

 だから、私にはそれが地面だと確信する術がない。

 この空間の大きさや、形さえも把握することのできない私には、何をすればいいのかさえも分からない。

 心は正常だ。そう思っても、ここに私以外に会話のできる生き物など存在しえないのだから、正常に精神が働いているかも確かめようがない。どうしようもない孤独の海は、果てしなく続いているようにも思えるが、あるいは私の周囲数メートルだけなのかもしれない。

 それに光が失われた世界に居るのではなく、もしかしたら私が視覚と呼ばれる機能を喪失してしまっただけなのかもしれない。

 記憶はある。光に包まれた世界は美しく、そして輝いていた。しかし、それだけではない。この暗闇の世界には存在しないものの中には、私を辟易とさせたものも数多く存在した。

 私のかつて生きていた世界は美しかったが、その中に存在する生物は、善悪をともに持ち合わせたものだった。私にはそれが堪らなく苦痛だった。知らなければ幸せなことさえも私の視覚と脳は感知し、それに反応を返す。そのルーティンは無意識に繰り返される。

 表情を窺い、自らが他者から嫌悪されないように立ち振る舞い、関係もないことに対しても気を遣い、辟易とする。そんな日々を繰り返していた私は、酷く疲れ、そして、その光に対しての嫌悪感は日々募っていった。そのあとのことは、よくわからない。

 この世界に、私が居る理由はわからない。誰かが私を閉じ込めたのかもしれない。それとも光を嫌った私が自らの視覚を断ち切り、他者の侵害しない空間を作り上げたのかもしれない。

 今までの記憶から、他者のことはある程度理解できる。その生き物が何を考えて、何を目的に行動するかを推察することはできる。しかし、私に自分という存在の目的や存在意義を認識することはもやはできなくなっていた。


 何故ここに居るのか。何故光は失われたのか。

 それを自らの内側に問いかけ続けて、幾日か、幾月か。


 私の中の私という存在は次第に膨れ上がり、それは過去の私を覆い尽くすかのように押しつぶそうとした。他者が存在しないということは、自分へと干渉する存在が内なる自ら以外は存在しえないということでもある。それは正常ではない。少なくとも、正常だと思われている人間にもある程度の葛藤や、理性と欲望の二面性などはあるだろうが、理性が欲望を嫌悪し、自ら殺そうとはしないだろう。暗闇に長く閉じこもった私に、もはや聞こえていたはずの他者の声は聞き取ることができなくなっていた。

 少しずつ私の中で比重を増加させていった理性と理想や願望といった存在が、巨大な罪悪感と化してもう一人の自分を責め続ける。


 お前が悪い。今までの笑顔も、他者に向けてきた優しさだと思っていたものもすべて、お前が取り繕った嘘の塊に過ぎない。そして、あまつさえお前は他者を尊重する

ことに辟易とした挙句、周囲へ多大な迷惑を振りまき続けながら、この暗闇から這い出ようとさえもしていない。



 お前が、お前を光から隔離した。



 自己嫌悪を越え、もはや他者として存在するかのように錯覚してしまうまでに膨れ上がったもう一つの自我が、記憶に残る自らの声が、私を押しつぶそうとしている。


 違う。あれは本心だ。あの笑顔も優しさも、すべて私の本心だ。お前は私だ。間違ったこともあったかもしれないが、それでも私は本心だったと信じていたい。


 もはや、自己の行動さえも願望と化してしまった。理性として正常に機能している唯一の私の内部に存在するものが、警告する。壊れかけている。このままでは取り返しがつかないことになってしまう。貴方は光を失ってもう長い。他者を失ってもう長い。貴方はもうじき貴方自身に窒息させられてしまう。

 暗闇の中に紛れてから初めて、私は危機感を覚えた。ここは他者が存在しえない、孤独こそを信仰する楽園だ。だが、その圧倒的な快楽に耐えられるほどに人は強くない。自分を理解しているのかもしれないもう一人の自分が、本来の自分だと思っていた自己を押しつぶすのにそう時間はかからない。この場所は危険だ。



 ここから這い出そう。自己が押しつぶされ、感情を殺す前に。

 



 地の底と言えば語弊があるかもしれないが、少なくとも私が認識できるレベルでは最底辺の場所を這いずり出してから、どれくらいたっただろうか。当てもなく進んできて、いくつか気づいたことがある。


 理性や罪悪感の塊であったもう一人の私は、這いずり、そしてこの暗闇の世界で足掻くことによってその質量を減少させるということ。

 そして二つ目。

 この真っ暗闇だと思われていた世界にも、木漏れ日のように光が漏れだす場所があるということ。

 三つ目に、この世界は果てがないということ。

 三つ目については、あくまで予測でしかないが、この世界のどこかに存在する私ではない私が望む限りはこの世界が終わることはないだろう。さて、罪悪感の塊だったもう一人の私の質量が減少するにつれて、少しずつ見つけることが可能になった光の差し込む場所。その位置を特定することは敵わなかったが、久方ぶりに視界に捉えた光というものは思いのほか心地よいものだった。




 光の筋を見つけてから、さらに幾日か。

 ついに、私は最後の私を見つけることに成功した。

 この世界を創造し、光を遮ることで私を守ろうとした優しい自分。

 それを、私は取り込む。

 それと同時に、理性や罪悪感の塊だったもう一人の自分も、同化した。

 ついに、私は私へと戻ることができたのだ。

 這いずることしかできなかった両足に力が宿る。

 顔を上げると、り光の漏れだす場所が確実に広がっていることに気が付いた。




 空が、青い。




 私は無意識のうちに、両足で立ち上がり、その空へと手を伸ばす。

 私の内部で、今まで他者として存在していた私達が心配そうにこちらを眺めている。

 私の視界の中で、自分の白い右手と世界の綻びが重なった。

















「…………。」


 眠い。頭の左側で部屋中に響く、アラームに起こされた。数秒で意識が覚醒をはじめ、今日の目的を思い出す。アラームを止めると、ステレオから流れ出している音楽が耳をつく。心地よい倦怠感に支配されそうになりながらも、私は身を起こした。名残惜しさを感じながらステレオの音楽を止め、CDを取り出してケースへ納める。

 そのままカーテンを開けてみるが、まだ外は暗い。時刻は午前六時ほどなので、あと数分後には太陽が昇るだろう。部屋が乾燥していたのか、少しだけ喉が痛む。何かを飲みたい。私は、なぜか持ち歩くのが癖になってしまっている携帯ゲーム機と本を持ち、階段を下りた。

 起きて居間に足を運んでみたはいいが、如何せんまだ日が昇っていないので寒い。炬燵の電源を入れて、とりあえず台所へ向かう。冷蔵庫を開け、二リットルペットボトルを取り出すと、コップに水を注ぎこむ。一息に飲み込むと、睡眠で水分を失った体に水が染みわたる心地よい清涼感を覚えた。軽くもう一杯注いで、喉の奥へさらに流し込むと、私は洗面所へ向かった。

 起きてから三時間ほどたち、私は出かける準備を終えた。時間は八時を少し回ったくらいだ。今日は高校の入学式のため、時間には余裕をもって登校しておきたい。

自宅から高校までは遠い。電車通学をするにも、利便性の悪い立地だった。ひとまず今日は、母親に送り迎えをしてもらうことになった。車でも一時間程度かかる道のりだが、苦には思わない。


「んじゃ。いってくるね~。」


 玄関のドアノブへと手をかけながら、家の中へ声をかける。嬉しそうだが、そこはかとなく心配そうな祖父母の顔が、背中を押してくれたような気がした。

家の外に出て、母親の車のエンジンの音を聞きながら、冷たい空気を吸い込む。朝の空気は澄み切っている。深呼吸をしていると、庭に居る猟犬三匹に吠えられたが、いつものことなので気にしないことにした。



 車の心地よい揺れに身を宿して一時間ほどで私達は高校へと到着した。入学式の開始時間を考えれば、ずいぶんと早くついてしまったのだが、既に先客がいることに驚いた。古い校舎を目の前に、少しだけ自分に気合を入れて、車の外へ出る。グラウンドの土の感触を少しだけ懐かしく感じる。空気は、自宅のある田舎ほど澄んではいないのがちょっと残念だった。




 私は、顔を上げる。





 空が青く輝いて、私を見つめてくれていた。

 まるでもう大丈夫だと、言い聞かせてくれているかのように。

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或る憂鬱な季節の終わり 鹽夜亮 @yuu1201

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