後編
海には誰もいなかった。
いたらいたで驚くけれど、いないのもなんだか不安になる。
なにをしようかと立ち尽くしていると、
「園田のバーカ!」
蒼が急に叫んだ。
担任だった先生の名前だった。
「なんか言われた?」
「君ならいい大人になれるよって」
「
「な」
なんで蒼が叫んだか、分かる気がした。
「園田の分からず屋ー!」
また蒼が叫んだ。真っ直ぐに進んだ声は、水平線にぶつかって消えた。
分からず屋なんて言葉、使う機会はなかなかない。ただ、今のこの気持ちにはぴったりだと思った。
「わあああああ」
上手いこと言葉にならないモヤモヤがのどの奥に張り付いていて、俺は叫んだ。
叫べば少しはスッキリするかと思ったけれど、大した効果はないようだ。
俺は
「うわっ、目に砂が入った」
「なにやってんだよ、バカ」
蒼は静かに笑って、俺の隣に腰を降ろした。
「目の前に友人のケツが置かれた主人公の気持ちを二十字以内で答えよ(五点)」
「五点なら捨すて
「解けよ」
蒼が笑った。俺も笑った。
楽しいから笑ったはずなのに、鼻の奥がクッと熱くなった。
明日も明後日も、高校を卒業したからと言ってなにが変わるわけでもないはずなのに。今日が終わってしまえばもう子供に戻れないような、そんな気がする。
しばらく俺らはなにも言わないで、押し寄せる波を見ていた。
「俺さ、今日男子トイレの壁に落書きしてきた」
沈黙を破ったのは蒼だった。さっきまでとなんら変わらない声だったけれど、多分こらえている。そんな声だった。
「なんて書いた?」
「昔のギャルみたいに『ゥチらズッ友だょ!
「やめろよ! 後輩が困惑するだろ」
なんでもないように目を
目が痛いのはきっとそのせいだ。
「絶対ハルちゃんとアオイちゃんだと思われるよな」
「確信犯かよ」
クツクツとのどの奥で笑い声が漏れた。
もう蒼の声も、俺の声も隠しようがないくらい
こぼさないように目の
「俺、疲れたから寝てもいい?」
「ん、おやすみ」
「おやすみ」
寝返りを打って、蒼から身体を
また訪れた沈黙に、波の音だけが騒がしい。
「寝た?」
「寝た」
「寝てねぇじゃん」
「寝言だ、アホ」
ふふっと蒼の笑い声が耳に届いた。
本当に寝言だからな。
「俺はさ、陽になりたかったんだよ」
突然の憧れ宣言から、ぽつりぽつりと蒼が話し出す。
「俺は勉強は出来るよ。実際頭いいし、否定する気もないけどさ、そんなのどうだっていいよな。
だってたかだか三年だけの居場所の中でだろ。全部でみたって多くて十六年。
人生百年の二割にも
勉強なんてやろうと思えば誰にでも出来るし、わけもなく不安で、もう頭ん中グッチャグチャでさ」
多分大人に話せば笑われる。普段の会話の中で友達に話しても笑われる。でもその分、本人はためこんで苦しむ。
そんな不安なんだと思った。
「子供のままなら、ちょっと勉強ができればそれでよかったのに」
馬鹿だな俺、そう呟いて蒼は泣き笑いする。
さっきまで熱くて痛かった鼻の奥はもうすっかり平気だった。潮の香りがよく分かる。
話し終わってもしばらく、蒼は鼻をかんだり、顔を拭いたり、
「もういいよ、陽」
「よく寝た」
わざとらしくあくびをして、起き上がる。
俺と顔が合わないように、蒼は寝転んだ。
大丈夫、見たりしないよ。
「俺が寝てる間、なにか変わったことは?」
「リヴァイアサンが来て、悪さをするから戦って、倒した」
らしい。
とんだ勇者様だ。
「疲れたろ、寝てろよ」
「そうする。おやすみ」
「おう」
蒼は空気を読んで大人しく俺に従したがった。
海からの風が冷たかった。
「寝たな?」
「もう
「そりゃ安心だ」
今度は俺が話し出した。
「俺は逆に蒼が羨ましいよ。
俺は絵が上手いだろ? 俺の絵柄もあるし、誰にでも出来るってわけじゃない。
でもたまに思うんだよ。こんなので食っていける人なんてほんの少しなのに、勉強もしないで明け
こんな自己満足の世界を学ぶために大学まで行くのかとか」
言いたいことがまとめられなくて、思うままに口に出した。
ボロボロと
「大人に近付いてくって怖いよな」
自転車に乗れるようになった時、おつかいに行けるようになった時、初めて彼女ができた時。
時々聞こえる、ひとつ階段を登った音が怖い。早く大人になりたかった時は嬉しかったのに。
そろそろ蒼を起こさなくてはならない。でもまだまだ涙は止まりそうになくて、俺はコートを投げ捨てた。それから全速力で走り出した。
「おりゃ!」
ヤケクソ気味に飛び込んだ海は黒かった。そして死ぬほど冷たかった。
「うわ、待って死ぬ!」
「なにやってんだお前」
俺の悲鳴にも似た声を聞いて起き上がった蒼は真顔だった。まだ上ずった声で、鼻も赤い。
「大丈夫だよ」
「うん」
本当にホッとしたような声で返事がやってくる。それから蒼は仕切り直しだと言うように頭を振った。
「どう? 多分日本で今年最初の日本海は?」
「すごい気持ちいいよ! お前も入れよ!」
「歯、ガチガチいってるけど?」
「楽しすぎて
「そっか」
どこか悲しそうに呟く蒼は笑っていた。でもそれは苦しそうな笑い顔で、見てるこっちが泣きたくなる。
「よっと」
手で海水をすくって、思いっ切り蒼の顔にぶつけた。
蒼は一瞬、なにが起こったか分からないという顔をした。
「将来有望だっていうレッテルなんて水でふやかしてドロドロにしちゃえよ。この寒さの中、海に入るなんて俺とお前しか出来ないって」
正直こんな受け売りみたいな言葉でよかったのかなんて分からない。もっといい言葉が、かけてやるべき言葉があるような気もした。
でも蒼は、今度はちゃんと笑った。
「うい!」
コートと靴だけ脱いだ蒼は、俺よりも勢いよく海に
海は相変わらず黒かったけれど、飛び散る飛沫しぶきは澄んでいる。
「ちょ、タンマ!」
ぐしょぐしょの制服を抱き込みつつ、蒼は叫んで立ち上がる。
「お前よくずっと入ってられるな?」
「んー、白状すると
「はよ出ろよ!」
やっぱり陽はバカだと笑う蒼はどこかさっぱりしていた。
寒さでビリビリする足に力を入れて立ち上がると、ひざが笑っていた。
「明日高熱か?」
「望むところだ」
「ポ◯リ買って帰るか」
「アク◯リがいい」
「あ、そ」
どうでもいい会話が、変わらず楽しかった。
海風が水を吸った学ランをなぞって、凍るようだった。もうそろそろ、日が暮れてしまう。
「帰る?」
先にそう言ったのは、俺だった。お互いに言い出したくはなかったけれど、言った。
「うん。そういえば、陽のコートは?」
「その辺に
「あれか」
一匹の猫が俺のコートの上でくつろいでいた。
「暖かいのかね」
「なんせ俺の
「はいはい」
遠くでサギが鳴いている。
「寒い! 座りたい!」
「自業自得って言うんだよ」
ガラガラにも関わらず、びしょ濡れの俺らは座れなかった。ぽたぽたと垂れる雫しずくはいつまで経っても途切れない。
夕日で真っ赤に染まった日本海を眺めながら、唐突に蒼が口を開く。
「俺は、陽の絵が好きだよ」
「うん」
「ちゃんとやりたいことのために大学に行けるのはかっこいいし」
「うん」
「俺が陽の絵で楽しくなれるから、陽の自己満足でもない」
「うん」
「だから……」
「ありがとう、もう、いい」
これ以上聞くとダメになる。
それくらいに嬉しくて、救われる。
「泣いてんの?」
「海水」
のどの奥が塩辛かった。
きっとさっき海水を飲んだんだ。
「そういうこともあるよな」
「ん」
なぜか蒼まで涙声だった。
このままずっと電車が着かなきゃいいのに。そう思った。
俺の小さな願いはもちろん叶うはずもなく、いつもの十字路まで来てしまった。
高校生の蒼とはここでお別れだ。高校生の俺とも。
「じゃあ」
「じゃあ」
またな、とは言わなかった。言えなかった。
何事もなかったかのように立ち去る蒼の足音だけがやけに大きく響く。俺も蒼とは逆方向に駆け出した。
しばらく走って、息が切れた頃に着信音がなった。
『家に帰るまでが卒業式です。』
件名は“現役DK蒼より”。なにがしたいんだあいつ。
歩きながら返信を考えていると、家の
また少し考えて、こう返信した。
『またな』
件名は“少し先に大人に近付いた陽より”。
家に帰るまでが卒業式です。 如月アズサ @kisaragi_50
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