epilogue 家族
前任の島西先生が腰を悪くして入院することになったことに伴って、不在となった吹奏楽部の顧問兼指揮者に俺が納まったのが新任としてちょうど着任したとき。 教員としての仕事はともかく、吹奏楽部の顧問に関する引き継ぎがほとんど必要なかったのは、俺がこの部活のOBが故だろう。
なんとなく履修していた教職課程を、本気で目指すようになったのは、やはり教育実習だった。母校に戻って教育実習生として過ごした期間は、漠然としか描けていなかった青写真を鮮明にするには充分すぎた。
そうして新任と呼ばれた頃から7年が経ち、俺も担任を持つようになったのだから時間の流れは速いものだ。 そう、女子生徒からのからかうような発言にも、怯むことが対処できるようになるくらい。
「菊野センセ、どうですか? 今日のスカート」
「ただの制服だろう。 あんま短くしてっと奴らの餌食だぞ」
「ゲッ、風紀委員っ!? 」
目線の先にある、長い三つ編みに眼鏡がトレードマークの風紀委員を見て、女子生徒は摘んでいたスカートの裾を慌てて離した。
「ほらー。 菊野先生はムリだって言ってんじゃん。 だいたい奥さんすっごい美人って噂だし」
「えっ!? そうなの? センセー写真とかないんですか? 」
「そんなわざわざ見せるほどのもんじゃないだろう」
「またまた、菊野先生、ご謙遜を」
急にかけられた低い声の発信源を見ると、そこには副校長がいた。 そのニヤニヤした顔には、嫌な予感しかしない。
「菊野先生の奥さんなら、君たちも見たことあるはずだ。 ほれ『おはようテレビ』とか見たことないか? 」
「ちょっと、副校長先生、それはいいじゃないですか」
「えー? ウチ、朝は亀山クン見たいから『VIP』派だし」
「私は時々見てますね。 副校長先生はよく見るんですか? 」
「まぁね。 菊野先生の奥さんが出てるくらいだし」
「は? 」
「えっ? 」
「副校長……もういいじゃないですか、それは」
「なんだ、教えてやればいいじゃないか。 岬千春が奥さんだって」
――あちゃー。 ダメだこいつ。 個人の事情をベラベラと……。
だいたいこういう系統の生徒に知られると、尾ひれはひれがついて噂が不必要に大きくなるというのに。 言った本人はドヤ顔で、悪びれていないのがまた神経を逆撫でする。
「ええええっ、マジすか!? 」
「――っ! 」
甲高い声を聞いて風紀委員がすっ飛んできた。 そりゃ、こんな大声出せばな。
「あなたたち、何騒いでるんですか。 菊野先生まで。 ちょっと女子生徒に人気があるからって、こんなところでちょっかい出すのはやめてもらえますか」
ちょっかいなんて一切出していないわけだが、ここでそんな反論をしても無駄だろう。 だいたい大声を出させるような発言をしたのは、ここにいる副こ……いねえ。 当人はいつの間にやら遥か先にある校門のそばまで移動していた。
――あの野郎。
「すまんすまん。 もう騒がんから、仕事に戻っていいぞ」
「そうします。 お願いしますね、先生」
はあ、とため息が自然と出てくる。
噂好きの女子高生に、副校長、それに風紀委員。 朝っぱらから疲れるイベントに辟易とする。 そして、まだ目を爛々とさせているこの子たちを何とかしなければならない。
「センセ、さっきの話、本当なんですか? 」
「まあな」
「どうやって出会うんですか? そんなすごい人と」
「俺も、ウチのかーちゃんもここの卒業生なんだよ。 ――それで、だ」
顔を近づけて、小声で言った。
「二人にお願いだ。 ここだけの秘密にしといてくれ。 あんまり騒ぎになると、もうここで教師として仕事ができなくなる」
「そんな……わかりました」
「ウチも。 ここだけの話ということで」
「悪いな」
「でも、確か先週から産休に入るとかってテレビで言ってませんでしたっけ」
「そうなんだよ。 もうすぐ産まれる予定。 予定日は今週末だけどな」
「マジっ!? 」
また少しボリュームが上がった声に反応した風紀委員がこちらを見た気配を察して、二人の生徒は逃げるように昇降口へと向かっていった。
流石に教師ができないなんてのは言い過ぎだが、これぐらいでもあの子たちにはちょうどいいだろう。
生徒たちと同じように授業をこなして、ようやく放課後がやってきた。 今日は合奏の予定だから部活の方にも顔を出さなければならない。 それまでに二年生向けの課題プリントの作成を終えなければ。
そう思っていた矢先、スマホが何度か揺れた。 カバンから出してみると、そこにはお昼に食べたお弁当を作ってくれた人の名が表示されている。 メッセじゃない、電話だ。
「大ちゃん? いま大丈夫? 」
「おう」
「手短に言うね。 いま、陣痛が15分おきくらいになってて、病院に行く準備するよ。 こっちには一回お母さんに来てもらうから」
「わかった。 じゃ、上がったらお義母さんとこ寄ってから病院行くよ。 出る前にメッセでいいから教えて」
「うん、わかった。 気をつけてね」
「美咲もな。 タクシー使えよ? 」
「うん、わかってる」
こうなると、後が忙しくなるな。 幸いにも今日は金曜日だから、とりあえず焦って休暇申請を出す必要はないだろう。 あとは、今日の部活と、校長への説明と……。
「先生? 」
「あ、原口、ちょうどいいところに。 悪い、今日の合奏は中止だ。 連絡しておいてくれ」
「わかりました。 どうかしたんですか? 」
「まあな。 ちょっと、病院に行ってくる」
「えっ!? どこか悪いんですか? 」
「違う違う、産まれそうなんだ」
「……ああ! それじゃ早く行ってあげないとですね。 では失礼します」
ちょうどよく現れた副部長の原口に伝言を頼んで、帰り支度を急ぐ。 ……が、焦って万年筆ケースがうまく閉まらない。
――落ち着け。 こないだの全国大会の指揮に比べれば、視線があるわけでも、品定めをされるわけでもない。 そう言い聞かせて平常心を必死で取り戻し、荷物をカバンに詰め込んだ。
ウチで風呂に入れば、あとはこの日に備えて用意してあった荷物を持って病院に行くだけだ。 ウチも実家も、美咲の実家もご近所なのはホントに都合がいい。 電車で数駅の病院へ向かう前に、予告通り美咲の実家であるマンションにやってきた。
「こんにちは、大地です」
インターホンを鳴らして、中からの声に応答する。 開いたオートロックのドアを通過してエレベーターを呼ぶ。 こんな数十秒の待ち時間がなんとももどかしい。
ようやくやってきた鉄の箱に乗り込んで、ドアの脇にあるインターホンを鳴らすと、部屋の中からトタトタと賑やかな足音が聞こえてくる。
「おとうちゃん! 」
「いい子してた? 」
「うん! いまね、パズルやってんの!」
美咲によく似た笑顔を見せた三歳児は元気にそう言うと、踵を返してリビングへと逃げていった。
追うようにリビングに入ると、美晴さんの隣で『チビ美咲』がパズルとにらめっこをしている。
「こんにちは。 ご迷惑おかけします」
「迷惑なんてかかってないわよ。
「うん。 ここな、おねえちゃんだもん」
お姉ちゃんになると半年前から意気込んでいる心菜は、事あるごとに美咲のお腹に話しかけていた。 早く出ておいで、待ってるよ、と。
「大地くん、落ち着いてるじゃない。やっぱり二人目ともなると違うのかしら? 」
「そんなことありませんよ。 内心ドキドキです」
「でも立ち会うんでしょう? 」
「はい。 失神しないように頑張ります」
「おとうちゃん、なにをがんばるの? 」
落ち着いていると言われたが、とんでもない。 冷静に、と言い聞かせてないと、気持ちがはやってしまうだけだ。
横から口を挟んだ心菜を見て、三年前の苦い思い出が蘇る。 あの時は車で病院に向かう途中、危うく赤信号を通過しそうになって美咲にえらくどやされたんだ。
あの時に生まれた子がこんなに流暢に喋ってるのだから、ずいぶんと大きくなったもんだ。
「お父さんは、いまから病院行ってお母さんの応援してくるからね。 心菜は、ばぁばとここで一緒に応援しててね」
「うん! すぐかえってくる? 」
「今日はお泊まりかな。 明日は帰ってくるよ」
「やったぁ! ばぁばのおうちにおとまり! 」
「じゃ、パパもいないし、今日はお外でご飯にする? 」
「やだぁ。 ばぁばのごはんがいい」
心菜がそう言うのもよくわかる。 外食よりもお義母さんのご飯を食べたがるあたり、心菜も舌が肥えてる。
それにしても、二人で仲良さげにしているのを見て一安心だ。 さて、俺も病院に行かなければ。
「じゃ、いってきます」
「いってらっしゃーい! 」
「いってらっしゃい。 よろしくね」
「はい、終わったら連絡します。 心菜もいい子にね」
「うん! おとうちゃんもいいこにね? 」
「おうよ」
ちいさな体を思いっきり使って飛び跳ねながらついてくる心菜の頭をひと撫でして、マンションを後にした。
電車に乗って10分もたたないうちに病院へとたどり着いた。 待合室に入ると美咲は最後の検診を待っているところで、緊張した雰囲気が伝わってきた。 持ってきた大きな荷物と一緒に美咲の隣に腰掛け、つとめてゆっくりと声をかけた。
「どうだ? 」
「うん、さっきより強くなってきたし、間隔も短くなってきたかな。 心菜は大丈夫だった? 」
「お泊まり! って喜んでたよ」
「そっか。 とりあえず一安心だね。 ……いたたたた。 また来た」
痛みに耐えるべく握られた手が、強く締め付けられる。 しばしの間体を強張らせた後、締め付けられた手が緩んだ。
「いよいよだな。 一緒に頑張ろうな。 ……っても俺は立ってることしかできないんだけど」
「ううん。 そばにいてくれるだけで心強いんだよ」
そう話して美咲が女神のような笑顔を見せたちょうどその時、診察室の中から声がかかった。
「菊野美咲さん、どうぞー」
美咲の手を取って支えながら立ち上がらせ、共に診察室へ。できる限り、ゆっくりと、安全に。 そんな悠長なことを言ってられるのも、この時が最後だった。
そこからは、あっという間。 次々と部屋を移され、着替えさせられ、我に返ったときには、助産師さんによって小さな命が抱えられていた。
記憶には残ってるから、気を失ったわけではなさそうだ。 心菜の時は午前4時ごろまでかかったことを考えると、あまりのスピードに俺自身がついていけなかっただけだ。
各方面への連絡を終えて、気がついたら夜になっていた。 どうやらソファで少し目を閉じたつもりが寝てしまっていたらしい。 時間を見るために開いたスマホは、見たこともない数字をメッセの未読数として表示している。
「大ちゃん、大丈夫? 疲れたよね」
「――ごめん、美咲のほうが大変だったのに」
「今回はあっという間だったもん。大丈夫だよ。 あたしも寝てて、いま目が覚めたとこだし」
「そうか。 それなら良かった」
「お顔見たでしょ? お名前、決まった? 」
「見た見た。 名前は――」
ここ半年ほどの間、二人でずっと考えていた。 ただ、出会った印象で最終決定しようとも話していた。 まさかの男の子だったりした時のためにも。
「先生に言われてたとおり女の子だったしな。 第一候補でいいんじゃないかな」
「そうだね。 あたしもそう思ってた」
「それじゃ、もう一休みするか。 美咲、お疲れさま」
「ありがと。 大ちゃん、大好きだよ」
一眠り、くらいのつもりでいたのだが、カーテンの隙間から差し込む太陽の光で目が覚めた。 精神的には結構きていたらしい。 まさかソファで一晩ぐっすり寝てしまうとは。
二人で朝食を食べながら、今後の動きを確認する。 これからはきっと忙しくなる。 こんなにゆったりとした時間はもう取れないだろう。 この時間を使って事務処理をこなしておかなきゃならない。 保険やら、届出やらの書類が山のようにある。
ふにゃ、という弱弱しげな声の先を見ると、『菊野美咲ベビー』と足首にタグが付けられた赤ちゃんが口元を動かして難しい顔をしている。 さきほど、夜間保育から美咲が引き取ってきた、俺たちの新しい家族だ。
慣れない書類と格闘していると、個室のドアがトントンと小気味良く鳴った。少し重い引き戸の奥で、うんしょうんしょと声が聞こえる。
「おかあちゃーん! 」
「心菜! 来てくれたのね。 昨日は大丈夫だった? 」
「あかちゃんは? 」
「ここよ。 気をつけてね」
「わぁ! 」
会話として成立していない言葉を交わしながらも、美咲は心菜の元気な姿にホッとした表情を見せた。
心菜はというと、まだふにゃふにゃしているだけのその無防備な姿を見て目をキラキラとさせている。
「おなまえは? おなまえは? 」
「
「りっか? 」
「そう」
「りっちゃん! 」
「そうだね」
「りっちゃん〜おねえちゃんだよー」
「ふふ」
葎花は、心菜の声に反応してもぞもぞと身じろぎをしている。 おなかの中で聞いた声と同じだということがわかっているかのようだ。
一緒に来てくれたお義母さんも、娘と孫の元気そうな姿を見て安心したようだった。 そして、どでかい一眼レフのカメラを取り出し、パシャパシャとシャッター音を響かせている。
「ふふふ。 いただき。 さ、大地くんも入って。 四人での最初の家族写真よ」
こうして、我が家のアルバムに大切な写真が加わった。 飾るのは、三年前の心菜が生まれたときに撮った写真の隣だな。
――この子たちのためにも頑張らなきゃな、と決意を新たにしたところに、またドアがノックされる音が鳴った。
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【あとがき】
最終回からすこし時間が経過しました。二人目かいっ、と思っていただけたのだとしたら、嬉しい限りです。 ちなみに最後のノックの相手は菊野家両親+妹家族です。
大地と美咲の物語を約11ヶ月にわたって綴ってきましたが、これにてめでたく大団円を迎えました。
みなさまが描いていた未来とは少し違うかもしれませんが、これも未来の一つということでここはひとつ。
美咲編の方も含めてこうして完結できたのも、多くの方に読んでいただけたことがあってのものです。 この場を借りてお礼申し上げます。 また、次の作品に取り掛かるには時間がかかると思いますが、少しテイストの違うものにもチャレンジしたいと思いますので、その時は是非また読んでください。
ありがとうございました。
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