一年後

3月

番外編10【3月2日】百二十万人の中から


 卒業証書をもらって校歌を斉唱していると本当に卒業するんだなと実感する。

 月並みな感想だがあっという間の三年間だった。少し心残りもあるが、まあ充実した三年間だったと思う。

 本日は令和二年度霧乃宮高校卒業式。

 あたし鈴木早苗も、この度めでたく高校生活に別れを告げることになった。



 式が終わり外に出るとあいにくの曇天模様だ。それでもあちらこちらで集まって写真を撮っている。

 あたしもクラスメイトに誘われて笑顔でカメラに収まる。

 その一方、この中の何人と卒業後も連絡を取り合うだろうかと、冷めたことを考えてもいた。

 会話の輪から離れてぼんやりと周りを眺めていると、いきなり背中から抱きつかれる。


「早苗! 卒業おめでとう!」

「……なによ。その無駄に高いテンション」


 振り向くと、我が親友が満面の笑みを浮かべている。


「湿っぽいほうがよかった? さ゛な゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛離れたくないよぉおお」

「……ウザいから普通にして」


 ひっついてくるのを引きはがした。

 彼女とは二年進級時にクラス替えでいっしょになってからの付き合いだ。文芸部と美術部という文化系部活という共通点もあったが、なによりも波長が合った。

 数少ない卒業後も連絡をとるだろう友人だ。


 しばらく大学入試の出来について話していたが、彼女はこちらをちらちらと伺って落ち着きがない。話したいことがあるのに躊躇っている感じだ。

 いまさら遠慮するような仲ではない。そんなに話しづらいことなのかと、こちらから水を向けてみる。


「どうしたの? まさかあたしに愛の告白?」


 もちろん冗談で言ったのだが、彼女は急に真顔になった。


「告白は当たってる。わたしじゃなくて早苗のだけどね。……ねえ、結城くんに告白しなくていいの?」


 あたしは固まってしまった。

 これならまだ彼女に告白されたほうが動揺が少なかっただろう。

 なんとか気持ちを落ち着け誤魔化そうとしたが、彼女は変わらず真剣な表情でこちらをみている。

 あたしは観念して小さく息を吐いた。


「……知ってたんだ。というかさ、あたしと結城は付き合ってるって思ってたんじゃないの?」


 そうなのだ。そもそもは彼女の誤解をきっかけに、あたしたちは仲良くなったのだ。

 あれはクラス替えをしてまだ一ヶ月も経っていない頃だったと思う。

 あたしと結城がいっしょに下校しているのを目撃した彼女が、お弁当を食べている時にその話題を出した。

 それは誤解だと必死に説明したのだが、彼女は信じずにあたしと結城が付き合っていると思い込んだ――はずなのだ。


「ああ、うん。最初の頃はそうだと思ってた。本当に仲良さそうだったし」


 彼女はばつが悪そうな表情を浮かべて言葉を続ける。


「でもわたしたちが親しくなってからも、早苗からは恋愛関係の話をいっさい聞かなかったんだよね。デートに行ったとか、キスしたとかさ。

 普通そういうのって話したくなるものでしょ? 早苗が話すとしたらわたしだと思っていたし」


 それは実際にそうだと思う。というか彼女以外に話せる人間は、ちょっと思い浮かばない。


「こんなこと言ったら怒るかもしれないけど、付き合っていないと気がついてからは、ふたりがいっしょに帰るのを見るのが辛かったんだよね。だって早苗の全身からは好きっていう感情が溢れているのに」


「いや! さすがにそれはないでしょ!」


 あたしは顔が赤くなるのを感じながらも断固として否定する。

 しかし彼女は冷徹かつ無慈悲にそれを却下した。


「そんなことあるよ。わかってないのは本人だけ。正直なところ結城くんもひどいなって思ってた。早苗の気持ちに気づいていないわけないし。

 ただ、部活内恋愛を禁止にしているのかなとも思ったし、余計なことは言わないようにしてたんだよね。でも引退してからも告白した様子はないし、それなのに帰る時はいっしょだしさ」


 彼女の言うとおり文芸部を引退してからも、あたしと結城はいっしょに下校していた。白状すると受験勉強漬けの毎日の中で、それだけが楽しみな時間だった。


「余計なお世話かもしれないけど親友だと思ってるから言う。ちゃんと告白したほうがいいよ。結城くん卒業したら東京でしょ? 二度と会えない可能性もあるよ」


 たしかに結城は卒業したら東京へ行く。京都も考えていたみたいだが、結局は東大を受験した。合格発表はまだだが、あいつなら受かっているだろう。

 あたしは地元の霧乃宮大学が本命だ。


「そうは言うけどさ――」


 あたしは力なく笑う。


「あいつがあたしのことをなんとも思ってないのはわかってるし、振られるの前提で告るのって意味あるの?

 それにさ……。からかわれたりしたら、さすがのあたしも傷つく」


「からかったりなんかしないでしょ。それに振られるのは大事だよ、その次に進めるもの。このままだと『もしあの時に告白していれば』って、ずーっと引きずることになるんだよ?」


「……随分と経験豊富みたいだけど、あんただって彼氏いなかったでしょ。その知識はどこからきてるのよ?」


「わたしは少なくとも早苗よりは経験あるもの」


 そう胸を張る彼女と、しばし視線を交錯させて睨み合っていたが、同時に吹き出してしまった。

 恋愛経験の乏しい者同士で張り合っても仕方がない。

 そこへ「せんぱーい」と彼女を呼ぶ声がした。美術部の後輩らしい。

 彼女はそちらに手を振ってから向きなおる。 


「親友の最後のアドバイスだと思って告白してみなさいって。あとでちゃんと報告しなさいよ」


 笑いながら踵を返す彼女を見送った。

 他人事だと思って簡単に言ってくれる。ため息を吐いたところで「早苗先輩」と呼ぶ声がした。

 振り返ったあたしは思わず苦笑してしまう。


「なんで瑞希がそんなに泣いてるのよ」


 文芸部の後輩たちが集合していたのだが、二年生で前部長である有村瑞希がボロボロと涙をこぼしていたのだ。

 その隣でハンカチを差し出している同じく二年の北条亜子は少し目は赤いが泣いてはいない。亜子はおっとりしているようにみえて芯が強い子だ。

 その後ろの一年生たちはケロッとしている。まあ、これは付き合いの長さに比例するものだろう。


「早苗先輩。わたし、早苗先輩が先輩で本当に良かったです」


 瑞希が嗚咽を漏らしながら声を絞り出す。

 どんな時でも真っ直ぐで、その気持ちを言葉にすることができるのが彼女の良いところだ。本心から慕ってくれているのがわかる。

 もらい泣きをしそうになったが、ぐっと堪えた。彼女たちの前では最後までカッコつけたい。

 瑞希を慰めていると後ろから声がした。


「みんな集まっているな」


 あたしは心の中で深呼吸をしてから振り返る。

 こちらへと歩いて来る結城恭平は、普段とまったく変わらなかった。

 感極まった様子など微塵もない。卒業式程度でこいつが泣くなんて、天地がひっくり返ってもありえないだろう。

 しかしその全身を見てあたしは眉をひそめた。

 文句を言おうと口を開きかけると先を越されてしまう。


「あーっ! 先輩、ネクタイないじゃないですか。オレが貰おうと思っていたのに」


 綿貫わたぬきという一年の男子が結城に駆け寄って文句を言った。


「ネクタイだけじゃないですね。ボタンもひとつもないじゃないですか。先輩ってそんなにモテるんですか? まさか校舎裏で自分で外してきたとかないですよね」


 冷めた目で結城を検分しているのは深町ふかまちという一年の女子だ。

 今年の一年は物怖じしないし、良くも悪くもキャラが濃い。

 付き合いの長い瑞希と亜子のほうが遠慮している。もっとも、ふたりも言いたいことは同じらしい。

 仕方ない。やっぱりあたしがビシッと言ってやらないと。


「結城、あんたね。手当たり次第に男子から何か貰っとけっていう女子連中なんか放っておきなさいよ。本当に欲しがってる後輩がいるんだから」


「みんなには本をやったじゃないか」


「本とはまた別でしょ。あんたはそういうところが鈍いのよ」


 あたしだって欲しかったのに――とは口が裂けても言わない。


「だったらオレ、制服でいいです」

「ふざけるな。この寒空の下、上着なしで帰ったら風邪ですむか」

「じゃあ交換しましょう」

「おまえのは小さくて着れないんだよ。逆に俺のを貰ってもブカブカだろうが」

「これから伸びますって」

「高二でまだ成長するとか、どれだけポジティブなんだよ」


 食い下がる綿貫を結城が呆れ顔であしらっている。

 その漫才のようなやり取りにあたしたちは笑った。

 学年は離れているし共通点も皆無なのだが、このふたりは仲が良い。結城は男子の後輩を欲しがっていたみたいだから、なんだかんだで嬉しかったのだろう。


 思い出話をしながらみんなで写真を撮り合った。

 別れ難くなる前に引き上げようと思って、なんと切り出そうか迷っていたら、それを察したように瑞希が「二年間本当にお世話になりました」と花と色紙の寄せ書きを手渡してきた。

 また涙がこみ上げてきたがなんとか堪える。

 結城も亜子から同じものを受け取っていた。


 見送りの言葉で「文化祭には絶対来てくださいね」と言われたが、あたしはたぶん行かないだろう。

 霧大に合格すれば地元だし、後輩のことはもちろん気になる。

 だけど――来年の霧高文芸部には結城がいないから。

 いつもと同じように結城は自転車置き場までついて来て、そのままふたりいっしょに門を出た。



 肩を並べて歩いていても、親友の言葉が頭の中でぐるぐると渦巻いている。

 告白しろっていうけど、いったいどうやって?

 さっきまでそんなつもりはまったくなかったのだ。シミュレーションができていない。自慢じゃないが告白なんて、したこともされたこともない。

 あたしが珍しく喋らないからだろう、結城がからかうように笑う。


「口数が少ないな。卒業となるとおまえでも感傷的になるのか?」

「おまえでもってどういう意味よ?」


 睨みつけると、結城は軽く肩をすくめた。

 いけない。これだといつもの喧嘩パターンだ。とてもじゃないがこれから告白する雰囲気にはならない。

 大通りに出たところで、あたしは意を決して口を開いた。


「あのさ、ちょっと話があるんだけど……」


 だったらさっさと話せと言われるかとも思ったが、結城は立ち止まった。


「どこかの店にでも入るか?」


 いや、周りに人がいるのはさらにハードルが高い。

 どうしようかと迷っていると大鳥居が目に入った。


「そうだ! お参りしようよ。合格祈願」


「試験が終わって結果を待つだけなのにか? これで合格していたら、神様に点数改竄の不正をさせたんじゃないかと寝覚めが悪くなるぞ」


「うるさいわね! 屁理屈言うんじゃないわよ!」


 ホントにこいつは、ああ言えばこう言う。

 それでも結城はおとなしくついてきた。

 あたしは玉砂利の広場の隅に自転車を停めると、結城といっしょに長い石段を上り始める。

 この神社には去年の元日に、文芸部の四人で初詣にきた。

 あれからもう一年以上が経ったのだ。本当に月日が流れるのは早いと思う。


 さすがに平日だ。曇り空もあってか人がいない。

 あたしと結城は拝殿に参拝する。

 合格祈願もしたが、この後に告白をちゃんとできますようにとお願いした。

 そして結城を境内の隅に誘って――あたしは黙り込んでしまった。


 言葉がまったく出てこない。

 それ以前に結城の顔を見れない。

 駄目だこれ。絶対無理。告白なんてできるわけがない。

 というか振られる前提の告白なんて本当に意味あるの?

 それに最後の最後でこれまでの関係をわざわざ壊すことはない。

 あたしは現状に満足している。

 だからこのまま別れよう。

 そう決めた時――


「そうだ。俺もおまえに話したいことがあった。正確には礼を言おうと思っていた」


 結城の思いがけない言葉に顔を上げた。


「お礼?」


 感謝されるようなことをした覚えはない。


「ああ。俺は霧高に入学してからずっと退屈していたんだ。惰性で勉強をしていても成績はトップクラスだったし、文芸部では幽霊部員だった。部活に関して言えばずっと転部を考えていた。

 あまりにも暇だったからな、一年の夏休みはずっとバイト漬けだった。これは誰にも言ったことがないが、それ以降も長期休暇にはバイトをしていたんだ。さすがに三年になってからはやらなかったけどな」


 初耳だった。霧高はアルバイト禁止だし、そもそもそんな時間があるなら、みんな塾や予備校に通う。

 同時に納得した。

 結城は新古書店では絶版以外買わない。新刊は普通の本屋で買うのである。よくそんなお金があるなと思っていたのだが、アルバイトで貯めたお金だったのだ。


「だから夏休み明けに、おまえが教室に駆け込んできて俺の名前を呼んだ時、ものすごくわくわくしたんだよ。なにかおもしろいことが始まる、退屈から抜け出せるってな。例えるならパズーが空から落ちてきたシータを見つけた時みたいに」


「あんたがパズー? 全然イメージが違うんだけど」


「それなら俺だってシータの配役には文句があるぞ」


 お互いに憎まれ口をたたいて、ちょっと笑い合う。


「まあ、その後の出来事は愉快とは言えないものだったけどな。それでも俺は心のどこかでそれを楽しんでもいた。

 それからの半年、おまえとふたりで図書準備室で過ごした時間は間違いなく楽しかったし、後輩ができてからの部活については言うまでもない。いつか言おうと思っていたんだがずっと言いそびれていた。

 あの時に俺を呼びにきてくれて感謝している」


 結城が冗談めかしてではなく、真面目な顔で言ったので戸惑ってしまう。


「そ、そんなの。お礼を言われるようなことじゃないし……」


 そうなのだ。お礼を言われるようなことはしてない。

 あたしはべつに結城を退屈から救おうとしたのではなく、自分ひとりではどう対処すればよいかわからなかっただけだ。単に仲間が欲しかったのだ。

 そんなの結城だってわかっているはずだ。それなのに、このタイミングでわざわざこんなことを言うのは、あたしが話を切り出せないでいるからだ。

 結城はあたしが話そうとしている内容なんて最初からわかっているのだ。

 そしてあたしが切り出しやすいようにしてくれた。

 それがわかるから、あたしも言うことができる。


「結城。あたしさ――」


 さすがに顔を見ては言えない。

 だから結城の足元を見ながら、それを口にする。


「あたし、ずっとあんたのことが好きだった」


 口に出してしまえば、なんと短い言葉だろう。

 だけどあたしはこれを言うのに二年もかかったのだ。

 自分の顔が赤くなっているのがわかる。

 俯いたままのあたしに、結城の優しい声が降ってきた。


「ありがとう。素直に嬉しいよ」


 あたしはそれを聞いても喜ばない。

 まだ続きがあるとわかっているから。


「だけど、俺にとっておまえは文芸部の仲間なんだ。そこに恋愛感情はない。

 ……すまない」


「……うん。知ってる」


 そう。ずっと知ってた。

 だから謝ることなんかない。

 ようやく顔を上げると、結城は沈痛な表情であたしを見ている。

 そんな顔をしないで欲しい。こっちが泣きたくなる。


 親友が言うほど意義のあることだったかはわからないが、たしかに心の整理はついた。もっともすぐに前向きにはなれない。これは時間が解決してくれるのだろう。

 とにかく言うべきことは言った。

 あたしは帰ろうと歩き出そうとしたが、結城は動かずに空を見上げている。

 どうしたのかと思っていると、視線をあたしに戻した。


「今年度の十八歳人口を知っているか?」


 唐突な質問に、あたしは目を瞬かせた。

 大学受験データにそんな数字があったような気がするが覚えていない。

 日本の総人口を平均寿命で割るとおよそ百五十万だが、少子化と言われて久しいからそれよりは少ないだろう。

 親世代の半分ぐらいと言うのを聞いたこともある。


「うーん、百万人ぐらい?」

「百二十万弱だそうだ。その全員が高校に通っているわけじゃないが、俺たちと同学年がそれぐらいいるわけだ」


 さすがに少なく見積もり過ぎたようだ。

 だけどそれがなんだというのだろう?

 結城はあたしを見ながら言葉を続けた。


「もし俺がタイムリープして高校入学時に戻ったとする。そして神様から、同学年の百二十万人の中から誰でも好きな人間をひとり、文芸部の同期に選んでいいと言われたら――。

 やっぱり俺は、おまえを選ぶよ」


 あたしは呼吸を忘れ、結城を見つめた。

 ようやく口を開くことができても心臓は早鐘を打っている。


「な、なに馬鹿なこと言ってるのよ。そもそもあんたが知っているのなんて、うちの生徒と、あとは小中学校の同級生ぐらいでしょ。

 全国にはあたしより本を読んでいる人間なんていっぱいいるし、あんたの話についていける奴だってきっといるわよ」


「そうかもな。だけど俺は――」


 結城はあっさりと肯定してから、小さく笑った。


「好きなミステリを語り始めると止まらなくて、後先考えない思いつきでみんなを巻き込み、人一倍怖がりで小心者のくせに強がってみせる。だけど誰よりも気遣い屋で後輩思いの、そんなおまえがいい」


 結城は真っ直ぐにあたしを見た。


「何度繰り返すとしても、俺は霧乃宮高校文芸部の同期に鈴木早苗を選ぶよ」


 あたしは結城を見つめたまま固まって――次の瞬間、慌てて顔を伏せた。

 溢れてきた涙を抑えることができなかったから。

 下を向くあたしの目から次々と涙がこぼれ落ちて地面に染みをつくった。


 ――なんで。なんでこいつは。たった今振った相手にこんなことを言うのだ。

 恋愛なら人生で何度かするだろう。

 だけど高校生活は一度きりだ。

 そしてあたしも結城も、高校生活で一番大切にしていたのは文芸部だと思う。

 その霧高文芸部の唯一の同期に、こいつはあたしを選ぶという。


 そんなの。そんなの。好きだと言われるよりも重い。

 重くて、そして――胸がしめつけられるほどに嬉しい。


 涙が止まらなくて顔がぐちゃぐちゃだった。

 結城にこんなあられもない泣き顔を見られたくはない。

 あたしたちは恋人じゃなくて――仲間だから。


「……ごめん、結城。もう行って。あんたには泣いてるのを見られたくない」

「……わかった」


 だけど結城は言葉とは反対に、あたしの方に一歩近づく。

 俯いているあたしの視界に、結城の手が差し出された。

 指が長くて綺麗な手だとずっと思っていた。

 この手がページをめくるのをずっと見てきた。


 あたしは差し出された手を握る。

 触れてみると大きくてゴツゴツとしていて、やっぱり男子の――いや、もう大人の男性の手なんだと感じた。

 結城は本を扱う時のように優しく握り返してから手を離した。

 あたしの手の中に何かを残して。


「いらなかったら捨ててくれ」


 手を開いてみると制服のボタンがあった。


「じゃあな。戦友」


 結城はそう言うと、今度こそ踵を返して歩いて行く。

 あたしは足音が十分に去ってから顔を上げた。

 結城は石段を下りていて、その頭がちょうど見えなくなるところだった。我慢できずに走りだして後を追う。


 石段の頂上から下を見た。

 結城は長い石段を下りきって、玉砂利の広場に差し掛かっても、真っ直ぐ前を見たまま歩き続けた。

 わかっている。

 あいつは絶対に振り返ったりしない。あたしが見ていると知っていても。

 最後のやり取りといい、本当にすかした奴だと思う。

 でもそういったところも含めて好きだった。

 どうしようもないほどに好きだったのだ。


 きっとこの失恋は尾を引くだろう。

 なにせ遅く来た思春期での初恋だ。

 それなのに好きになったのがよりによってあいつだった。本だって最初に傑作を読んでしまうと、どうしてもその後に読む本は霞んでしまう。


「……あたしが今後、恋愛できなかったらあんたのせいなんだから」


 それでも結城との三年間を一秒たりとも無駄とは思わない。

 恋人にはなれなかった。それはたしかに心の傷だ。

 でも、あいつがあたしのことを唯一無二の同期だと言ってくれたように、あたしにとっても霧乃宮高校文芸部の同期はあいつしか考えられない。

 お互いに相手をそう思っている。

 それを知れたから、あたしはこれからの人生を強く生きていける。

 小さくなった背中に向かって別れの言葉を呟いた。


「……バイバイ、恭平」


 結局最後まで名前を呼ぶことはできなかったなと思いながら。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

霧乃宮高校文芸部 皐月 @Satsuki_Em

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ